「怪奇な京都を巡る」
「怪奇な京都を巡る PartT」
03年12月 常寂光寺→二尊院→化野念仏寺→平野屋→祇王寺
出張最終日の半日を充てた嵯峨野巡りだった。宿泊先の「東横イン四条烏丸」に荷物を預け、地下の烏丸
駅から阪急京都線に乗り込み、嵐山へ向かった。
京都独特の場所表記「上ル下ル東入ル西入ル」がよくわからないという声をよく耳
にする。しかし駅名もまたややこしい。
京都の街を南北に貫く地下鉄烏丸線は、南北端を除いて烏丸通りの地下を走ってい
るため、御池通りの地下を走る地下鉄東西線との連絡駅「烏丸御池駅」を除いて、
駅名に烏丸は冠さない。交差する東西の通り名が駅名になっている。
つまり、地上の交差点名が「四条烏丸」であっても駅名は「四条」と素っ気ない。
しかも地下鉄「四条」駅は、阪急京都線「烏丸」駅と交差・連絡している乗換駅な
のだ。そのうえ地下鉄「四条」駅から800m以上離れた所に、京阪電鉄の「四条」
駅がある。地下鉄と京阪電鉄の「五条」駅と「丸太町」駅もまた然りである。
観光スポットでは「嵐山」に注意が必要だ。
JR西日本は「嵯峨嵐山」駅、京福電鉄は「嵐山」駅、阪急電鉄も「嵐山」駅と、こ
れらの3駅は、バラバラの場所にあるうえに、それぞれの距離も離れている。
西院を過ぎて地上に出た電車は、西京極総合運動公園をかすめて通る。車窓からは野球場が確認できた。阪
急ブレーブス健在時のサブフランチャイズ「西京極球場」だ。かつては京都でもプロ野球が開催されていた
のだ。感慨に浸る間もなく桂川を渡り、電車は桂駅に到着した。桂駅で阪急嵐山線に乗り換える。三つ目が
終点の阪急電鉄「嵐山」駅。ここから「常寂光寺」までは1.5qほど。いよいよクライマックス、牧が美弥子
を求めて彷徨った嵯峨野巡りの始まりだ。
駅前にレンタサイクルがあることは確認済みだったので、自転車を借りて渡月
橋へ向かう。曇天の桂川を吹きぬける風は冷たいというよりも痛いくらいだ。
土産物店や湯豆腐料理店を通り過ぎると、野宮神社へ通じる小道が現れた。左
折して小道に入る。竹に囲まれた小道には、寒さの中にも凛とした空気が感じ
られる。竹林の中をしばらく進むと、上り坂に差しかかった。登りつめた所で
左右に走る小道に突き当たる。常寂光寺への案内板に従って右折。旧山陰本線
の線路を利用したトロッコ観光鉄道のトロッコ嵐山駅を眼下に望むと下り坂。
坂の下には、小さな池が見える。小倉池の水辺を抜けると穏やかな農村風景が
広がった。常寂光寺は、もうすぐだ。
「常寂光寺」は、小倉百人一首で知られる小倉山の中腹にある。寺名は閑
静な小倉山の地に常寂光土の趣をもつことに由来しているそうだ。藤原定
家の山荘「時雨亭」があった所と伝えられる。
定家が詠んだ「忍ばれむ物ともなしに小倉山軒端の松ぞなれてひさしき」
に因んで、「軒端(のきは)寺」とも呼ばれる。
画面に写る茅葺の門は「仁王門」。本圀寺から移築された仁王門は南北朝
時代の建立で、1976年(昭和51年)に解体修理が行われた。確かに画面で
見るより新しい。
「常寂光寺」から「二尊院」までは200mほど。案内板に従えば道に迷うこ
ともない。嵯峨野らしい落ち着いた雰囲気の良い道だ。
「二尊院」の寺名は、釈迦如来と阿弥陀如来との二体の本尊に因む。
江戸期の豪商、角倉了以が寄進した総門の先に、広い緩やかな石段が続く。こ
こは紅葉の名所で「紅葉の馬場」と呼ばれているが、石段の両側に植えられて
いるのは桜だ。紅葉もさることながら花の時期ともなれば、さぞや見事な「桜
の馬場」となることだろう。
100mほど続く緩い石段の先に本堂があるが、撮影された石段はまだ先だ。本
堂の脇から湛空上人の廟所へと続く急な石段がそれである。傾斜はきつく、段
の角も磨り減っている。足元への注意が欠かせない。画面にはなかった石段中
央部の手すりに随分と助けられた。
「二尊院」を背に、左へ進路をとる。間もなく嵯峨の釈迦堂から愛宕下へ通じ
る嵯峨野散策のメインストリート「愛宕街道」に突き当たる。左へ折れ150m
ほど進むと「祇王寺」へ向かう道が分かれる。やはりラストシーンは最後にし
よう。愛宕街道をそのまま進む。
すると「重要伝統的建築物保存地区」に指定された「鳥居本」の町並みが、緩
やかな上り坂に続いている。緑豊かな嵯峨野の自然に抱かれた、歴史ある町並
みに心は癒される。自転車を降り、のんびりとヒーリングを楽しんだ。左右に
くねりながら緩やかに上ってゆくと、やがて左手に「化野念仏寺」へ続く石段
が現れた。
「化野念仏寺」は無縁石仏で知られる。化野(あだしの)の地は古くから、
鳥辺野(とりべの)や蓮台野(れんだいの)とともに葬送地とされていた。
寺の前身は、葬られた人々を追善するために、空海が開いたと伝えられる。
後に、法然が念仏道場としたことから、寺の名が「化野念仏寺」となった。
境内に祀られる石仏や石塔は8000体を数える。化野の山野に散乱埋没して
いた石仏を、明治中期から地元の人々の協力を得て集めたものだ。石仏・石
塔が肩を寄せ合うように建ち並ぶ姿は、さいの河原の有様を記した空也上人
の地蔵和讃「一重つんでは父の為、二重つんでは母の為…」を連想させるこ
とから「西院の河原」と呼ばれている。無常観を感じぜずにはいられない。
愛宕街道に戻り坂道を登る。高架道路が頭上をパスする手前に、「嵯峨鳥居
本町なみ保存館」がある。鳥居本(とりいもと)の町並みは、愛宕神社の門
前町として発展した。保存館は、明治初期の建物を修復したもので、牛馬を
繋ぐため通りに設けられた「駒寄」や折りたたみ式縁台「ばったり床机」が
見られる。また内部土間には、京式竈の「おくどさん」も復元されている。
やがて鳥居が見えてくる。愛宕神社「一の鳥居」だ。一の鳥居の先に茅葺屋根
の大きな建物がある。牧が一息入れた「平野屋」だ。
「平野屋」は400年の歴史を誇る鮎料理の老舗。鮎の漁期である6〜10月の時
期は、保津川上流で一本釣りされた鮎が味わえる。
暖を取ろうと座敷に上る。座卓の横には火鉢が置かれている。店の奥に目をや
ると、先ほどの「町なみ保存館」で見学した「おくどさん」が現役で使われて
いた。今度は料理も味わいたいと思いつつ、甘酒で身体を温める。
「平野屋」甘酒630円。右京区鳥居本仙翁町16 075-861-0359
愛宕街道を戻る。坂を下り祇王寺への分岐を右折。いよいよクライマックスだ。
祇王寺には哀しい女性の物語が伝えられている。
平清盛が権勢を誇った頃、白拍子の上手と聞こえた姉妹がいた。姉が祇王、
妹は祇女といった。
「白拍子」とは「今様」という流行歌を歌い「舞」を舞う女芸能者のことを
指し、特に、男装の遊女で男舞に長けた者を「白拍子」ととも呼ぶようにな
った。その装束は、五条大橋で弁慶と対峙した義経のそれである。
祇王は、若き美貌と美しい芸で、清盛の寵を得た。大権力者の寵愛を一身に集
めた祇王は、妹や母とともに安穏に暮らしていた。そこへ現れたのが、白拍
子として評判が上りつつある仏御前だった。
仏御前は、一度は門前払いをされながらも、祇王のとりなしで清盛の前で舞
う機会を得た。その舞は清盛の心を震えさせた。清盛は、たちまち仏御前の
虜となった。
こうなると、昨日までの寵愛はどこへやら、祇王ら三人は追われるように清
盛館を後にした。現世の無常を嘆いた三人は、現世を捨てる決心をして、嵯
峨野の地へ向かった。そして、湛空上人の弟子となり、尼となった。
念仏に明け暮れるある日、祇王らを訪ねてきた者がいた。仏御前であった。
仏御前は、祇王の不幸に無常を感じて清盛館を出てきたと言って、被ってい
た衣を払った。なんとそこには剃髪した尼の姿があった。仏御前齢十七の決
断である。この後、四人は一緒に籠って仏門に生涯を遂げた。
「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に逢はで果つべき」
祇王が清盛館に残した一首である。
仏御前も祇王の心情を察し無常を悟ったのであろう。
なんという哀話であろうか。
祇王のエピソードからも、美弥子を捜し求めた牧が再会する場所は、祇王寺
をおいては他にないと思われた。そして、祇王と縁のある湛空上人の廟所が
ある「二尊院」、無常観あふれる「化野念仏寺」。
まさに、メロドラマのラストを締めるに相応しいロケ地選定だ。
実は今回、デジカメのバッテリーがエンプティだった…。
なので、一枚の画像すらも撮影することできなかった…。
リベンジを胸に、薄暗くなりかけた嵯峨野を後にした。
以上の理由から、ここに掲載されている写真は、後に訪れた際に撮影したもの
です。文字ばかりでは疲れますので、便宜上差し込みました。
「どうぞ、あなた様もご了承になってくださいませ…」
「怪奇な京都を巡る PartU」
「怪奇な京都を巡る PartT」 12/FEB/2006
Copyright (C) 2006 Okuya Hiroshima All Rights Reserved