「葵」 の章 1
秋刀魚30尾も担いで帰途、となったのだから、おそらく季は晩夏、
歳は18である。大学最初の夏休み後半というところか。
54年も前のこと、記憶はかなり怪しいが、友人と旅をした。何故
か目的地は宮古。ふたりとも無縁の漁港である。ただ、あのリアス
式海岸の、出来るだけ沿岸の道路を選んで、ずーっと海が見えるよ
うなかたちで北上して行こうーこんな構想だったと思う。(多分あ
の頃三陸鉄道は全線つながっていない状態。海岸際をバスに乗って
眺めた記憶がある)
とにかく一日目は仙台に泊まり、翌日の道順チェック。翌日は確
か石巻まで列車に乗り、バスなど乗り継いで宮古に向かった。(途中
ヒッチハイクの真似事もしたような...)そして宮古の海岸の一隅の
町、到着は9時か10時頃。明かりもわずかな家並みで、空腹の行き処
を捜す。小路の突き当たりに提灯発見。ふたり手を取り合ってキャッ
と踊り出し、地酒(常温)で乾杯。肴を訊いてみると、きょうは「き
んき」がおすすめだが残りは一尾だけということだった。もちろん、
ラストのきんき(ラスきん様)をいただく。あとの注文は忘れたが、
とにかくきんきの赤(醤油で煮ているのにとても綺麗な赤なのだ)と
、わたし好みの身のおいしさが印象に残っている。この時から「宮古
といえばきんき」 という等式が私の頭に居座った。いまでもきんき
を見かけると、即座に買ってしまうママ金なのである。
秋刀魚の出番はこれから。この店で素泊まり宿を紹介してもらい、
宿から、翌朝そこの浜でサンマが揚がるのを見てから帰りなさいと
勧められる。早起きは滅法苦手な私でもこの件は頑張った。浜では
既にサンマが山のよう。反り身の腹が銀色で、ピチピチがうねりに
なっていた。おおかた口を半開きにして見惚れていたのだろう。漁
師のおじさんと「どっから来た?」 みたいな話に始まって、終いに
「持ってけ」と。ビニール袋幾重かに、ピチピチ音が収まったばかり
のサンマ沢山を手渡してくれた。「塩してあるから大丈夫だ」と言う。
サンマは30尾ほどもあるし、塩はたっぷりらしく随分重かったはず
だが、若さの欲というものか、担いででもの思いで帰途についたに違
いない。しかし、陽気も陽気、途中で半分放出。学友・飲み友・旅の
友の相方が、「小岩井農場で昼食を」と提唱してきた。ので、盛岡を少
し越えて農場へ。そこのレストランに半分余りを差し上げて、程々身
軽の身とあいなった。
めでたく盛岡から一気に高田馬場へ。荷を解いたのは既に行き付け
となっていた呑み処「葵」のカウンターだった。
「葵」-1おわり
「葵」の章 2
6月下旬の某日某スーパーで「きんき」見っけ!!相変わらず頭でっ
かちの三頭身、赤い衣装に加え、口をぽっかり開けているのが何とも
可憐。迷わずこの子を連れ帰った。
が、問題は♪あれからサンマはどこへいったやらー♪だった。
私としてはサンマを頂戴したときから、葵直行「ママと常連おじさん
社中へ」大漁旗のつもり。漁師のおじさんから呑み助おじさんへとサ
ンマはなびく。逆のコースを辿るなびきものが皆無とは心苦しい限り
だがー。
それにしても葵に到着したのは深夜にほど近く、終電まで居座って
いる常連の姿も無し。ママだけがふうふう汗だくで後片付けをしてい
た。ママは肉付きがよく暑いのが苦手。おまけにだいぶ「よい加減」、
この時間になると一挙手一投足一層速度緩めになるのだ。全開にした
水でガシャガシャ洗いが一段。顔を上げるや、「おっ!」と私に気が付
き、流しの下から取り出したるは、いつもの剣菱一升瓶。これを軽々
と傾け、洗ったばかりのコップふたつになみなみ注いだ。そしてひと
つを私の前に、ひとつは自分の目の高さにして「お疲れさーん」である。
「これサンマなんだよ、塩してあるみたいだけど早くしまって」
ビニール袋の口を開いたママ、「アラー」と唸りモードの叫びを上げ、
「ハ、ハ、ハー」と笑った。いつもと同じように。
かくしてサンマは速やかに冷蔵庫へ。思わぬ暑苦しい旅を終えた塩
サンマさんたち、やっと涼しい一夜を迎えることになった。
葵はカウンターだけの呑み処。席は八つか九つか。そのうちいつも
半数近くを占めていたのが、当時三大新聞といわれたうちの一社の記
者連である。当時の学生にとっては、叔父から親の年代に当たるおじ
さんたち。この常連さんは、ママのことを「おばさん」とか「おばはん」
と呼んでいて、事あるごとに丁々発止のやりとりが飛び交った。その
合間に「シケ豆!」と注文の声。「オレも!」と二度ほど混じる。シケ豆
とは?文字通り湿った豆のこと。駄菓子屋風大瓶から次々と取り出さ
れる落花生。もはや蓋など無きも同様。すっかりしんなり状態は店の
歴史とともに定着し、それなりの人気を保っているらしかった。新参
の私も、常連さんの「ここはね、シケ豆しかマトモなもの無いのよ、
食べてみ」、シケ豆洗礼を受けた。
そう歴史といえば、駅のロータリーの一帯は終戦後しばらく、屋台
ひしめく飲み屋街だったらしい。山手線の大きな駅はみなそうだが、
駅前整備とともにここにあった店は周囲の雑居ビルに入ったり、小路
に小さな店を構えたりした。葵もそのうちの一店で、戦前は銀座で働
いていたことを、ママ自身から聞いた。
2025年の今年は、戦後80年ということで催しや映像の案内を目にす
る機会が多いが、私の場合、たまたま葵や葵のような店で終戦当時の
話を聞いたり、後にも葵の常連さんと同年配の人たちから話を聞く機
会が少なからずあった。戦後25年~30年、40年まだまだ生の感触があ
った。それはさておいても、ともかく随分と年嵩のおとなたちと話し
込んだり笑いあったりしていたのだから、当時の酒場事情というのは
全く「融通無碍」というのか、いつでも「あ、来たね」とうけ入れてくれ
るところ。また、言葉の遊び場的雰囲気もあった。
ママはかつて文学少女だったに違いなく、私が初めて行った頃は、
古代史マニアでもあった。邪馬台国九州説の熱弁をふるっていた。客
との会話には万葉集が合いの手になったり。で、一見の私が、あのあ
ふれてこぼれる酒(受け皿付)を2杯目飲み終えたところだったか、
満面の笑みでママが言うには「あんたは金時さん」。お伽草子の「酒呑
童子」=坂田公時(さかたのきんとき)の幼名が金太郎。私のいでた
ちは?といえば、
●前髪を切り揃えた長めのおかっぱ
●丸顔
●上はタンクトップ一枚、例の金太郎の腹掛けよろしく、確か赤い
縞模様が入っていたような
●下は、Gパンを膝の上部で切った短パン
と、どちらかというと、タクマシ型。よく飲む子だが金太郎ほど幼く
もなしということで、金時になったららしい。「ほんと、天衣無縫だ
よ」とも言われた。「ムホウとは乱暴者のことじゃないよ。天女の衣装
には縫い目がないってこと。完璧自然ってことだよ。テンシンランマ
ン」。命名祝いでもあるまいに、常連さんから「金時に一杯!」。
それから閉店まで、葵では「金時」であった。「金時!」という呼びか
けを葵関係から受けたのは、音や金時開店の翌年、「ネパールまつり」
を開催したとき。ママが亡くなって15年後のことだった。
「葵」-2 おわり
戻る
金時変遷