セブンを撮った場所 番外篇



「怪奇な京都を巡る」







05年9月 「怪奇な京都を巡る PartV」


常寂光寺→二尊院→化野念仏寺→平野屋→祇王寺→妙顕寺→金戒光明寺


05年9月上旬、とある京都ロケ隊に便乗して、当サイトのお客
様ギエロンさんとロケ地巡りをした。

京都は、冬の寒さもさることながら、夏の暑さが厳しいことで
も有名だ。浴衣姿で鴨川辺りを散策しようと、和装一式を詰め
込んで、新幹線に飛び乗った。撮影は順調に終了し、
最終日の
半日を利用して嵯峨野を巡った。

台風一過のドピーカンは町中の湿気を吸い上げる。ほんのちょ
っと動くだけでも汗がにじむほどだ。二日酔いの重い頭で、宿
泊先の「サンルート京都」を出発し、阪急京都線で嵐山へ向っ
た。「PartT」と同様に、阪急嵐山駅前からレンタサイクルで
回るつもりだ。猛烈な蒸し暑さに二日酔いの身体がどこまで持
つかが気がかりだった。



            嵐山駅から渡月橋へ。水面に輝く陽光がまぶしい。やはり水辺は夏に限
         る。しかし早くも汗がにじんできた。身体中の水分が熱気となってTシ
         ャツの中にたまっているような気がする。
         渡月橋を渡りながら左手前方の河畔の料理店に目をやる。寅さん映画の
         第2作「続男はつらいよ」の劇中で、すき焼きを食べていた店ってあの
         辺だったよな…、暑さのあまり、ワケのわからん事を考え始める。


         


         天龍寺脇の竹林に入ると一息つけた。直射日光を遮いでひんやりとした
         空気を与えてくれる。身体を通る風が涼しく感じてきた。上り坂を避け
         るため、野宮神社の前を直進する。竹林コースは魅力だが登りとなれば
         話は別である。常寂光寺への案内看板に従ってペダルを踏んだ。



                        


            一回目の給水作業、自転車置き場にあった自販機で「CCレモン500t」。
         常寂光寺の木陰で汗が引くのを待ち、二尊院へ。確か二尊院には茶店が
         あったな、と思いつつ…。2
分とかからず二尊院に着いた。とても急石
         段に挑戦する気にはなれず、ギエロンさんひとりを地獄に送り、茶店の
         赤毛氈に座り込む。


         二回目の給水作業、茶店の「氷水」
。氷ミズではない、氷スイである。
         今どきあるのも珍しいので注文した。かき氷に砂糖水を掛けたものだが
         甘さにコクがあった。三温糖かザラメだろうか、疲れた身体にはうれし
         い甘さだった。

         しばらくすると、
汗だくでギエロンさんが帰ってきた。さすがに石段は
         リタイヤしたそうだが、馬場の坂だけでもたいしたものだ。少し休んで
         から鳥居本(とりいもと)へ向かった。


             
       

         昔日の面影を残す緩やかな坂道は、くねくねと曲がりながら様々な表情
         を見せて、旅人の心を和ませてくれる、と持ち上げたいところだが、こ
         の状況では無理。いち早く立ちこぎから脱落して、汗みどろに自転車を
         押す姿は、その昔、坂道で待機していた荷押し人足そのものだ。

         ようやく、ようやく化野念仏寺に到達した。ふと道端に目をやると、そ
         こには赤いオアシスがあった。

         三回目の給水作業、土産物店脇の自販機「ダイエットコーラ
500t」

       
  上りっ放しの体温を下げてくれる期待とともに念仏寺への石段を登る。
         冬季とはうって変わり、深緑の山々を背にした石仏たち。しかし、粛々
         と整列する彼らに、背景の彩りは無関係だった。


               

         人は、生まれ、生きて、そして死ぬ。綿々と重ね続けられた歴史はまた
         人の死の積み重ねでもあったのだ。この石仏に祀られた無縁仏の生前は
         どんな人生だったのだろうか。歴史書の一文字も飾ることなく朽ち果て
         ていった人生とは何だったのだろうか。

               

         しかし間違いなく言えることがひとつある。我々が生きている現在は、
         大した陵墓も作られずに、土に還った人々の上に成り立っているのだ。
         亡然とした冬の立ち枯れの中では感じなかったことが、生命の象徴たる
         深緑を背景にすると、より明確に感じ得ることができたのであった。


                      


         汗も引き、体温も落ち着いた、ような気分で平野屋へ。店頭で「牧ポー
         ズ」を決めるギエロンさんを撮影した後、店内へ。
         表から見ると平屋造りの建物だが、渓流に沿った一段低い所にも座敷が
         設けられている。窓を開ければ天然の川床だ。地面レベルの喫茶座敷に
         も心地良い川風が流れ込んでくる。
         自然とともに生きた日本人の生活の智恵が、そこには生きづいていた。



                      

         夏の祇王寺は、生き生きとしていた。頭上の枝葉に遮られ、ほど良い陽
         光を得た苔たちは、胸をはってその存在をアピールしている。
         苔寺の通称で知られる、世界遺産「西芳寺」の庭園の素晴らしさは、筆
         舌に語り尽くせるものではないが、予約制の拝観が面倒だ。苔生した庭
         園では、大原三千院の瑠璃光庭も高名であるが、大原では遠すぎる。
         その点、小ぶりながらも一面の苔に覆われた庭を持つ祇王寺は、苔生す
         庭園の良さを味わうダークホースといえよう。


                      

            本堂に赴くと、たまたまボランティアらしい方が観光客相手に由緒を話
         していた。哀話「祇王」のくだりだ。正座して傾聴させていただいた。
         ことばを「言の葉」というが、全くその通りだ。活字を読むのとことば
         を聞くのとは大違い。気持ちの入った語り部が紡ぐ「ことば」は、魂を
         揺さぶる「言の葉」であると実感したのであった。



       
  阪急嵐山駅へ戻り、自転車を返す。妙顕寺へ行くため烏丸駅へ向かう。
       
   市営地下鉄への乗り換えの隙間に遅い昼食をとる。四条烏丸交差点から
         西に入った大衆食堂「萬福」だ。
         市街地中心部の四条通りに面する店としては珍しい、町家造りの小さな
         店にはオーラがある。ギエロンさんに、誰もが食する京風料理より「大
         衆食堂はいかが」と、半ば強引にお連れしたのだった。

         注文は「中華そば」。「新福菜館」や「ますたに」に代表される濃い味
         の「京都ラーメン」とは全く違う、ましてや一時流行った「京風ラーメ
         ン」とは一線を画す。京都庶民の「京都ラーメン」がそこにはあった。
         見た目は東京の伝統的なラーメンのようだが、ツユをすすると、強調さ
         れた昆布出汁と鶏出汁のバランスが堪能できる。麺は京都ならではの柔
         かさ、これはこれで文化なのだ。特に「旨い」とはいうことなしに箸は
         進む。気がつくと丼は空に、これこそが「上手い」ということなのだ。


             
           
  「萬福」中華そば500下京区鶏鉾町 075-221-4712


            地下鉄四条駅から今出川駅へ。進行方向先頭の出口で地上に上る。烏丸
         通りに沿ってしばらく北上。左手に室町小学校が現れる。足利三代将軍
         義満が、「花の御所」と呼ばれた壮大な自邸を構えた一部分だ。足利将
         軍時代が室町時代と呼ばれる由縁である。サークルK手前の寺之内通り
         を左に入る。しばらく道なりに進む。道がゆらゆら見えてきた。だんだ
         んと暑さが増してきたようだ。もしや、あの寺はもう燃えているのか。


                      

         新装開店したような妙顕寺で、ミニチュア撮影を話題に盛り上がる。駐
         車場と境内を分けるコンクリート塀のおかげで、炎上シーンのアングル
         が取れない。残念なことである。
         四回目の給水作業。妙顕寺近くのコンビニで「まるごとミカン」

       

       
  帰りの新幹線にはまだ間があったので、タクシーで黒谷へ。クーラーの
         冷気が心地良い。今出川通りから川端通りを経て、聖護院前を抜けると
         黒谷さん。会津藩本陣跡の大きな看板が掲げられる高麗門から、広大な
         金戒光明寺の境内に入った。

                      

           江戸に幕府を開いた徳川家康は、京都直轄支配に力を注いだ。京都所司
         代を置いて朝廷に目を光らせ、幕府京都出張所として二条城を築いた。
         また有事の際、大軍が駐屯できるように城砦構えの大寺院を整備した。
         知恩院と金戒光明寺がそれである。

       
  1862
年(文久2年)の年末、京都守護職に就いた会津藩主の松平容保は

         千名を超える家臣団とともに入京した

         黒谷は小高い丘陵の要害で、特に西方の眺望が開けている。山内の塔頭
         西翁院にある茶室「澱見席(よどみのせき)」は、遠く天王山や淀川ま
         で望めたのでその名がある。

         四万坪に渡る広大な境内には数多くの塔頭が点在している。これも大軍
         の宿舎に転用することを目的としたようだ。会津藩
の千名を超える進駐
         軍は、大小
52を数える宿坊のうち25ヶ寺に寄宿した記録が残っている。

               

         同じ頃、将軍上洛警備のために結成された「浪士組」は、京都守護職預か
         りとなった。
1863年(文久3年)夏、浪士組の近藤勇と芹沢鴨らは黒谷で
         京都守護職の松平容保に拝謁し「新選組」と命名された。

         「新選組」は、武芸に秀でた藩士の師弟から構成される会津藩の由緒ある
         隊名である。市中取締の命を受けた「新選組」は、壬生に屯所を設けて、
         黒谷の守護職本陣との連絡を密にした。



             会津藩の物見が目を凝らした三門では、美弥子が京都の都市化を嘆いた。
         新選組の隊士が駆け抜けた石段では、雲水を率きつれた美弥子が歩いた。
         軍馬がひしめき合った塔頭の路地では、牧と美弥子の恋話が展開された。
         京都の歴史の奥深さを感じぜずにはいられない。しばし、言葉を失った。




ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。
世中にある、人と栖と、又かくのごとし。

鴨長明「方丈記」より






「怪奇な京都を巡る PartW」





         





 「怪奇な京都を巡る PartV」  18/FEB/2006
Copyright (C) 2006 Okuya Hiroshima All Rights Reserved