55556キリ番・芙沙様へ。


『計略』――はかりごと――



「道庵先生。何度もお運び頂き、申し訳ありません」

「なあに、これが俺の仕事だ。構いやしないぜ」

玄関で、深々と頭を下げる井上に、歯切れの良い応えが戻った。

無造作に雪駄を脱ぐのは、身の丈六尺を軽く越す、つるりと剃った坊主頭の大男である。

下げた薬箱で医師と判じられるが、傍目には、道場破りにしか見えぬ。

まじないか、願掛けか、幾日も寝込む患者が出ると無精髭に覆われる貌は、患家にすこぶる評判が悪い。

勝手知ったる試衛館、案内の井上を後に、ドカドカと奥へ進む。


「・・・源三郎。チビちゃんは、少しは喰ったかい?」

「いえ。でも、歳さんが戻りましたから」

道庵は、肩越しに振り返った。

「土方の奴、戻ったのか。随分と間がいいな」

井上は、笑った。

「日野で、大先生と若先生に会ったそうですよ」

道庵は、目を丸くした。

「日野って・・・、あの二人は今朝方、試衛館(ここ)を出たんだろう?」

「はい」

「それで、もう戻ったのか?まだ暮れ六つ前だぞ」

「歳さんは、足が達者ですからね」

「とんだ“鬼足”だな」

道庵は、肩を竦めた。



冬の気配が近付く頃、宗次郎は風邪を引いた。

寺子屋で貰ったか、道場で貰ったか、容態は見る間に悪くなり、この三日、高熱が続いている。

周りの者を悩ませるのは、宗次郎の食の細さである。

この三日は、水と薬湯の他、何も口にしていない。


大股で歩いていた道庵は、ピタリと立ち止まった。

廊下の先から、か細い泣き声が聞こえる。

「・・・土方が戻ったのに、泣いているのかい?」

後ろの井上は、困ったように笑った。

「あれは・・、歳さんが、飯を喰わせているんですよ」

「土方が喰わせても、あんなに愚図るのかい?」

「歳さんだから、あの程度で済んでいるんです。俺や若先生では、苦しそうに泣かれるばかりで、お手上げです」

「意気地のねぇ事だな」

苦笑した道庵も、宗次郎には、とことん弱い。


障子を開けば、夜具の脇に、大層行儀悪く胡坐をかく、土方の背が見えた。

小さな躰を片腕に抱き、脚で器用に挟み込んだ土方は、食事を養っていた。

宗次郎は、真っ赤な貌で泣きじゃくりながら、嫌々をしている。

「あと少しだ、喰え」

「・・・や・・」

拒みの為に開いた口に、間髪を入れず匙が差し込まれる。

泣き声がくぐもり、小さな口から匙がそっと引き出された。

「ゆっくり飲み込めば、喉も痛くねぇぞ」

支えた掌が、静かに背を撫でる。


「ほら、あと一口で仕舞いだ」

優しく宥め、絶妙の間合いで匙を含ませる。

空になった湯飲みを逆さに振り、土方は笑った。

「よし、いい子だ」

胸元に貌を埋め、泣きじゃくる宗次郎を、そっと抱き締める。

「もう泣くな、熱が上がるぞ?」

部屋の入り口で、その様子を見つめていた道庵は、いたく感心した。

「手慣れたものだ。お前は、弟妹(ていまい)が十人はいそうだな」

土方は、ちらりと道庵を振り返った。

「何くだらねぇ事言ってやがる。部屋が冷える、とっとと閉めろ」


相も変らぬ無愛想な応えに、道庵は苦笑した。

土方の横にドカリと座り、傍らの膳を覗き込む。

膳には、粥に汁、煮魚などもあるが、そのどれにも、箸は付けられていなかった。

「・・・一体、何を喰わせたんだ?」

「葛湯だ」

「なるほど」

喉越しの良い葛は、薬効として解熱作用もある。

道庵も、生薬の葛根を、ほんの少し宗次郎に処方している。

しかし、道庵は目を剥いた。

薬湯の入った湯飲みには、そっくり薬が残っていた。


「おい、薬が残っているぜ。何で、先に飲ませなかった?」

土方は、道庵を睨んだ。

「この三日、何も喰っていねぇそうじゃねぇか」

「だから、薬が大事なんだろう」

「大事なものか。苦いばかりで効きゃあしねぇ」

「失礼な奴だな」

渋い貌をした道庵を、切れ長の目が冷たく睨む。

「今は、物を喰わせるのが先だ」

「・・・しかしなぁ、熱が上がれば、薬はもっと苦くなるんだぜ?」

土方の腕の中、小さな背が、びくりと揺れた。


宗次郎は、そっと道庵を見上げた。

涙と熱に潤んだ瞳の奥に、怯えの色が浮かんでいた。

道庵は慌てたが、宗次郎は無言のまま、すぐに土方の胸に貌を埋めてしまった。

「あ、あのな、チビちゃん・・・」

道庵の言葉は、不機嫌な土方に阻まれた。

「熊、無駄口叩かずにさっさと診ろ」

腕の宗次郎を、正面向きに抱え直した。

薄闇色の大きな瞳は、道庵をちらりと見ただけで、すぐに伏せられた。

失言を悔いつつ、道庵は、襟元を寛げ、丁寧に診察する。

燃え立つように熱い躰が、部屋の空気に粟立った。

「・・・熱は、まだ引かんな」

土方は、盛大に貌を顰めた。

「一体、この三日、何やってやがった」

「今流行(はや)りの風邪は、質が悪くてな、熱が高くなるんだよ」


着物を整え、薬の調合を始めた道庵を、土方は横目で睨んだ。

「・・・もう少し、飲み易い薬を作りやがれ」

「薬なんぞ、飲み難いと相場が決まっているだろう」

「それを工夫するのが、てめえの仕事だろう」

土方は、容赦無い。

「大体、何だその髭面は。毎回毎回、験(げん)が悪いんだよ」

「気にするな」

道庵は、顎を撫でた。

「そうでなくても鬱陶しい面だ。髭くらい剃(あた)って来やがれっ」

畳み掛けるように言われ、道庵は、小さく唸った。

腕の中の宗次郎は、土方の胸に頭を預け、ぐったりとしている。

「もういいぜ。布団に入れてやりな」

土方は、道庵を冷たく睨んだ。

「何言ってやがる。薬を飲ませなきゃ仕方ねえだろ」

無愛想な応えに、道庵は目を丸くした。

「飲ませるのか?」

「飲ませねぇと、誰が言った?」




「先生、お茶をお持ちしました」

障子を開けた徳治は、箸を持ったまま、宙を睨んでいる道庵に、眉根を寄せた。

膳の中身は、一つも減っていない。

ぴしゃりと音を立てた障子に、道庵は我に返った。

「徳さんか・・・」

「早く食べて下さいよ。片付きゃしませんからね」

止まっていた箸を見つめ、道庵は溜息を吐いた。

「・・・溜息を吐かれるほど、不味いものは作っちゃいませんよ」

「いや、飯は美味い」

「なら、さっさと召し上がって下さい。飯の前で溜息を吐くなんざ、バチが当たりますよ」

「すまなかった」

「それに、飯を喰いながらの考え事なんて、良い料簡じゃありませんよ」


説教しながら丸盆を置き、茶を淹れ始めた徳治に、道庵は苦笑した。

小さな盆には、茶と菓子が載っている。

「今日は、菓子も付くのかい?」

「かすていらですよ、上手く出来ましたからね」

徳治は、胸を張った。

「明日にでも、試衛館へ持って行きます。これなら、少しは喉の通りも良いでしょうから、宗次郎ちゃんも何とか食べられるでしょう」

「そうしてやってくれ」

「あと、須田町の御実家から、栗がたんと届きましたんで、宗次郎ちゃんに茶巾絞りでも拵えましょう」

道庵は、破顔した。

「そいつはいいな。チビちゃんも喜ぶ」

黒文字で、かすていらを口にした道庵は、満足げに笑んだ。

「美味いな。たいしたものだ」

徳治は作るのに、道庵は試食に、苦心惨憺したものだが、最近の出来は素晴らしい。


「チビちゃんがな、泣きながら飯を養われていた」

「泣きながら?」

徳治は、痛ましげな貌をした。

「そうでもしねぇと、喰わねぇそうだぜ。飯と言っても、葛湯をたった一杯だぜ?」

「でも・・・、少しは喰えるようになったんですね」

「土方が戻っていたからな」

徳治は、にっこりと笑んだ。

「なら安心だ」

「しかしな」

道庵は、渋い貌になった。

「俺の薬は、後回しだ」

「先生の薬は、鬼も逃げ出すと評判の苦さですからね。仕方がありませんよ」

遠慮の無い老僕の応えに、道庵は仏頂面になる。

苦くない薬など、効くものではない。


「おまけに、俺の貌を見た途端に、土方の野郎の胸に貌を埋めちまった。俺ァ、傷ついたぜ」

「だから、髭を剃(あた)った方が良いと申しましたでしょう。第一、食こそ一番の養生だってのは、先生のご信条でしょう?工夫した土方さんに分がありますよ」

「徳さんも、土方贔屓かい」

「あたしは、宗次郎ちゃん贔屓です」

苦笑した道庵は、ふと、真顔になった。

「工夫と言うなら、徳さん、ちょいと力を貸しちゃくれねぇか」

徳治は、眉を顰めた。

「宗次郎ちゃんの嫌がる事なら、御免蒙りますよ」

「乗ってくれなきゃ、チビちゃんは、もっと苦い薬を飲む事になるぜ?」

恐い貌をした道庵に、徳治は身を固くした。

本末を転倒した脅しである。





翌朝、診療所での診察が始まる前に、道庵は、試衛館を訪(おとな)った。

宗次郎の枕辺には、井上が付いていた。

昏々と眠る宗次郎を起こさぬよう、道庵は細心に診察した。

熱はまだ高いが、僅かながら、容態に落ち着きが見える。

「この分なら、夜までには熱も下がるだろう」

井上と二人、愁眉を開く。

「やはり、少しでも腹に入れたのが、良かったのでしょうね」

「土方は、どうした?」

「朝まで看病していましたので、今は部屋で眠っています」

「隣だったな?」

道庵は、腰を上げた。


「邪魔するぜ」

夜具にくるまり、うつ伏せに寝ていた土方は、薄く目を開けた。

道庵の髭面に、眉を顰める。

「・・・鬱陶しい」

徹夜明けで、やや顔色は悪いが、端正極まる造作に少しの遜色も無い。

道庵は、苦笑した。

この若者が、幼い宗次郎に見せる優しさは、どうにも不似合いなつりあいである。

「おめえは、身を滅ぼしそうな良い男だな」

「熊。寝惚けてるのか?」

道庵は、夜具の脇にドッカリと座り込む。

「チビちゃんは、大分落ち着いたな」

「まだ、熱は高い」

「今朝は、何を喰わせた?」

土方は、仏頂面のまま、床の上で胡坐をかいた。

「朝早くに、徳治さんが、かすていらを届けてくれた。徳治さんに、礼を言ってくれ。少しだが、美味そうに喰っていた」

「そいつは良かった」

「で、何の用だ。熊」


「お前も知っての通り、チビちゃんの体質(たち)を考えると、そう強い薬は出せねぇんだよ」

「効かねぇ薬の言い訳の為に、わざわざ俺を起こしたのか?」

冷たい応えに、道庵は頬を引き攣らせた。

しかし、何としても、ここは土方の協力が必要だ。

「チビちゃんの場合、具合の悪い時よりも、普段の食に注意を向けた方が良い」

土方は、片眉を上げた。

「・・・チビに薬食いは無理だと、前にも言ったろう」

「薬と知れなければ、いいだろう?」

「何?」

「味に工夫をすれば、薬と気付かれずに済む」

腕組みした土方は、仏頂面で考え込んだ。

「・・・食い物に、薬を混ぜようってのか?」

「嫌いの多いチビちゃんだ。菓子にしようと思う。お前は、それを喰わせてくれ」


土方は、一つ息を吐いた。

「話はわかったが、何故俺に頼む」

「お前なら、チビちゃんも口を開けるだろう?」

土方は、貌を顰めた。

「鳥の雛じゃねぇんだ。あいつだって、何にでも口を開ける訳じゃねぇ」

「お前が適役なんだよ」

「気が乗らねぇ」

夜具に潜り込もうとする土方を、道庵は必死に宥めた。

「薬とわからなければ、問題なかろう?」

「妙な謀(はかりごと)で、嫌われてたまるか」

昨夜の徳治同様、にべもない。

「そうは言うが、これもチビちゃんの為だぜ」

「なら、てめえで喰わせろ」

道庵は、唸った。

それが出来れば、苦労はない。


「土方、おめえ久しぶりにチビちゃんに会ってどうだ?あんなに窶れちまった姿を見てよ」

土方は、無言のままだ。

「少しも喰えるよう、出来る工夫をしてやるのも、周りの者の努めじゃないかい?」

土方は、溜息を吐いた。

「・・・言っておくが、あいつは聡い。少しでも不審があれば、喰わねぇぜ」

「拵えるのは徳さんだ。その辺は、上手くやる」

土方は、夜具を被った。

「・・・徳治さんの腕は疑っちゃいねぇ。てめえの考えなのが、危ういだけだ」

「本当に、失礼な奴だな。だが、おめえが相手なら心配ない」

道庵は、太鼓判を押した。




宗次郎の熱が漸く下がったある午時(ひるどき)、道庵は、試衛館を訪ねた。

「土方は、いるかい?」

ひょっこりと、勝手口から貌を覗かせた医師に、井上は仰天した。

「道庵先生。玄関から声を掛けて下されば、聞えますよ」

「それじゃ、不味いのさ」

道庵は、小声になった。

「熊。ここで、声を潜めてどうする?」

囲炉裏に座していた土方は、むっつりと腰を上げた。

「・・・何を持って来た?」

「これだ」

道庵は、懐から包みを取り出した。


包みを開いた土方は、並んだ菓子を胡乱に見つめた。

透き通った葛の皮に、小豆餡が包まれている。

「・・・冬に、葛饅頭か?季節が合わねぇな」

「喉越しを考えたんだ。餡に薬を混ぜた」

「薬・・・?」

道庵の言葉に、井上は目を見張った。

土方は、仏頂面のまま、兄弟子を見つめた。

「熊の謀(はかりごと)だ。源さんは、関わらない方がいい」



「チビ、昼餉だ」

宗次郎は、床の中で、大きな瞳を向けた。

すっかり面窶れした様に、土方は、心裡で嘆息する。

道庵の提案に乗ったのは、宗次郎の為ゆえである。

夜具の脇に座った土方は、身を伏せ、覆い被さるように額を合わせた。

薄闇色の瞳が、瞬きもせず土方を見つめる。

「・・・もう、大丈夫だな」

頬を突っつくと、宗次郎がにこりと笑んだ。

「さっき、熊が、菓子を持ってきた」

「・・・道庵先生が?」

「そうだ。美味い菓子だから、少し喰おうな」

盆の上には、葛饅頭が載っている。

宗次郎は、菓子と土方を交互に見つめた。


「・・・昼餉が、お菓子?」

「たまには、いいだろ?」

薄闇色の瞳に、警戒の色が浮かんだ。

「・・・欲しくない」

土方は、心裡で舌打ちした。

遣り取りの中で、何か不審があったらしい。

「ともかく、喰え」

宗次郎は、驚いたような貌で土方を見上げた。

薄闇色の瞳が、疑いの色を強く宿した。

「・・・欲しくない」

「一つでいいから、喰え」

「いらないっ」

宗次郎は、ぱっと夜具から逃げ出した。

逃げた先は部屋奥の隅、これは宗次郎の可愛い所である。しかし、摑まえようとした腕の隙間から、さっとすり抜ける。

こうなれば、土方でも容易には摑まえられぬ。

「チビッ」

土方は、腕を広げ、ゆっくりと近付く。

瞬きもせず土方を見上げる宗次郎が、じりと後退った。

「・・・おいで」

「やっ」


俊敏極まりない宗次郎だが、今は普通の状態ではない。

何とか摑まえ、抱き上げた宗次郎は、喘ぎながらも土方の腕の中で、必死にもがいた。

「それ、薬だっ」

「菓子だと言ったろう。薬な訳があるか」

「歳三さんの嘘つき」

ギクリとしつつも、平静を保つ。

「何で、俺が嘘をつく」

宗次郎は、頬を膨らませた。

「お菓子は、いつも徳治さんが届けてくれるよ。道庵先生が届けてくれるのは変だよ?」

「何?」

「それに、玄関から道庵先生の声が聞こえなかったよ」

土方は、目を見張った。

このチビ助の、何と勘の良い事か。

「・・・熊は、往診のついでに寄ったんだ」

宗次郎は、大きく首を振った。

結わずにいた髪が、土方の首筋を撫でる。

「それに」

「それに、何だよ」

「歳三さんが、道庵先生を悪く言わないの変だよっ」

土方は、絶句した。

一瞬の隙に、腕から宗次郎が抜け出した。


「宗次郎っ」

障子に向かって駈け出すが、とうとう体力の限界が来たらしい。

足元が、よろめいた。

咄嗟に伸びた土方の腕が、倒れる躰を掬い上げ、転がりながら抱き止めた。

間一髪、間に合った。

「・・・馬鹿野郎、急に動くな」

固く目を瞑った宗次郎は、そろそろと目を開けた。

抱きかかえた腕の主は、仰向けのまま、大きく息を吐いた。

「歳三さん、痛くない?」

泣きそうな声に、土方は笑った。

「痛くねぇよ」

掌に感じる背は、恐ろしい程に細くなってしまった。

土方は、嘆息した。

「痛くも、重くもねぇ。・・・こんなに軽くなりやがって」


掌に伝わる鼓動が落ち着くまで、土方は細い背を撫で続けた。

宗次郎の息が整ってから、土方は声を掛けた。

「なあ、宗次郎」

「・・・はい」

「熊の計略は、お前の読み通りだが、菓子は徳治さんが拵えたんだ。不味いはずがねぇだろう?」

宗次郎は、大きな瞳を、二度三度と瞬いた。

「本当?」

「本当だ」

「薬・・、沢山入っている?」

小さな両の手を胸に支(つか)え、土方の貌を覗き込む。

「もう熱は下がったんだ。ほんの少しだけだ」


小さな躰を抱いたまま、土方は、起き上がった。

盆の菓子を摘み上げると、先ず自分の口に放り込んだ。

宗次郎は、驚いた。

「美味いぞ。普通の菓子と変わらない」

勿論、ただの菓子とは言い難いが、徳治の工夫か、薬とはわからないし、葛を使っている為、喉の通りも良い。

「・・・苦くない?」

土方は、笑った。

「大丈夫だ」

恐々と開けられた口に、そっと菓子を入れてやる。

「・・・美味しい」

漸く笑顔を見せた宗次郎は、両の手を伸ばし、土方の首に抱き付いた。

「歳三さん」

土方の耳に、潜めた声がくすぐったい。

「何だ?」

「嘘つきって言って、ごめんなさい」

土方は、小さな躰をぎゅっと抱き締めた。

「早く、元気になれよ」




診療所で、そわそわと待っていた徳治は、顛末を聞き、ホッと胸を撫で下ろした。

「なら、あたしの事は、怒っちゃいませんね?」

「美味かった、ありがとうと、言っていた」

何故か、不機嫌な様子の道庵に、皮二枚で破顔した。

「ああ、良かった。先生の企(たくら)みも、たまには当たるんですね」

いそいそと、夕餉の支度に取り掛かる。

浮き浮きとした老爺の背に、つい、ぶつぶつと文句が出る。


「土方には、『ごめんなさい』で、徳さんには、『ありがとう』で、俺には何も無しだ」

「そりゃあ、先生は苦い薬をお作りですからね」

「薬は、苦いものだ」

「そう仰るばかりですから、良くないんですよ」

道庵は、不貞腐れた。

「大体、今回の工夫は、俺の手柄じゃねぇか。話に乗りたがらなかった徳さんと土方が良い目を見るってのは、納得がいかねぇ」

鍋を抱えた徳治は、にっこりと振り向いた。


「先生、医者が嫌われるのは世の道理、仕方ありませんよ。宗次郎ちゃんが、うんと大きくなれば、その時は、きっと感謝されますよ」

「一体、何年先の話だよ」

「子供なんてのは、びっくりする程、成長が早いものですよ。苦い薬に拘ってらっしゃると、嫌われっぱなしで大人になっちまいますよ」

「そいつは困るなぁ・・・」

苦労の報われぬ生業を持ってしまった身の不運に、道庵は、深く深く嘆息した。





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