セブンを撮った場所

その@ 世田谷篇
ルート

小田急線祖師谷大蔵駅→円谷プロダクション→東宝美術センター(現:東宝ビルド)→世田谷体育館・砧公園→瀬田教会→瀬田ずい道→東急線二子玉川駅





「ウルトラセブン」の撮影にあたって製作の円谷特技プロダクション(当時)は、東宝美術センター(通称美セン、現:東宝ビルト)のステージを3杯押さえた。ステージとは撮影所の独立したスタジオをあらわす単位のことで、杯とはサイズにかかわらずその数を指す。したがって、ステージ3杯押さえたというのは、撮影所内で独立したセットの組めるスタジオを3箇所契約したという意味。ステージ押さえもある種先物買いの要素が高く、2クールの予定で押さえたはいいが番組は1クールで打ち切りになった、という笑えない状況もままあったのだ。3杯のステージは、基地作戦室、メディカルセンターや廊下などでひとつ、ウルトラホーク1〜3号の操縦席でひとつ、そして特撮用ステージ、というように利用目的で割り振られ、利用頻度の高い作戦室や操縦席などは、撮入から撮終までの「永久セット」とされた。


当時のテレビ映画の製作スタイルは、スタジオ撮りでは同時録音、屋外ロケではアフレコというのが通常だったが、セブンではスタジオ撮りでも同時録音は採用されず、ロケも含めてオールアフレコとされた。同時録音では、常に録音機材と音声スタッフが必要となのでコストがかさむうえに、美センのスタジオ棟の屋根がトタン張りだったので、雨音が轟音のように響き渡ること、また、すぐ真裏では東名高速道路の建設工事が真っ最中で、とても同時録音ができるような環境ではなかったことなどが理由と思われる。美センは、世田谷区大蔵5丁目にある。ダンの著作には、小田急線の成城学園前駅からバスに乗って通った、と記されているが、訪問にあたっては、成城学園前駅のひとつ新宿寄りの祖師谷大蔵駅から始めてみることにしよう。そうまずは、円谷プロダクションを表敬訪問するのだ。


高架複々線化工事たけなわの小田急線祖師谷大蔵駅。都市計画自体が違法だという判決で話題となった高架化はすでに達成されて踏み切りは無くなっている。あの判決は何の意味があるのだろう。ただしもうひとつの複線高架を造る工事は継続中だ。細い商店街通りを分断する開かずの踏み切りが鳴り響いていた工事着工前とは、随分と雰囲気は変わった。
改札口を出て、「祖師谷通り」のサインのある狭い商店街通りを南に向かう。すぐ左手にバスターミナルが見える小道がある。道沿いにこじんまりとした中華料理店がある。「料理の鉄人」で鉄人:陳健一氏を破った女流料理人:五十嵐美幸嬢が総シェフを務める千歳烏山の名店「広味坊」の支店だ。オープンキッチンの店内では、うら若き乙女料理人たちがキビキビとした声を掛け合いながら中華なべを振っている。女子高の部活のような雰囲気である。五十嵐嬢の料理学校の後輩たちだろうか、他にはないオーラを持った店である。


さて、祖師谷通り商店街をぶらぶらと歩き出す。すぐに2車線ある道路と交差する。城山通りだ。城山通りを渡って南へ向かう。商店街沿いの建物の多くは改築されてミニビル化しているが、セブン当時の面影も認められる。その頃のままであろうという雰囲気の建物が現役で働いているのだ。セブンのスタッフたちもここを通ったのか、という感慨に浸れるような建物たちである。ふいにいい匂いが風に乗ってきた。ホルモン焼き「やまじゅう」からの匂いである。1本60円からという張り紙に思わず立ち寄りたくなるが、帰り道の楽しみとしておこう。店頭では持ち帰りの焼き上がりを待つ人たちが、手もち無沙汰に焼く様子を眺めている。昔日の面影を残す商店街に、のんびりとした和みの空気が、食欲を刺激する匂いと共存しているのだ。
しばらくぶらぶらと歩くうちに、商店街は途絶えて沿道は閑静な住宅街に変わる。やがて下り坂にさしかかる。右に緩やかにカーブした坂は勾配も緩やかで、右手には建ち並ぶ一戸建ての家と家との合間から多摩川方面の広い空も見え隠れしている。すると突然、左手にあの「勇姿」たちが現われた。


            

ウルトラマンだ…。
ミラーマンも立っている!…
夢工房の総本山、「円谷プロダクション」だ。
実相寺監督は著書の中で、現在の円谷プロのたたずまいについて、中庭が舗装されたことと建物のいくつかが改築されたことを述べている。実相寺監督は、#8「狙われた街」で、当時の円谷プロを第四警察署として使用している。警察署というよりは、田舎の分校のような雰囲気の建物だ。銀幕に夢を語る映画人たちからは、「あんな電気紙芝居で何が出来るんだ」と蔑まれた黎明期のテレビ映画。しかし、才能ある血気盛んな若き映像人たちは、この場所で歴史に残る最高のヒットシリーズを産みだしたのだ。彼らが激論を飛ばして闊歩した梁山泊は、今もなお往時の空気を懐に包みこみ、明日の夢を追い続けている。

            
                           ニッポンのドリームワークス



円谷プロのすぐ先に右手に入る小道がある。小道に入ると目の前に巨大なカマボコ状建物が現われる。東宝スタジオ(旧称:砧撮影所)の大ステージ棟だ。巨大カマボコの隣には、ゴジラが姿を現わし、東宝連合艦隊が出撃したあの大プールが静かな波をたたえている。撮影所の正門は別の場所であるが、この辺りにも通用門のような出入り口があったと思われる。ふいに、円谷英二監督がプールサイドとプロダクションを行ったり来たりしていた姿が想い起こされた。あの穏やかな笑みをうかべながら…。



祖師谷大蔵駅から続いた「祖師谷通り」は、円谷プロの前を通って坂道を降りると、旧世田谷通りにぶつかって終点となる。道なりに右に向かうと仙川を渡る。仙川は小金井市貫井北町の東京学芸大学の辺りに流れを発する自然河川で、祖師谷の谷を深く削った。高架になった祖師谷大蔵駅から西へ向かう小田急線の線路は、高架橋は高高架になって谷を渡り、そのまま地下に滑り込む。この間線路に高低差はほとんどない、地形のアップダウンがことのほか激しいのだ。



仙川を渡った右手に、あのスクリーンに燦然と輝く東宝マークを掲げた建物が現われた。東宝スタジオの正門である。ここからほんの少しで、世田谷通りと成城学園前駅方面への道などが交わる「砧小学校交差点」に出る。世田谷通りの新旧双方、成城学園駅方面、そして一方通行で進入禁止の細道。6本が入り乱れる複雑な交差点だ。あわただしく信号の色が変わる世田谷通りの渋滞の名所でもある。もっともセブンの頃には、世田谷通りの新道はまだ開通しておらず、車自体も少なく単純なレイアウトであったことだろう。交差点付近に「東宝前」というバス停留所がある。成城学園前駅と二子玉川駅を結ぶ路線で、ダンがバスを降りた停留所だ。



交差点で、最も狭い進入禁止の細道にコースをとる。細道の入り口にはこれもダンが寄ったかもしれない商店が昔のまま残っている。狭い道の割りに車の通行量が多く、のんびりとは歩き辛い。電柱や街路樹の陰に身を隠すようにして対向車をやり過ごす。街路樹というよりは、雑木林の面影といったほうが正確な描写だろうか、いかにも農道然の狭い道沿いには、保存樹木の指定を得たケヤキがあちらこちらに天を衝いている。世田谷というよりは武蔵野に近い面影である。



そんなモノ思いにふけながら、そぞろ歩くと「東宝ビルト」が見えてきた。複雑な交差点から5分ほどの距離だが、かかる時間以上に遠くまで来たような気分がする。正面入り口横の大きなカマボコ状のスタジオ棟に東宝マークが据えられているが、色あせたそれはまた日本映画の凋落を示しているのだろうか。立ち並ぶスタジオ棟のどれにセブン製作に使われたステージがあったのか定かではないが、ウルトラ警備隊のメンバーはこの入り口から出入りしたことは確かである。

敷地内に潜り込みたい衝動を抑えて、周りをぐるりとしてみる。正面入り口を右手に進むとすぐに急な下り坂となり、敷地も崖とともに打ち切られている。眼下には多摩川の流れと川崎の丘陵地帯が拡がるパノラマが開けている。武蔵野台地の南側の終点だ。天気が良ければ丹沢の山々を従えた霊峰富士の雄姿が美しいが、特筆すべきは夕陽の美しさだろう。ここに限らず世田谷の多摩川沿いは、武蔵野台地が急坂によって多摩川に吸い込まれるような河岸段丘が続いているので、夕刻に坂の頂点から多摩川方向を望むと、夕陽が何もかも包み込むかのようなパノラマが展開されるのだ。特殊技術の大木淳氏が特に好んだ夕陽シーンにはこのような好材料があったことも一因だったのではないだろうか。

今度は左に周ってみる。夏は暑すぎて冬は寒すぎたトタン張りの撮影所、東名高速建設工事の果てしなく続く槌音。ダンもアンヌも満田監督も、往時の撮影現場の過酷さを回顧している。現在でも建物の主建材は石膏ボードとトタンが中心のようだ。これでは効きすぎる夏の天然暖房と冬の自然クーラーだ。撮影現場の大変さに時代の進化はあまり寄与してないように思える。敷地に沿って歩いているうちに、だんだんと車の音が増えてきた。ああ東名が近いんだよな…、と思う間もなく東名高速道路に架かる次太夫橋にさしかかる。ここでは時速100キロを超える風切り音が衝撃波を伴うかのような騒音へと変貌している。橋の中途から東宝ビルトの方を眺め見ると、台地をV字に削って高速道路を通していったことがよくわかり、その大工事が発した騒音の凄まじかったことも想像に難くない。

東名高速道路を東京に向かって走行中、多摩川を渡りって終点の東京インターまであと1キロといったところの左手崖上に東宝マークが見える。このマークの下がセブンを製造していた夢工場「東宝美術センター」だったのだ。写真右中の建物がそれだ。
それにしても実相寺監督は何故に、たまプラーザまでロケに行ったのだろう。高速道路を渡る陸橋から手の付いていない自然風景を望むという画なら、美センのすぐウラで撮れたはずなのに…?



この次太夫橋から都心方向を望むとすぐ左手に緑に囲まれたゴルフ練習場のネットが見える。砧公園だ。東名高速沿いに坂を下りてネットの方へ向かいたいところだが、あいにく通れる道がないので来た道を引き返す。東宝ビルトの前を通り過ぎると、右からの道がぶつかる小さなT字路がある。目印は東宝ビルトへの案内看板。これを右に曲がって台地の斜面を整地して開発された新しい住宅地を貫く坂道を下る。坂の下には仙川が流れており、渡るとすぐに上り坂が始まる。仙川によって削られた深い谷の続きだ。東名高速は高架橋で一跨ぎする谷であるが、徒歩では非効率な運動を強いられる。坂の上はうっそうと茂った木立に囲まれている。もう公園の敷地なのだろう。登りきると左手に陸上競技場が現われた。そして競技場の傍らには、独特な三角形の屋根が見える。世田谷区立体育館である。


体育館の中では、フルハシのトランポリン、第四惑星の公開処刑場、最終回の焦燥のダンなどが撮影され、体育館前の広場周辺では、ペガッサ星人VSセブン、消失したマヤを想いつつ歩いたダンがポインターに乗り込む、警察官を襲う猿人ゴリー、最終回の行き倒れのダンなどが撮影された。また、隣接する砧公園でも、パラシュート降下のキリヤマ隊長たち、セブン弾を発射するフルハシたちなどの撮影地とされた。美センから上り下りはあっても、徒歩で10分足らずの手ごろなロケ地だったのだ。


体育館のある敷地と隣接する砧公園を縦断するように大蔵通りが南北に貫いている。ここには成城学園前駅と二子玉川駅を結ぶ路線バスが走っている。大蔵通りを南方向へ歩きだす。公園橋で東名高速を越し、松任谷正隆・由美夫妻の居住地で有名になった岡本の閑静な住宅地に入る。岡本三丁目の交差点を左折するが、ここを右折すると多摩川へ吸い込まれるような急な坂道がある。通称「東京日産の坂」。その昔、レンタカーでジャンプして遊んだ記憶がある。同じことをNHKドラマ「私が愛したウルトラセブン」でポインターがやっていた。飛びたくなる本能を刺激する傾斜なのである。


岡本三丁目を左折、次の岡本一丁目交差点は右折して長い坂を下る。左から丸子川が接近して来る。元は自然河川の丸子川もコンクリートのカミソリ護岸に囲まれた巨大排水路に変貌させられた。見渡すと緑豊かな雑木林が多く残るこの界隈でひどく人工的な不釣合いな代物だ。丸子川を渡ると道は大きく右に湾曲し「静嘉堂文庫」停留所が現われる。一度は離れた丸子川が今度は直交する。左手に折れて川沿いの道を進む。丸子川の流れは暗渠のまま右手に分かれるが、ここからの丸子川は六郷用水の水路に組み込まれたため、自然と人工が巧みに織りなされた独特の雰囲気を持っている。沿道の大木の茂りが直射日光を遮断し、流れのせせらぎが程よいリズムをつくりだす、極上の散歩道といった風情なのである。400メートルほど進み、左側にNTTがある十字路を左折する。右折すると二子玉川商店街。玉川高島屋などに代表されるニコタマイメージとは裏腹な庶民的かつ下町的商店街は日がな賑わっている。


十字路を左折すると正面に上り坂が待っている。この辺も多摩川へ向う河岸段丘の崖線が続いているので、複雑なアップダウンが激しい地形なのである。坂を登りきった変形十字路を右に曲がると「カトリック瀬田教会」がある。T字路に面した正面から中を望むと、記憶の奥底から祝福の鐘の音が聞こえてくるようだ。そうここは、サイボーグに改造されたが無事に生還したノガワがフィアンセのサナエと晴れて結婚式を挙げた教会だ。今立っているところでライスシャワーが蒔かれ、空き缶を引いた新婚さんの車が走ったのだ。新婚さんの車が向かった方向には、「瀬田パークアベニュー」が頑張っている。バブル期には超高級会員制スポーツジム「スポーツコネクション」だったが、温泉採掘に成功してからは「山河の湯」という気持ちのいい露天風呂がウリの日帰り温泉に商売替えをした。
今は昔、PADIのCライセンスをとるために、スポーツコネクションのダイビングスクールへ通っていた頃、高嶺の花であったジム会員専用の庭園プールは、今や露天風呂に変貌したのであった。


瀬田教会へT字でぶつかる道へ向かう。正面には交通量の多い道路が車の騒音とともに近づいてくる。環状八号線だ。環八に出たら右折して「瀬田交差点」で玉川通りを渡る。このまま環八を歩く手もあるが、それではあまりにも能がないうえに騒音と排気ガスでどうにかなってしまいそうだ。交差点を渡ったら多摩川方向に向きを変えて、交番の左側を斜めに入っていく道を選ぶ。この道は玉川通りの旧道、かつての大山街道の名残で、坂の途中から開けるパノラマは、江戸時代から眺望絶景の行善寺下と云われ、大山街道の坂道といえばこの場所の代名詞だった。十一代家斉将軍と十三代家定将軍もこの地を遊覧し、絶景を楽しんだのである。


坂の途中でグリーンベルトが途切れて、地下から電車が顔を出す。2000年夏までは新玉川線と呼ばれていた玉電の地下鉄バージョン新線だ。地上のグリーンベルトは玉電線路跡だったのだ。線路と道路の高さがほぼ同じになった辺りの左手に、鬱蒼とした雑木林へ吸い込まれてゆくような石段がある。三十九段の石段を登りきると浄土宗の古刹、行善寺の山門だ。多摩川へ向かって真っ直ぐに下る行善寺坂を川原に向かう。三叉路を左に折れて、セントメリーインターナショナルスクールを右手に進む。そこを抜けると切り通しの2車線の坂道にぶつかる。上野毛通りである。上野毛通りの坂を50メートルほど左へ進み、ひとつ目のT字路を右折する。S字に湾曲したバスも走る交通量の多い坂道なので周囲の注意が必要だ。すぐ左手は多摩美術大学のキャンパスで、敷地が終わるひとつ目の十字路を左に折れて環八通りにぶつかる右の角に、四川料理の神様:陳建民氏の愛弟子:久田万吉氏がオーナーシェフの「吉華」がある。テレビの料理番組でも活躍中の久田氏の香油と山椒が刺激的な名品「麻婆豆腐」に後ろ髪を引かれながらやり過ごす。やがて大井町線を越えると「五島美術館」が右手の木立の中にある。東急グループの創設者:五島慶太氏が生前に収集した東洋古美術品が展示の中心で、中でも茶道具や陶磁器の貯蔵が特筆される美術館である。


美術館前の道を800メートルほど直進すると高架橋がオーバーパスしている。上は第三京浜道路、ここが瀬田ずい道である。防衛軍基地に搬入された死体が警備員に射殺されるシーンは、このずい道内で撮影された。夜のシーンなのでスタジオセットかと思いきやロケーション撮影だったのだ。車道と歩道をセパレートする円柱状のコンクリート柱が特徴的だ。撮影当時は第三京浜も出来たてのホヤホヤで真っ平な壁面だったが、現在ではここもポップな落書きに彩られている。


第三京浜道路はセブン放映の年に開通した往復6車線の自動車専用道路で、環八に接した玉川ICから横浜の三ツ沢ICまでの10キロ弱の里程だ。混雑が少なく料金が安いことから「有料道路の優等生」と呼べる。そういえば昔仲間内で、イーグルスの名曲「ホテルカリフォル二ア」の12インチ版の演奏時間にピッタリ合わせるように第三京浜を走り抜けることが流行ったことがあった。



ずい道をくぐり抜けたら右へ向かう。急な坂道を転げ落ちるように下ると丸子川が流れている。丸子川を越えて多摩堤通りを渡って土手の上に出る。右手の多摩川上流に二子玉川駅がホームの半分以上を川の上に突き出してそびえている。ゴールまであと少し、川風と親しみながらフクシン君になったつもりで駅に向かう。










そんなに歩けないよぉ…
ショートカットのご案内


(ア) 成城学園前駅→東宝ビルト
始発点を祖師谷大蔵駅ではなく成城学園前駅に変更します。この方が急行なども停車するので使い勝手は良いです。南口のバス乗り場から二子玉川駅行きを選択します。小田急バスと東急バスの共同路線なのでどちらに乗っても同じです。4つ目の「東宝前」で下車します。ダンの通勤ルートですね。


(イ) 世田谷体育館→瀬田教会
世田谷体育館前の大蔵通りの「区立総合運動場」から二子玉川駅行きの路線バスに乗りましょう。狭い道を走るのに適した小型のバスの「東急コーチ」です。コーチといっても何か教えてくれるわけではありません。「静嘉堂文庫」まで乗りましょう。


(ウ) 瀬田教会→瀬田ずい道
瀬田パークアベニュー「山河の湯」のユニークな送迎バスか、向かいの玉川高島屋ガーデン館と本館を結ぶ連絡バスのどちらかで二子玉川駅付近まで行きます。そこから大井町線でひとつ隣の上野毛駅へ。上野毛駅からは五島美術館への案内表示に従います。美術館前から徒歩ルートに合流してください。


(エ) 瀬田ずい道→二子玉川駅
多摩堤通りを東急東横線多摩川駅と二子玉川駅を結ぶ路線バスが走っています。第三京浜のガード下辺りに「東急乗馬学校前」という停留所があります。





ホッと一息…
終点辺りのお勧め処


二子玉川の代名詞ともいえる「玉川高島屋SC」。その裏手には二子玉川商店街などの下町的な光景も見受けられ、なんとなくホッとする。バス通りからその商店街に入ると遊歩道が直交している。右手を見る玉川通りから真直ぐにつながっているように見え、左手もずっと先まで直進している。この遊歩道はセブン放映の翌年に廃止された東急砧線の路線敷を整備したものだ。
主に国道246号線を走って、渋谷と二子玉川園を結んでいた東急玉川線こと「玉電」には、途中の三軒茶屋から京王線下高井戸に抜ける下高井戸線と二子玉川園と砧本村を結ぶ砧線という支線があった。1969(昭和44)年5月、本線と砧線は廃止されたが、下高井戸線は世田谷線と改称して生き残り、全車両を新型に置き換えて新世紀を迎えている。廃止となった砧線が走っていた跡地の一部が、この遊歩道として整備されたのだった。また、多摩堤通りの吉沢交差点から野川を渡る橋やその先の砧本村に続くバス通りも砧線の遺産である。廃止の数年前に架け替えられた橋は線路をアスファルト道路に変えて今日も現役で活躍している。
バス通りの「中耕地」停留所辺りにノボリが川風にはためいている。「玉川大勝庵」のノボリである。「玉川大勝庵」のキャッチコピーは「世田谷ロマン・砧線(玉電)に会える店」。その宣伝文句に偽りはなく、店内は文字通り玉電一色だ。大の玉電ファンの実相寺監督は、200形電車ペコちゃんにご執心だったようであるが、そのペコちゃんの写真ももちろん鎮座している。玉電に囲まれつつ、まずは一献…。セブンの頃現役だった玉電のメモリアルとともに、細く打たれたソバを喉に通す…。小旅行の疲れを癒すには最適の空間がここにある。