44444キリ番・樟葉様へ。
『水月』――すいげつ――
春の天気は、とかく気紛れである。清(さや)かな青を抱いていた空は、前触れ無しに、突然雨を落とし始めた。
すぐに止むと思われたそれは、しかし、あっと言う間に本降りとなり、埃っぽい江戸の大路を、ぬかるみに変えてゆく。
雨宿りの場所を求め、駈け出す人々の頭上に、すさまじい雷鳴が轟いた。
「これはいけませんな。若先生」齢三十ばかりの侍は、貌を顰めながら、隣の若侍を見た。
商家の広い軒下に落ち着いたは良いが、雨は激しさを増している。
『若先生』と、声を掛けられた若侍は、ゆるりと微笑した。
「何、急ぐ用もない。雨宿りをしていれば、すぐに止むさ」
温雅な風情の若侍は、口元に微笑を浮かべると、優しい面(おもて)が更に華やぐ。
『先生』と呼ばれるには、少々若すぎる年齢(とし)のようだが、その美しい立ち姿には、寸分の隙も見られない。
伊庭八郎秀穎(ひでさと)、十八歳。神田和泉橋通りにある、心形刀流、伊庭道場の後継者である。
伊庭道場は、北辰一刀流「玄武館」、神道無念流「練兵館」、鏡新明智流「士学館」と並び、江戸四大道場に数えられる名流である。
伊庭八郎は、剣技天稟にて、「伊庭の小天狗」と称えられていた。
眉目秀麗、姿の美しい若者である。
「若先生っ」雨宿りする二人の耳に、明るい声が飛び込んだ。
土砂降りの雨にも負けぬ、柔らかく清明な声は、光の礫(つぶて)を思わせた。
しかし同時に、二人は首を捻った。
「・・知らぬ声だね」
「そうですな」
門弟千人を数える大道場ゆえ、全ての者を把握するは、どだい無理な話である。
二人は、土砂降りの往来に目を凝らした。
間を置かず姿を見せたのは、見知らぬ少年だった。まだ十五、六と言う処か、高下駄に袴姿ではあるが、細身で、女子(おなご)と見紛う程の可憐な容貌をしていた。
少年は、軒下に立つ二人の前を、風のように駈け抜けた。
高く結い上げられた黒絹が、しなやかな生物のように、主の後を追う。
親愛を湛えた少年の瞳が、伊庭の心に強く残った。
惹かれたままに目で追えば、少し先、蕎麦屋の軒下を借りる二人の男の前で立ち止まる。伊庭は、目を細めた。
剣客然とした体躯の厳つい男と、長身の美丈夫の二人連れは、共に、尋常でない太さの木刀を肩に担ぎ、剣術道具を負っていた。
『若先生』とは、どうやら厳つい男の事のようだ。
「・・同じ『若先生』でも、伊庭の若先生とは、随分と様子が違うものですね」
面白げな連れの言葉を耳にしながらも、伊庭は、少年から目が離せない。
厳つい男は、人懐こい笑顔を浮かべ、少年を覗き込んでいる。隣の美丈夫は、不機嫌な様子で、懐から手拭を取り出し、少年の貌や頭、肩を拭い始めた。
拭いながら、何やら叱っているらしい、少年が深く項垂れた。
「丸太のような木刀ですね。・・何処の道場でしょうか」
「・・天然理心流、試衛館」
「え?」
「市ヶ谷にある道場さ」
首を傾げる男を余所に、伊庭は視線を逸らさない。
長身の美丈夫は、伊庭の旧知の者だった。その男――土方歳三は、少年の細い手首を掴んで引き寄せると、人目も憚らず、額に唇を押し当てた。
伊庭達は、仰天した。
しかし、少年も、厳つい男さえもが、慣れているのか、その突飛な行動に少しも照れる処が無い。
繰り広げられた絵のような光景に、隣の男が溜息を漏らした。
「・・何とも、当てられますな」
伊庭は、興深く微笑んだ。
夜の色街(まち)で、山のように降る付け文にも、吸付け煙草にも、眉一つ動かさぬ土方が、見た事のないような笑顔を浮かべている。
(あの男でも、あんな表情(かお)が出来るんだねぇ)
伊庭は、涼しげな目元をゆるりと細めた。
牛込柳町甲良屋敷、試衛館道場の門前に立つ伊庭は、思案顔になった。「さて、どうするか・・」
どうするも何も、此処まで来てしまっている。
廓で会えると思っていた悪友は、この三日間、一度も貌を見せなかった。
馴染みの見世で訊ねても、逆に、土方の無沙汰を責められる始末である。
会った時に訊けばよい、とは思っていたが、つい、此処まで足を伸ばしてしまった。
「興にも程はあるが・・」
伊庭は、独りごちた。
心裡に刻まれた、あの雨の日の光景ゆえに、慣れぬ事をしている。
案内を乞おうと玄関に立った時、奥から、声音を抑えた言い争いが聞こえてきた。争う声は二人、段々と近づいてくる。
一人は土方で、不機嫌極まりない様子である。
もう一人は、腹に響く重低音の主――。
「――・・治りかけが、一番拗(こじ)らせやすいんだ。知っているだろうが」
「拗らせたものは、仕方ねぇだろ」
「お前が引っ付いていて、どうして拗らせた」
「近藤さんの他出前に、稽古を付けて貰おうとしやがったんだよ」
「それを許したのかよ、らしくもねぇ」
重低音が、皮肉気に笑った。
「棒振りで、あいつが俺の言う事を聞くかよ」益々低まった土方の声に、重低音が苦笑した。
「困った奴だな。ともかく、何か喰わせねぇと、話にならんぞ」
「その前に、てめえの薬を何とかしやがれ」
「薬を飲ませるのは、お前の得意だろうが」
「ものには限度があるっ。今回の薬は、口も開(あ)けねぇぞ」
「良薬口に苦し、と言うだろうが」
「苦すぎるんだよ」
土方が、低く怒鳴った。
「しかし・・、口も開けねぇのは良くないな。少し工夫しよう」「工夫しすぎて、妙なものを作るなよ」
「本当に失礼な奴だな」
「あんな薬を調合する方が、余程失礼だろうよ」
「飯が喰えねぇ分、滋養も混ぜてあるんだろうが」
「余計な混ぜ物をするなっ」
先に姿を見せたのは、医師で、熊のような大男だった。
玄関に立つ伊庭に、さほど驚きもせず、大作りな目を細め、恐いような笑顔を見せた。
「宗次郎の友達かい?」医師とも思えぬ重低音が、腹に響く。
「・・友達? 山口か?」
あとから現れた土方は、驚いた貌をした。
「伊庭・・、何故ここにいる?」
今度は、医師が驚いた貌をした。
「伊庭さん、と言うと、・・神田和泉橋通りの伊庭道場の?」
「ご存知ですか?」
熊医者は、にこりと笑った。
「剣術(やっとう)の方は詳しくはありませんが、近くに、知り合いの医者がいます」
伊庭は、柔らかく笑んだ。
「伊庭八郎と申します」
「道庵です」
二人、頭を下げた。
大柄な医師に、半分隠れた形の土方だけは、得心のゆかぬ貌をしている。
「何をしにきた」
ぞんざいな言い様(よう)に、道庵は呆れた。
「お前は、誰に対してもその態度かえ?」
土方は、道庵を睨み付けた。
「熊。さっさと戻って薬を作り直せ」
道庵を追い出した土方は、今度は、伊庭を睨み付けた。「・・・わざわざ、ねぐらを訪ねて来るってのは、どう言う料簡だ?」
「歳さんに、用があった訳では無いよ」
「・・何?」
伊庭は、心裡で苦笑した。
仁王立ちする土方は、先(せん)の雨の日、柔らかく笑んだ男と同一には見えぬ。
「先(せん)の雨に、どうにも、見慣れぬものを見たからね」
「何の話だ?」
伊庭は、口元を笑ませた。
「三日前の俄雨の日、往来で見かけてね。興味を持った」
土方は、渋い貌をした。
「・・居たのか」
「あんな可愛い子が目の前を通れば、誰だって目で追うさ」
「錦絵に描かれても不思議でない奴に、そう言われてもな」
土方は、苦笑した。
「十五・・、十六かえ? 剣を遣るには、少し細すぎるようだったが・・」「十七だ。あれでも、師範代になろうって腕だぜ?」
伊庭の双眸が、すっと細められた。
「噂の門弟だね」
「噂?」
「・・沖田宗次郎。十二の歳に、阿部藩指南役と試合(しあ)って勝ったと聞いた」
土方は、眉根を寄せた。
伊庭の言う通り、実際、立合いはあったし、勝ちもした。
然しながら、その指南役とは、道場主近藤周助の知己であり、良い歳をした大人である。
宗次郎の天稟を見極めた上で、十二の子供に花を持たせたに過ぎぬ。
「十二のガキと、本気で試合う奴があるか。あいつだって、それはわかっている」「それにしても、尋常な事ではないだろう?試衛館(ここ)の秘蔵っ子と聞いたよ」
土方は、厳しい貌をした。
「・・・お前、何しに来た?」
再びの問いに、伊庭は、余裕の笑みを見せた。
「何、夜に見る貌とは天と地ほども違う。そう言う貌をさせる相手を覗きに来ただけさ」
土方は、目を丸くした後、大いに貌を顰めた。
「とんだ酔狂だな」
伊庭は、笑い出した。
「歳さんの、その貌を見られただけでも、来た甲斐があったよ」
「生憎だが、会わせる訳にはいかん。あいつは寝込んでいる」「風邪かえ?」
土方は、苦々しく口を開いた。
「・・あの雨に濡れたせいでな。軽い風邪だったんだが、少し拗らせた」
伊庭は、得心した。
あの日の土方の行為は、熱を測るものだったのか。
「ともかく、今日は帰れ」
返事を待たずに踵を返す。
「歳さん、日を改めるよ」
振り向かぬと思っていた土方は、足を止め、伊庭を顧みた。
「・・・風邪が癒えたら、引き合わせる。その時は、試合ってやってくれ」
伊庭は、目を丸くした。
『らしくない』にも、程がある。
土方は、伊庭の返事を待つ事なく、廊下の奥へ姿を消した。
試衛館を出た伊庭は、古びた門を振り返った。「鏡花水月(きょうかすいげつ)の心持ち、か・・」
故事である。
鏡に映った花、水に映った月の如く、目には見えても、触れるはおろか、決して手に入れる事の出来ぬもの。
手に入れようと無理をして、水に入れば落ちて溺れる――。
「まさか・・」
伊庭は、くすりと笑った。
あの土方が、水月を欲しがるとは、夢にも思わなかった。
水に映った月は、決して掴めはしない。
欲しくて堪らぬと、水を震わせれば、月はなお取れぬ。
伊庭は、あの日の光景を思い返した。大切な宝を扱うような土方の様子は、驚嘆しつつも嬉しいものだった。
廓の妓達との色事なぞ、所詮は、一夜(ひとよ)限りの夢である。
そうと割り切ってなお、土方には、妓達への一片の情も感じられなかった。
そのような男の心を、大きく揺らす者が居たとは――。
伊庭は、微笑した。
「疾うに、落ちて溺れちまったか」
悪所通いの友は、本気の恋をしたらしい。
障子を指先分だけ開き、静かに声を掛ける。「宗次・・、入るぞ」
春の陽光を閉ざした部屋の中、臥した宗次郎は、苦しげに目を開けた。
土方が、盆を持っているのを見て、やや眉を顰める。
「そんな貌をするな」
土方は、苦笑しながら布団の脇に胡坐をかいた。
額の手拭を桶に放り、掌を当てれば、焼けるような熱が伝わってくる。
「・・下がらねぇな」
それから、片膝を立て、華奢な躰を抱き起こす。
立てた膝に背を凭れさせ、左の腕で支えれば、宗次郎は、難なく土方の腕に収まった。
密着した躰から、熱い熱が伝わる。
「・・土方さん・・・」「何だ?」
右手一本で、食事の世話を始めた土方に、弱々しい視線を向けた。
「欲しく・・ありません」
「駄目だ」
「でも・・・」
「この三日、碌(ろく)に喰っていねぇんだ。少しは喰え」
細い手が、土方の右袖を握り締めた。
それを黙殺し、土鍋の粥を、茶碗に半分程盛る。
「養ってやる。じっとしていろ」「喉を・・、通らないのです」
粥を匙で掬い、少し冷ましてから口元へ運ぶ。
「源さんが、粥をうんと柔らかく炊いてくれた。これなら喉を通る」
口を引き結び、力なく首を振る宗次郎に、土方は目を細めた。
「何だ?」
宗次郎は、再び小さく首を振る。
「・・声に出さなければ、わからねぇぞ?」
「欲しく・・・」
全てを聞かず、匙を押し込んだ。
反らそうとした貌は、左手で押さえ込む。
必死の体で飲み込んだ宗次郎に、土方は微笑した。
「いい子だ」
「・・・」
宗次郎は、恨めしげな視線を向けた。
「喰えねぇと決め込めば、余計に喰えねぇものだ」続いて匙を運ばれ、諦めたように口を開く。
「喰えば力が付く、力が付けば早く治る」
腫れた喉が痛むのか、飲み込む度に貌を顰める。
「治りかけで、寝床から抜け出さなきゃぁ、疾うに治ったんだ」
「・・若先生の他出前に、稽古をつけて頂きたかったのです・・・」
宗次郎は、弱々しく応えた。
「たかが数日の他出を、待てねぇ腕でもないだろうが」「そんな事は、ありません・・」
土方は、薄闇色の瞳を睨み付けた。
「・・その前に、雨の中迎えになぞ来なければ、風邪も引かなかったがな」
宗次郎は、不満気に土方を見つめた。
「・・・試衛館を出た時は、晴れていました」
「戻りの時刻も分からずに、迎えに出る奴があるか」
ぐっと詰まった宗次郎に、次の匙がせまる。
「欲しくない時は、食べない方が躰は楽です」
変な理屈に、土方は、片眉を上げた。
「喰えねぇなら、熊の奴、薬にもっと混ぜ物をすると言っていたぞ」
宗次郎は、身を強張らせた。
「混ぜ物・・?」
「それが嫌なら、ちゃんと喰え」
匙を止める事無く、土方は笑った。
半膳の粥と格闘した宗次郎は、土方の腕で、ぐったりとしている。土方は、大振りの湯飲みを取り上げた。
中には、凄まじい色と匂いの薬湯が、たっぷりと入っている。
「床上げまで、残さず喰えたら、褒美をやる」
「・・褒美?」
宗次郎は、熱で潤み、食事で涙目になった瞳で、土方を見つめた。
「・・・煎じ薬ですか?」
土方は、小さく笑った。
「褒美に煎じ薬とは、良い心がけだな」
たっぷりと入った薬湯を向けられ、宗次郎は、駄々っ子のように貌を背けた。「ひどく苦いのです。飲みたくありません」
「苦いのはこれで終(しま)いだ。熊が、作り直すと言っていたからな」
「・・本当に?」
「飲めなきゃ、仕方ねぇだろ?」
宗次郎は、薄闇色の瞳を伏せた。
「すみません・・・」
「悪いと思うなら、これは飲めよ?」
口元に、湯飲みを寄せられ、宗次郎は渋々と口を開いた。
一口含み、思わず反らそうとした頭の後ろを、左の手で捕まえる。
「逃げるなっ」
更にぐったりとした華奢な身を横たえ、上掛けを引き上げると、子供をあやすように撫で擦る。「もう少し喰えるようになったら、好きな菓子を買ってやる」
「褒美ですか?」
布団の中の宗次郎は、あまり気乗りのしない様子である。
土方は、苦笑した。
菓子も欲しがらぬとなれば、床上げまでは、まだまだ時が要る。
桶の手拭を絞り、熱い額にそっと乗せた。
「・・元気になったら、会わせたい奴がいる」
「何方(どなた)ですか?」
「伊庭八郎」
薄闇色の瞳が、大きく見開かれた。
「伊庭八郎さん・・、心形刀流の・・?」「そうだ」
「土方さんの、知り合いだったのですか?」
土方は、複雑な貌をした。
長きに渡る片恋の相手に、『悪所通いの友』とは、流石に言うに憚られる。
「・・土方さん・・・」
宗次郎は、布団から身を乗り出した。
額の手拭が、ほとりと落ちる。
「こら、熱が上がるぞ」
押し戻そうとする土方の腕に、細い指が絡みつく。
「土方さんは、試合った事があるのですか?」
「ない」
ならば、一体何処で知り合ったのだと、いつもの聡さで問われそうな処だが、高熱の宗次郎は、そこまで考えが回らないようだ。土方の腕を抱き締めるようにして、小さく問う。
「試合って頂けるでしょうか?」
「当然だ。だから、早く元気になれ」
土方は、跳ねる鼓動を宥めつつ、余裕の笑みを見せた。
布団に収まった宗次郎は、そっと手を伸ばした。土方は、その細い手を軽く握ってやる。
「・・眠るまで、傍に居る」
幼い宗次郎なら、そのまま添い寝する処だが、十七ともなれば、流石にそうも行かぬ。
薬湯が効いたのか、薄闇色の瞳は、やや重たげである。
見た目の酷さと味はともかく、道庵の薬は良く効く。
「・・伊庭さんとは、どのような方なのですか?」
「喰えねぇ奴だ」
宗次郎は、透き通るような笑顔を見せた。
「それなら、土方さんと気が合いますね」
「お前も、言うようになったな」
「土方さんに、鍛えられていますから」
宗次郎は、悪戯気な笑みを浮かべた。
そのまま、眠りに落ちた想い人の、細い面輪をそっと撫でる。
「一番の褒美は、伊庭との試合か・・」
何とも切なげな声が、部屋の中に、静かに散った。
廊下に出て、そっと障子を閉めた時、玄関から、道庵の大音声が響いた。「おい、土方っ。薬が出来たぞ」
土方は、貌を顰めた。
黙ったまま、猫のように廊下を進む。
暫くして――、
「熊っ、静かにしやがれっ」
声音を抑えた怒鳴り声が、試衛館を静かに震わせた。
了
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