セブンを撮った場所 番外篇



「怪奇な京都を巡る」







「怪奇な京都を巡る PartY」

ロケ地特定への足がかり





撮影手順を考える




「もうひとつは『怪奇大作戦』の「呪いの壺」で、主人公が実家に
帰る件である。山陰本線で
、C57が牽引する列車を撮った。山陰
本線八木駅で撮ったものだが、ナンバーは
C57127である。」

(実相寺昭雄著「ウルトラマンの東京」ちくま文庫刊より)






山陰本線京都口の無煙化が達成されたのは1971年4月。怪奇大作戦京都篇のロケが行われ
68年末〜69年初頃は、細々とではあるが、C57が旅客列車や貨物列車を牽引していた。
当時の梅小路機関区の所属
は、C575C5715C5739、C5789C57127C571906両。

C57は、旧鉄道省が1937(昭和12)から製造を始めた幹線用大型機で、1947年(昭和22
)までに201両が製造された。機関車全体の大きさの割には、細目のボイラーが採用され
均整の取れたスタイルをしていることから「貴婦人」と呼ばれた。
C57CD51Dのアル
ファベットは駆動輪の数を表わす。
Cは駆動輪3軸、Dは駆動輪4軸のことだ。C573軸の
駆動輪の前に先輪
2軸、後ろに従輪1軸の軸配置で、急なカーブも曲がりやすかった。また
一軸当りの軸重も軽いため、旧国鉄の一部ローカル線区を除き全国で使うことができた。


1975年(昭和50年)12月、我が国の蒸気機関車の歴史にピリオドが打たれた。北海道の室
蘭本線での運転を最後に、蒸気機関車牽引による定期旅客列車はなくなった。最後
のSLは
C57「貴婦人」
であった。時を経て1979年(昭和54年)復活運転された「SLやまぐち号」
の牽引に
「貴婦人」が指名された。集塵対策装置が頭上に載せられ、優雅なボディのバラン
スは崩れたものの、「貴婦人」復活にファンの視線は熱かった。それから四半世紀の歴史
が刻まれ、
C571(やまぐち号)とC57180(ばんえつ物語号)は黒煙を吐き続けている。

     

68年頃、梅小路機関区に所属したC57は、山陰本線の京都から園部までの区間列車を主体
に担当した。山陰本線京都口と呼ばれる区間である。午前と午後の各一往復の他に、夕方
に京都を出て園部で停泊し翌朝京都に戻る、という変則的な一日三往復の運用であった。



ロケ現場では、時間と予算に制限が多い。そこで、限られた現場での撮影の流れを考えて
みたい。特に京都篇は、ひとつのロケ地区内で、短距離移動を繰り返して撮影されている
ので、撮影手順への考察が、未解決ロケ地確定への手がかりとなるかもしれないからだ。


「統三が信子はんを伴って実家に帰る」一連のシーンは、撮影日が快晴だったためか、ど
のカットにも陽光が溢れている。これをポイントに画面を検証してみる。画面から得られ
る情報は何を意味するか。それは太陽の方向と影の長さが、撮影時間帯を示す可能性だ。




@走り去る列車。



後方から写された列車には、進行方向正面やや
右上から陽が当っている。太陽の位置は高い。




A列車内俯瞰



列車内では進行方向左手から陽が当っている。
列車内の日向から太陽の位置はやや高い。




B列車内個人アップ




統三から三沢たちへパンする際、進行方向左手か
ら陽が差している。この太陽の位置もやや高い。




C駅に着く列車



停車するタイミングで、駅舎に入る人が右に写る。
その影の方向が画面奥に向かって短かいことから、
太陽は列車進行方向ほぼ正面にあり、位置は高い。




D改札口



改札を通る旅客と駅員のやり取りの時に影がある。
その方向は画面右奥、駅舎の外側から差している。
駅員に映る鶏の影の角度から、太陽の位置は高い。




E駅舎前



駅舎から出る統三と信子はんの後に写る老婆の影は
画面奥へ短い。画面手前の高い位置に太陽はある。




F統三の実家



八木駅のシーンより影は長い。
太陽の位置は、やや低い。




実際に八木駅へ行ってみると、現在の駅舎は京都へ向かう進行方向左手にあった。周辺は都
市化のため昔日の面影はないが、駅舎の正面方向はそう変わるものではない。画面の
C57
進行方向の左手にホームと駅舎があるので、現在位置で考えると、京都行きの上り列車だ。

先に記したように、当時の山陰本線におけるC57運用は、午前一往復、午後一往復と夕方の
下りと早朝の上りの変則的な三往復。後の電化と保津峡の新線切り替えによって、スピード
アップした現在、京都駅から八木駅までの所要時間は約
50分である。蒸気機関車の平均速度
は、電車の約半分ほどの鈍足。旧線時代の距離は現在よりも若干長かった。これらのことか
ら、京都駅から八木駅までの所要時間は、現在の倍以上
2時間を超えていたと考えられる。

ABの車内シーンは、午前の一往復のうち、京都発園部行きの車内で撮影。陽の具合から午
10時を過ぎた頃か。車内でのセッティングやテストの時間を考慮すると、京都駅を出発し
たのは午前9時頃と思われる。この時刻ならば八木駅に到着するのは、午前
11時30分頃か。

CDEの駅改札口や駅前のシーンでは、地面に写る影は短めで、陽射しの角度も高い。太陽
が真上に近い、南中前後の時間帯に撮影されたようだ。先の列車ダイヤであれば、時間的に
符合する。しかしCの列車は、進行方向と駅舎の位置関係から「京都行きの上り列車」と思
われるので、車内シーンを撮りながら乗ってきた列車とは、別の列車ではないかと考える。


C57127
の牽引する列車は、八木駅から二駅目の園部駅が終点で、ここから京都駅へ向けて
折り返す。両駅間の所要時間は現行ダイヤで7分
。当時は倍と考える15分はかかる。園部駅
では、給炭水と転車を行うので、およそ
1時間は停車していただろう。ならば、上り列車を
引いた
C57127が再び八木駅に姿を現すのは、最初の到着から1時間半から2時間後となる。

「下り列車園部行き」が八木駅に到着したのが午前11時30分とすると、折り返しの「上り列
車京都行き」が八木駅に到着するのは、午後1時から2時の間である。下り列車の到着から上
り列車の到着の間に、駅改札口や駅前のシーンを撮り終えて、線路横に機材を移してスタン
バイ。八木駅に入る上り列車と、切り返しで走り去る列車をカメラに収める。その後に「統
三実家の外シーン」のロケ現場へ向かう。「実家外シーン」の陽はやや弱く、影も長くなり
始めているのが、画面から見て取れる。時刻は午後
3時過ぎ、だったのではないだろうか。



Gリュート物質の隠し場所



このシーンでは陽は翳っている。同じ場所では「SRI捜索シーン」や
「ラストシーン」も撮られているので、別日の撮影である可能性が高い。






画面と地図を比較する





画面には、様々な情報が写りこんでいる。以下は「京都買います」のエ
ンディング画像の一部であるが、これを例に撮影地を推測してみよう。





@川端から見た京都タワー


先ず、「@川端から見た京都タワー」であるが、河原へ打ち込まれた木杭
の様子から大きな河川の岸辺であると考えられる。京都タワーが望める位
置に流れる大規模河川は「鴨川」と「桂川」である。地図を見てみよう。

手元にある1:15000の京都都市地図では、京都タワーが望めそうな角度の
桂川左岸は、緑地公園が造成されていたり、築堤上の道路位置から堤防内
の緩衝地帯となっていたりしている。一方、鴨川右岸は川端ぎりぎりまで
生活道路が記されており、市街化が進んでいる様子が読み取れる。これら
の事象から、@の画面は鴨川から撮影された可能性が高いと推測できる。

河岸の建物の向きから流れは斜行している。また、京都タワーとの位置関
係も考慮しなければならない。そこで鴨川の流れを地図上でたどってみる
と、九条通りの下流、東福寺の西方辺りで南北から南西に流れが変わって
いることがわかった。東山区福稲の鴨川左岸、師団街道「月輪」バス停近
くだ。この角度ならば、京都タワービルのアングルも正しいと思われた。





A夕焼けを背にした東寺五重塔


次に、「A夕焼けを背にした東寺五重塔」である。画面には、東寺五重塔
は夕焼けを背負い、逆光でシルエット化している。これらから東寺五重塔
を起点に、北東から南方にかけての位置から、撮影されたのと思われる。

こうなると手前に写る10階建て程度の建物が気になってくる。建物の右方
をよく見ると、吹きさらしの廊下のように見える。その内側に窓かドアの
ような造作も見られる。どうやら集合住宅、それも公団などの公共団地の
ようである。再度地図に目をやる。東寺五重塔から、1q程度を目安に公
共団地がある場所を探す。地下鉄九条駅近くの「南烏丸市営住宅」、河原
町通り南松ノ木町の「公団松ノ木町住宅」、千本通り十条の「十条住宅」
新千本札辻の「唐橋第2住宅」などがピックアップされた。中でも地図に
表された「唐橋第2住宅」の建物の形が最も近い。但し「唐橋第2住宅」
だと東寺五重塔の南西だ。夕焼け空が背負えるかどうか、が問題となる。



    

B彎曲する川と高架橋


「B彎曲する川と高架橋」は、画面後方に山を背負っていることから、カメ
ラは、京都南方から北方向を向いている。目前の川は、右上から左下へ向か
って斜めに横切っている。画面右手に注目しよう。電話局の無線塔のような
塔の手前に構築物が見える。画面を拡大する。どうやら高架道路のようだ。
岸辺ぎりぎりまで市街化が進んでいることから、川は鴨川と推定した。鴨川
の流れが曲がっている地点は、@で解明した「東山区福稲、師団街道月輪バ
ス停付近」である。この地点から北北東にカメラを向けると、東山三十六峰
とも称される峰々が画面後方に入り、右手奥に九条高架橋が視界に入る。す
ると無線塔に思えた塔は、東福寺駅近くの「三洋化成」の工場であったか。





C夕焼けの川右岸


「C夕焼けの川右岸」では、川の流れは画面下方から上方へ向かっている。
上流から下流方向のアングルである。川岸の建物の様子から、Bを撮った場
所とそうは離れていない場所。若しくは、同じ場所なのではないだろうか。



     

D新幹線の背後にある塔         E塔の下からアップ


「D新幹線の背後にある塔」では、新幹線の疾走する様が、走行騒音とともに
写しだされている。画面左手に低めの塔が二基、右手に高い塔が一基。高い塔
の外壁の様子から、「E塔の下からアップ」の塔と同じものと思われる。また
低い塔の右隣に、白地に四文字が並ぶ看板が見える。画面を拡大して確めると
「安全第一」の四文字だ。どうやら工場のようである。地図を開き、新幹線の
線路沿いを追ってみる。すると京都駅の西隣、西大路駅付近の新幹線沿いに、
日本新薬や日本電池(GSユアサ)の工場があることが分かった。しかしEで
撮られた塔は何の用途だろうか。多摩川団地のスリムな給水塔が印象的なウル
トラセブン#45「円盤が来た」を思い起こす。やはり、給水塔なのだろうか。





手元の資料で、検証を試みる





インターネットとは便利なものである。家にいながらにして、実に様々な情報を
手に入れることができるのだ。実地調査に向かう前に、ここはひとつ、名探偵エ
ルキュール・ポアロを気取り「安楽椅子探偵」的に、推理にいそしんでみよう。

「京都買います」のエンディング、仏像に変わった美弥子の姿に驚愕した牧がコ
ートを被って走り去るシーン、都市の騒音らしい音が画面にかぶり、都市化した
現実の京都の町が映し出される。「夢と現」の暗示だと思って、余り深く考えな
いでいたが、ロケ地を地図上で追って行くうち、不思議な地形に出会えたのだ。

鴨川を下って彎曲した流れを捜していたとき、七条大橋から下流、JR鉄橋にか
けての鴨川右岸に、再開発されたらしい大区画市営住宅と小学校などの公共施設
のある地区を見つけたのだ。京都市下京区崇仁。高倉通りと鴨川に挟まれた、京
都駅前から塩小路通りを東進した徒歩数分の場所である。新幹線線路からほど近
い位置の再開発ゾーンということで、ガスタンクがあった場所なのではと思い、
その地区の過去を調べた。するとここには、京都の隠された事実があったのだ。



画面に切り取られた事実



徳川家康の興した江戸幕府は、士農工商という身分制度を定めた。この制度の源
流は遠く律令制度まで遡る。桓武天皇が平安京に遷都ころには、既に制度化され
ていた。当時の人民は「良民」と「賎民」とに分類されていた。ここでいう「良
民」とは、納税の基礎である「コメ」を作る人たち、すなわち「農民」である。

律令制度の収税の根幹は「班田収受法」であった。土地の私有を禁じ、全ての土
地を国有として、耕作農民に貸し付け、耕作農民は地代として農作物を納める、
という収税制度である。このため朝廷が直接収税しえる納税者リストには、土地
を借り受けた人=農民の名が並ぶことになる。要するに、税の取立てが円滑にか
なう納税者リストに載った民を「良民」とした「お上の都合」だったのである。

一方、直接的な収税が叶わない商工業者たちに対しては、商いを行うための場所
を設定し、出店料(テラ銭)を徴収することでその代替とした。この制度は時代
が下るとともに「市、座」の制度に変貌していったが、内容は変わらなかった。

やがて朝廷の代官が軍事力をつけ、荘園の領有を宣言した。武家の誕生である。
台頭した武家は、鎌倉幕府や室町幕府を興こす。しかし収税システムの基本は保
たれ続けた。領地における収税管理は律令制度に則っていたのだ。法の目にかか
らない行商や芸能をする者は選別され「漂白の民、道々の者」などと呼ばれた。

戦国末期、織田信長や豊臣秀吉らの経済政策や貨幣経済の発達もあって、商工業
が隆盛してくると、「良民」だけを「納税者」とする古い制度では、齟齬をきた
してくる。そこで江戸幕府が整備した新たなリストが士農工商だったのである。

こうして「良民」に組み入れられた商工業従事者であるが、ここにもあてはまら
わない「そうでない民」が存在した。彼らは「エタ・非人」という最下層階級に
選別された。「エタ・非人」は、刑場の雑役や屠殺場の仕事などに従事させられ
たうえに、居住地域も強制的に指定された。その地域は全国に点在したが、京都
「崇仁」地区は最大規模であった。高瀬川沿いの七条から九条に至る地域である。

江戸幕府の身分制度は、1871年(明治4年)の「解放令」によって消滅した。し
かし制度は変わっても、人の心は変わらなかったのだ。変わらない心は「差別」
として存在し続けたのである。「差別」はその地域の居住者たちに、劣悪な生活
環境や低レベルの教育文化水準を与え、就職難や結婚難をももたらした。このよ
うな場所を「同和地区」と呼ぶ。 我が国には、福岡・奈良・京都・兵庫・大阪な
どに有数の同和地区が残され、その居住者たちを「部落民」と呼んで差別した。

崇仁地区の鴨川河川敷やその下流の東九条地区にバラック小屋が建ち始めたのは
戦後すぐのことであった。戦争中に強制連行され、祖国に帰れなくなった韓国や
朝鮮の人たちが、行き場を失って急増住宅を建てて住み着いたのだ。大日本帝国
の勝手な都合で連れてこられて、帝国にも祖国にも見捨てられた彼らが漂着でき
たのは、やはり捨てられた「そうでない民」の居住地域しかなかったのである。

しかし、当局の対応は冷たかった。京都市はこれらの住居は「不法占拠」である
とした。長い間、水道や給電の施設を設置しなかったうえに、ゴミ回収やし尿処
理も行わなかったのだ。劣悪な差別環境からの脱却を目指して「崇仁協議会」が
設立された。協議会の運動により、電気は1965年(昭和40年)頃には通じるよう
になった。しかし、水道の設置は近年のことであった。京都市は、河川敷を「不
法占拠」しているバラック小屋を立ち退かせた彼らの収容先として、市営団地や
付随する公共施設を整備した。それが鴨川川端の宗仁市営住宅だったのである。

京都市南区東九条南松ノ木町には「0番地」と呼ばれた場所があった。現在では
「40番地」と地番がつけられているが、不法占拠地であるという理由から、長い
間「0番地」とされていたのだ。京都駅の南方、鴨川が南西に流れを変えるあた
りである。東九条地区のなかでも最も環境が悪かったのは、九条橋から陶化橋に
かけての鴨川河川敷であった。割れたガラスやペットボトルなどの不燃ゴミ、破
損した冷蔵庫などの粗大ゴミの捨場とされ、生活廃水やし尿も垂れ流しだった。


  


地形からあたりをつけた@BCに写りこんでいるバラック小屋が、東九条地区の
「0番地」である。実地調査の前にあえて断言する。意図なくしては撮りえない
画面であるからだ。年間に4000万人もの観光客が訪れる、世界でも有数の観光都
市「京都」。観光客の目にさらされる仏像たちを悲しみ、仏像を愛する人だけの
街を作りたいとの思いを寄せたヒロインは、古都の都市化を嘆いた。その都市化
の影には「差別」の町並みが存在していたのだ。この画面には、戦後35年近く、
何ら行政の恩恵を得られなかった恨みの「事実」が切り取られているのである。

参考サイト「崇仁協議会」http://www.suzin.com/index/kankoku/photo.html



空中写真という証拠



国土交通省に国土計画局というセクションがある。こちらのサイトには、国土情
報ウェブマッピングシステムというサービスがあり、国土画像情報(カラー空中
写真)を閲覧することができる。お上の無料サービスを使わない手はないのだ。

Dのガスタンクと塔を捜す手がかりとしてこのサービスを利用した。地図上からの
推測では、JR西大路駅付近の工場が候補地としたが、ガスタンクが気になったの
だ。工場にガスタンクがあるのだろうか。もう一度、画面と地図を精査してみる。





大きな塔の手前の白い建物に、赤文字が見てとれる。拡大してみると「丸印には」
のマークだ。かつて川崎球場を本拠にしていた「大洋ホエールズ」のユニホームに
ついていた、大洋漁業(現マルハ)のマークである。広告看板にしては線路から距
離があるので、事業所ビルに取り付けたのでは考えた。マルハグループのサイトを
開く。すると関連会社が、JR山陰本線丹波口駅そばの京都市中央卸売市場の側に
あった。大京食品株式会社である。水産食品を扱う会社が中央卸売市場の側にある
のは立地としては当然である。サイトの社屋写真は画面のものとは異なっており、
社の沿革からも社屋についての記述はなかったが、建て替えの可能性は否めない。

地図で場所を確認すると、大京食品ビルのすぐ左隣に「KRPガスビル」の表記を
見つけた。サイトを開く。KRPは「京都リサーチパーク」の略称で、大阪ガスを
中心とした再開発地域であった。ガス会社が絡んだ再開発地域ならば、かつてはガ
スタンクが建っていた可能性も高い。しかし様々なキーワード検索からでも、この
地にガスタンクがあった事実は発見できなかった。そこで空中写真の登場である。

昭和49年に撮影された空撮画像には、中央卸売市場の側に数本のガスタンクが並ん
でいる。現京都リサーチパークの場所には東西に3本、うち東寄りの2本は金網の
ようなガード付きだ。そして、現サイエンスセンタービルが立つ区画に、ひときわ
大きい塔がある。壁面の造作からEの塔と同じ様である。マルハマークを掲げたビ
ルらしい白いビルも写っている。ここに間違いないようだ。そうなると、撮影した
場所が疑問となる。方向的には新幹線の南方で、ある程度の高い所からだろうか。

「国土計画局」http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html


次はAの画面だ。東寺五重塔の前に写る公共住宅らしきL字型のビルを捜そうとい
うのである。同じく昭和49年の空撮写真である。先に記したいくつかの公共住宅を
探してみる。すると公団松ノ木町住宅が建設中の他は、まだ建設されていなかった
のだ。推測はあっけなく崩れ去った。残された手は地道に画像を追うほかはない。





この稿を書いている最中、佐々木守氏の訃報に接した。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


Aの画面をもう一度確認する。五重塔のすぐ側まで町並みが迫り、境内の木々は五
重塔の背後に見える。五重塔は東寺の広い方形境内の東南角に建っているので、こ
れらから境内の敷地越えの映像ではないと思われた。五重塔の北東から南西にかけ
てからのアングルだろう。その方向に、L字型ビルが画面と同じ向きに写るように
建っているか、拡大と俯瞰を繰り返しながら空撮写真と格闘する。すると、それら
しきL字型があった。しかし、画面のように周りを民家で囲まれていない。L字型
の場所を地図で確認すると、南区西九条南田町。公園の北隣に健在であるらしい。

昭和49年の空撮写真によると、L字型に迫る家は画面ほど密集していない。数軒の
住宅が残されているようだ。画面左側にあたる西方には、広い駐車場らしき空き地
も見える。バブル期によく見られた「地上げ途中」のような感じだ。次に地図を広
げる。西九条南田町の区画には、南区役所、九条警察署、NTT病院、公共団地な
どの大規模建築物が建ち並んでいる。何か臭う、再開発の臭いである。詳しい場所
の特定はできなかったが、西九条にも在日韓国朝鮮人が集中して住んでいた場所が
あったそうである。宗仁地区と同様な経緯がここでもあったのだろうか。そうだと
すれば、このアングルも意図的であったと解釈できるのだ。答えは現地にあるか。



八木駅ではなく八木町だった?



「もうひとつは『怪奇大作戦』の「呪いの壺」で、主人公が実家に
帰る件である。山陰本線で
、C57が牽引する列車を撮った。山陰
本線八木駅で撮ったものだが、ナンバーは
C57127である。」

(実相寺昭雄著「ウルトラマンの東京」ちくま文庫刊より)



今度は八木町付近を開いてみた。昭和50年春に撮影された空撮写真である。八木駅
付近は思いのほか開けていた。怪奇の撮影から6年ほどとは思えない発展ぶりだ。
かつて八木駅を訪れた際には、気にも止めなかった違和感を感じた。何かが違う。

画面では単線片側ホームであった八木駅は、列車の行き違いができるように複線化
され両面にホームがあり、二本の線路の間には追い越し用の3本目の線路もある。
山陰本線京都口の電化へ向けての予備工事と思われる。電化が完成すればスピード
の速い電車が走り始める。しかし電化は部分的な区間なので非電化区間に乗り入れ
る長距離列車や貨物列車との交換や追い越し設備が多数必要となる。空撮写真で他
の駅を調べると、やはり多くの駅部分で交換可能な複線化が成されていた。八木駅
が拡大した理由は想定できた。しかしまだ釈然としない。発展ぶりが急すぎる気が
してならない。もう一度画面を確認してみる。そこに見落としていた点があった。



画面右手の駅舎に貼られた「一家そろって…」の張り紙である。張り紙左端の発行元ら
しい文字を拡大してみた。はっきりと判別はできなかったが、下から五番目と六番目の
二文字が「亀岡」と書かれているように思える。「亀岡」とは京都府亀岡市のことであ
ろう。ならばこの張り紙は、亀岡市の公共団体が発行元である可能性が高い。当時の八
木駅は、京都府船井郡八木町(※)に属していた。亀岡市とは南で接する隣町である。
(※)…06年1月、八木町は平成の大合併により南丹市となった。

もう一度空撮写真に目をやり、八木駅前後の駅を調べてみた。京都寄りから、亀岡、並
河、千代川、八木、吉富、園部の順で駅は並んでいる。特急列車も止まる亀岡や園部が
単線単ホームの駅である可能性はないだろう。また、区間列車の運用から園部から先で
あることも考えにくい。行政区域は、吉冨が八木町(※)、並河と千代川が亀岡市だ。
どの駅も単線単ホームの似たような造りである。なにか特徴はないだろうかと、ネット
を検索して、各駅の現況写真を比べてみた。吉冨駅は図書館などの公共施設を抱きこん
だ駅ビルに変貌していた。並河駅は最近改築されてモダンな印象だが、小さな駅舎に昔
の雰囲気は残っている。千代川駅にはレトロな木造駅舎が残されていて画面の駅舎の雰
囲気に最も近いが、駅前と駅舎の間に段差がある。画面のようなフラットな地面でない
のだ。ホームはどこも似たようなローカルな感じだ。空撮写真に戻り、駅舎のアップを
試みた。すると千代川駅の駅舎が最も画面と似ていた。現在の駅舎は、白塗りに化粧さ
れているが、空撮写真には、黒と茶色の駅舎が写っていた。しかし、地面の傾斜の問題
も残っている。その答えは、現地を調査した上で、疑問点を明らかにしてからとなる。





そして、現地を調査する

06年3月



京都市南区


品川駅5:29発の普通列車で京都へ向かった。京都行き定番の青春18キップ、京都まで
8時間の旅である。関が原を越えると雲行きが怪しくなってきた。石田三成の居城、佐
和山城跡の脇を通り抜け、琵琶湖が見える頃になると、雨が落ち始めた。安土山の麓を
走りぬけ、瀬田川をひと跨ぎ、山科をトンネルで抜けても、天候に変わりはなかった。

雨の中、京都駅から七条のゲストハウス「ケイズハウス」に向かう。ここは崇仁地区の
北隣に位置している。途中通った崇仁の町は、河原町通りの拡張や高瀬川親水事業など
により、立ち退いた民家の土地を囲うフェンスがあちこちに張り巡らせており、生活の
感じられない無機質な街になり果てていた。ここにも「不良住宅対策」として市営住宅
が建つのだろうか。差別という心の問題を放っておいて、見てくれだけを何とかしよう
という行政側の「臭いものにフタ」的発想の気がしてならない。根本的な解決は遠い。

  


チェックインの後、鴨川沿いを下流へ歩き始めた。京都タワーへのアングルを確めなが
ら南へ向かう。九条通りで鴨川を渡り、対岸の河原を進んだ。やがて鴨川が緩やかに孤
を描き出す。エンディングの画面に映し出された河川敷のバラックは、見事に取り除か
れて新たな護岸工事の真っ最中であった。ここでも「臭いものにフタ」なのか。京都タ
ワーと九条高架橋のアングルに気をつけながら河原を進み、撮影地のあたりをつけた。


  

九条高架橋のすぐ下流より京都タワーを望む。
タワーのサイズから、もう少し上流かもしれない。


  

  

わかくさ児童公園から。
かつての「0番地」はすっかり整地され、中層住宅が建っていた。


九条通りに戻り、東寺へ向かう。降り続く雨とぬかるんだ河原道を歩いたおかげで靴の
中はびしょ濡れだ。雨天のせいか、だんだんと暗くなり始めてきた。急ぎ足で五重塔の
方向へ歩を進める。九条大宮交差点から裏道へ入り、L字型候補の建物に辿り着いた。



九条大宮住宅である。この南隣には、昭和49年の空撮写真で建設中であった公共住宅
の巨大な建物(12階建て)が建っている。撮影時にはなかったので、実際の撮影地は
さらに南隣の、九条警察署(5階建て)の屋上か、南区役所(10階建て)だと思われ
る。現在、両者からは公共住宅が壁となっているため、公営住宅から撮影を試みた。

  

ここで、もうひとつの可能性が発見できた。

  

ガスタンクが見えたのだ。上の画像では分かりづらいが、新幹線の高架橋も横切って
いる。ガスタンク右手の多少高い建物が「サイエンスセンタービル」、大きな塔の跡
地に建ったと思われる。画面のレイアウトと左右(東西)バランスに狂いがあるが、
京都リサーチパークの再開発時に、ガスタンクやビル区画の変更があったのかもしれ
ない。五重塔とガスタンクの撮影が、同じ場所で行われた可能性が高くなってきた。


翌日、京都リサーチパークを訪れた。結論から言うと、何ら証拠はつかめなかった。
哀しいかな、新たに開発された地区では過去を封印するのが定石なのかもしれない。

  



シヴーチ郎さんからの情報


突然メールで失礼します。シヴーチ郎と申します。「怪奇な京都を巡る」は、新たな
発見と詳細な内容に感心して読ませていただきました。事後報告になりますが、らい
でんさんの「怪奇大作戦の部屋」にも勝手に紹介させてもらっています。今回は、八
木駅等にまた、現地調査に行かれるということなので、京都在住ではないのですが、
最近見つけた資料をもとにSLが停車した駅について、ご報告させていただきます。

まず、この画像は「日本の駅」(竹書房・昭和54年発行)という本に掲載されていた
当時の八木駅と千代川駅です。

http://loadist.sakura.ne.jp/loadist/img/1235.jpg

この本は、当時の国鉄駅のうち、無人駅と民間委託駅を除いた、すべての駅が写真で
網羅されている大冊です。この基準で外れたのか、「怪奇な京都を巡る」で候補に挙
げられていた、並河駅と吉富駅の両駅の写真は、掲載されていませんでした。

これで見ると、実相寺監督が名前を挙げた八木駅は、モノクロ写真のせいもあるかも
しれませんが、撮影から10年以内に改築されたにしては、ちょっと古びすぎる感じも
します。一方の千代川駅は、駅舎の左側面に出入口がないのを除けば、「呪いの壺」
の駅とよく似ていると思います。ただ気になるのはキャプションにある丸数字のうち
@は開設日なのですが、Aが改築年月を表わすそうなので、千代川駅が「なし」にな
っているのは、最初からここには、出入口がなかったかもしれないということです。

それでも、編集人さんのおっしゃるように亀岡市側の駅であるとおぼしき点が以下の
とおりにあると思います。


1.駅員と鶏のおじさんがもみ合っている時に、奥の壁に見える広告の「井尻浴」が
「井尻浴槽」ならば、亀岡市の会社のこと。

http://www.houving.jp/gaiyo.html


2.「日野家」があるのは河原林町河原尻
http://www.jminka.gr.jp/blocphot/kink/kyphot/kytoyama.htm

文化庁のデータベースは、個人情報保護法が制定されたためか、内容もデザインも
変わってしまいましたが、以前は細かい住所やご当主の名前まで載っていました。

http://www.bunka.go.jp/bsys/


3.統三らを尾行しているシーンにある土塀は毘沙門というところにあるらしいこと

http://www.ne.jp/asahi/cycle/days/zitensya/sagasikimi/dobei.htm
http://www.ne.jp/asahi/cycle/days/zitensya/sagasikimi/mitiusiro.htm

あとご参考までに。
http://agua.jpn.org/film/f85.html

このうち2と3は、必ずしもロケ地の最寄り駅で撮影したとは限らないのであまり当
てにならない傍証なのですが、当時のこれといった資料がなかなか見つからない以
上、このあたりまでが机上の空論者にとっての限界点ですので、身勝手ながらも現
地調査の結果に期待しております。


シヴーチ郎さん、貴重な情報のご提供に、心より感謝申し上げます。


そこで、シブーチ郎さんの情報等を基に、現地概況を整理してみた。

1、ロケ駅は亀岡市にあるらしいこと。並河駅か千代川駅である可能性が高い。
2、日野家は亀岡市に現存しており、重要文化財指定されていること。
3、尾行シーンの土塀も亀岡市に現存していること。



京都府亀岡市


晴れ渡る国道9号線を西に向かってレンタカーを走らせる。桂川を渡って千代原
口を抜けると、道は緩やかなカーブを描きながら勾配にさしかかる。山城と丹波
を分ける老ノ坂峠への入口、沓掛である。1582年(天正10年)6月2日未明、羽
柴秀吉が担当する備中高松城攻めの援軍として、丹波亀山城を出発した明智光秀
配下の軍勢1万3千は、西国街道との分岐である沓掛で歩みを転じた。「敵は本
能寺」とされ、京都へ向かったのだ。わずか十日あまりの天下となることも知ら
ずに、明智軍が粛々と歩を進めたであろう峠道を逆走して、老ノ坂峠を越えた。

亀岡の市街地で篠山街道と別れ、国道9号をそのまま進む。往復2車線の国道の
両側にはロードサイド型のチェーン店舗が建ち並び、日本中で似たり寄ったりの
風景がだらだらと続いている。並河駅右折の案内表示に従って右に折れると、山
陰本線並河駅に到着した。事前にネットで調べた通り、近年に改築された瀟洒な
モダン駅舎が、小奇麗に整備されたとしたロータリー広場の奥に鎮座していた。



駅舎の造りは似ていなくともない。路面ともフラットである。駅構内は、行き違
い用に対抗ホームが二本、直線に配置されている。決定的な証拠は見つからなか
った。再び国道9号に戻り、千代川駅に向かう。右手に山陰本線の線路と並行し
ながら2キロほど進むと、千代川駅入口の交差点だ。右折して駅前に到着した。



昔ながらの木造駅舎に昔日の香りが漂う。シヴーチ郎さんの情報にあるように、
改築された様子は見えない。すると線路に並行する出入り口の存在はどうだった
のだろうか。横に回ってみる。出入り口のあった痕跡はわからないが、この駅舎
の構造で二面に出入り口があるのは不自然に思われた。するとホーム部分の複線
化の際、駅舎の改造が行われたのだろうか。こちらにも決定的証拠はなかった。




駅の謎を残したまま、日野家へ向かう。亀岡市河原林町河原尻、重要文化時に指
定されている旧家である。千代川駅にほど近い千原交差点から県道に入り、大堰
川(嵐山渡月橋から上流での桂川の名称)を渡り、しばらく進んでから右手に折
れる。幾つもの小河川が縦横に流れ、その流れに沿った彎曲した小道の先に「河
原尻集落」はあった。春の陽光に黒瓦が輝きを増している。のんびりとしたニッ
ポン農村集落の原風景のようだ。集落の隅の方に、長い土塀に囲まれた旧家はあ
った。文化庁のデータベースも個人情報を尊重している以上、人様の住宅を覗き
見るアングルでの写真撮影はためらわれた。生垣も土塀に変わったようである。




次は尾行シーンの土塀がある亀岡市毘沙門へ向かった。「毘沙門集落」は河原尻
から車で10分もかからない近さだ。県道の両脇には、やはりニッポン農村集落の
原風景が続いている。集落に入り、駐車が可能な道幅の広いところを探しながら
ゆっくりと県道を進む。すると県道から土塀の続く小道が見えた。慌てて車を止
めて、小道へ向かう。土塀に沿って緩やかな坂を下ると、小道は右に彎曲する。
ここがカメラの立ち位置だ。カーブする土塀の曲線をトレースしてパンをした。




再び並河駅に向かった。もう一度駅の周辺を見ておきたかったのだ。カーナビゲ
ーションの案内する国道ルートを無視して、亀岡駅辺りから山陰本線に最も近い
狭道を進む。車両の行き違いができないほど、狭小な幅員の踏み切りで線路を渡
る。この道は並河駅の手前で、もう一度線路を渡る。一旦停車で踏み切りを渡ろ
うとした時、踏み切り横に、妙なポケットパークのような空間を見つけたのだ。



サクラの木の後ろには、銀色のレリーフが飾られ、そこにはこう刻まれていた。


鉄道歴史公園

並河駅、先人の方々が地域開発を願い請願運動と自らの労力奉仕によって昭和10年7月20日こ
の場所に設置。以来53年間、時代の移り変わりの中で叙情的な駅として人々に親しまれてきた。
平成元年3月11日山陰線複線電化と併せ、駅前広場整備により約120メートル北側に移築した。
ここに、サクラにつつまれた「駅舎」を写しとどめ往時をしのぶ「駅物語」のよすがとする。


なんと、並河駅の駅舎は、移転していたのだった。それでは現駅から証拠は浮上しない。
レリーフには、往時の「叙情的な駅」の思い出もまた刻まれていた。



この風景である。
ご丁寧にも、C57が停車している。



「呪いの壺」統三たちが下車した駅は、山陰本線「旧並河駅」であった。






闇を引き裂き、怪しい悲鳴

誰だ、誰だ、誰だ

悪魔が今夜も騒ぐのか

SRI、SRI、謎を追え

SRI、SRI、怪奇を暴け

LET’S GO









       





「怪奇な京都を巡る PartY」 02/APR/2006
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