『降音』―ふりおと―
「雨、止まないねぇ・・・」格子窓から見上げる、いくつものあどけない貌が、揃って諦めの溜息を吐く。
先程まで、夏空の広がる、綺麗な晴天だった。
午(ひる)前に、俄に暗くなったかと思えば、天の水瓶を、ひっくり返したような豪雨となった。
窓から覗く小路には、幾筋も水の道が出来、次々と合流しては、波立つ小川になっている。
屋根を叩く雨粒は、尋常でない程に賑やかな音を立てている。
「まだ、空は暗いわね」子供たちの頭上から、凛とした声が降る。
「琴乃先生、雨止まないかなぁ?」
もみじの手が、蘇芳の袖を握り締めた。
「もう少し、待ってみましょうね」
琴乃と呼ばれた女性は、袖を握る小さな女の子に、柔らかな笑顔を見せた。
寺子屋の名を、紫明(しめい)塾と言う。しかし、近在の者は簡単に「寺子屋」と呼んで済ませてしまう。それ故に、名前の通りはやや悪い。場所は、牛込柳町から、神楽坂に向かう寺社近く。
通う子供は、商いを学ぶ子と、武家の子弟が、丁度半分ずつ程か。
誰にも敷居は低いが、中々に格式ある寺子屋である。
師は、合わせて五名。市ヶ谷近くに住まう武家の妻女が多い。本日教えていた琴乃は、御家人の娘で、母親と交互に寺子屋へ通っている。清楚ながら、凛とした容貌の娘である。
見上げる空は黒々として、大きな雨粒を絶えず落としている。子供達は、午(ひる)までの授業で、中食(ちゅうじき)に帰宅する。大抵の子供は、そこまでの授業で仕舞いにし、午後に再び訪れる者は、めっきり数も少なくなる。
止まぬ雨に、迎えに来る親もいるが、小商いをする親などは、迎えに来る事はままならぬ。迎えの大人達に、方向の同じ子供を託し、居残る子供が数える程になってから、琴乃は、子供達を帰す算段を始めた。
生憎と、この家作には、煮炊きをする設(しつら)えは無い。子供達に、切ない思いをさせるのも辛いものである。
琴乃は、飽かず外を見つめたままの、小さな背に声を掛けた。
「宗次郎ちゃん。おみよちゃんがお休みだから、同じ道の子がいないわね」宗次郎は、肩越しに頷いた。
「おみよちゃんは、風邪を引いたっておばさんが言っていました。お休みで良かったです」
琴乃は、目を丸くした。
「宗次郎ちゃんは、優しいわね」
宗次郎は、不思議そうに首を傾げる。
「琴乃先生の方が、優しいよ?」
琴乃は、笑った。
道場の内弟子として暮らす少年は、およそ武術にそぐわぬ、人形のような綺麗な造作をしている。性分も、武術に合うとも思えぬ、優しい少年である。
琴乃の良く知るその道場は、荒っぽい剣術道場である。小さな少年の、頼り無い躰付きを見る度に、どうにも違和感を覚える琴乃だった。
「近藤の大先生は、誰か迎えに寄越すかしら?」頬に手を当て、呟いた琴乃に、元気な応えが戻ってきた。
「琴乃先生。今日、道場は午(ひる)からも稽古があります。だから、一人で帰れます」
可愛いお人形さんは、悪戯気な瞳で、にこりと笑う。黙って見つめる琴乃に、念押しするように付け足した。
「・・・道草しないで帰ります」
それは『する』と言っているようなものである。琴乃は、眉根を寄せて見せた。
「駄目ですよ。この前、ひどい風邪を引いたばかりでしょう?」
「走って帰るから、大丈夫です」
「いけません」
ぴしゃりと言われ、宗次郎は頬を膨らませた。
「何処にも、道草しません」「宗次郎ちゃん?水溜りで遊ぶのも、道草と言うのですよ?」
宗次郎は、薄闇色の瞳を大きく見開いた。
「通りにある水溜りでも、道草ですか?」
琴乃は、吹き出してしまった。
「通りでも、道草です」
小さな面は、しょげ返った。
琴乃が様子を見ていると、薄闇色の瞳が、思案の色を浮べている。
「琴乃先生」
「何ですか?」
「今日はね、源さんと一緒に竹刀の手入れをするのです。だから、早く帰りたいので、道草はしません」
実に健気な言葉だが、薄闇色の瞳には、どうにも悪戯気な色が見え隠れしている。
琴乃は暫し、小さな面とにらめっこする。
「琴乃は、いるかい?」引き戸の向こうから、腹に響く重低音が掛かった。
琴乃が応えを返すよりも早く、宗次郎が弾けるように貌を上げた。
ガラリと戸を開け、巨体を折り曲げるように入った男に、部屋の其方此方(そちこち)に散らばっていた子供達は、仰天して琴乃の後ろへ逃げ込んだ。
玄関口に立った大男は、眉が濃く、目鼻立ちのはっきりとした坊主頭。
「道庵先生」
慌てて近付く琴乃に、道庵が唐傘を差し出す。
「託(ことづ)かって来たぜ」
「まあ、どうして先生が?」
豪快に笑う道庵を、子供達は、恐々と覗いている。
「おめえの家の、往診の帰りだ。父君の世話で、皆が天手古舞していたからな、ついでに引き受けた」琴乃は、耳まで赤くなった。
「父上も・・ぎっくり腰で・・大袈裟な・・・」
道庵は、笑った。
「ぎっくり腰ってのは、中々に難儀なんだぜ。大事にしてやんな」
琴乃の袂から、良く知る貌が覗いた。
「道庵先生、こんにちは」
道庵は、目を丸くした。
「何だチビちゃん。此処に通っていたのかい?」
「はい」
「するってえと、琴乃が、大先生の知り合いか?」
琴乃は、首を振った。
「私ではございません。近藤の大先生は、母の旧知です」
道庵は、納得顔で頷いた。
「おめえの母君も、別嬪だからなぁ」
「そんな仲では、ありませんよ」
琴乃は、くすくす笑った。
道庵は、部屋を見渡した。「小さいのが五人。・・・傘一本じゃ、足りなそうだな」
「大丈夫です。同じ方向の子ばかりですので、順に送って参ります」
「一人で、大丈夫かい?」
「先生は、診療所に戻られるのですか?」
「いや、柳町近くに往診だ」
琴乃は、宗次郎を見つめた。
「一人、預けても宜しいでしょうか?」
「預かるのは、チビちゃんかい?」
宗次郎は、ガッカリしたように俯いた。
「・・・道草したくてウズウズしていましたので、お目付けが欲しかったのです」
二人は、物憂げな宗次郎を見つめ、笑った。
やや弱まった雨の中、大小の影が歩を進める。道庵は、小さな躰を濡らさぬよう、縮こまって歩いている。
薄闇色の瞳が、未練たっぷりに大きな水溜りを見つめるのが、どうにも可笑しい道庵である。
「チビちゃん。水遊びは、もっと暑い時にやりな」
頭の上からの重低音に、宗次郎は貌を上げる。
「濡れて帰っちゃぁ、また熱を出すぞ?」
「道庵先生・・・」
「何だい?」
宗次郎は、道庵の肩口が濡れているのをじっと見つめる。
「道庵先生は、濡れても平気?」
「俺は、平気だよ」
小さな面は、思案顔になった。
「大きくなったら、道庵先生みたいになれるかなぁ?」
道庵は、吹き出しそうになる。
このお人形さんが自分のようになれば、天地もひっくり返ると言うものだ。笑いを堪え、道庵は言った。
「なら、もっと沢山喰わねぇとな」
水煙しぶく往来の向こうから、背の高い男がゆっくりと近付いて来た。今日の土方は、藍下黒を着流し、黒の角帯。高下駄を引っ掛け、両裾を軽く絡げている。
傘を差す様子が、何とも言えずに粋である。
「・・憎らしい程に、絵になる奴だねぇ」
道庵は、笑った。
「チビちゃん」
「はい」
宗次郎が、道庵を見上げた。
「気を付けな。あの貌を見慣れちゃ、目が肥えちまう」
「肥える?」
首を傾げる宗次郎に、道庵は腰を折った。
「そこいらの女子(おなご)じゃぁ、満足しなくなるって事さ」
「満足?」
再び、首を傾げる。
「何、くだらねぇ事を教えてやがる」すぐ傍で、不機嫌な低い声が響く。
二人が見上げるや否や、小さな躰が浮き上がった。
「宗次郎、帰るぞ」
片腕で、軽々と抱き上げると、土方は道庵を一瞥した。
「熊。道草喰ってねぇで、さっさと往診に行きやがれ」
「本当に、無礼な奴だな。礼の一つも無いのかい?」
土方は、鼻で笑った。
「余計なお世話だ。迎えに行かねぇ訳ねぇだろうが」
道庵は、苦笑混じりに宗次郎を見つめる。
「チビちゃん。明日は朔日(ついたち)だ。ちゃんと来いよ?」
宗次郎は、苦虫を噛み潰したような貌をする。
「待っているぞ」
「・・・はい」
大きな背を見送った後、土方は、宗次郎の貌を覗き込んだ。「チビ助。いつから、朔日になった?」
宗次郎は、大きく溜息を吐く。
「大先生が、絶対に忘れない日にしなさいって」
「中日(なかび)でも、忘れなきゃいいだろう?」
不機嫌な土方に、腕の宗次郎は憂鬱に応える。
「・・・皆が忘れていたから、忘れたの」
このチビ助の言う事は、ややこしい。
「・・・皆って、お前は覚えていたんだろう?」
薄闇色の瞳が、一瞬、視線を泳がせた。確信犯である。
「・・・お前の所為じゃねぇか」「だって・・・」
「だって、じゃねぇ」
「歳三さん。どうして元気でも行かないと駄目なの?」
「そりゃ、お前の・・・」
土方は、口を噤んだ。躰が弱いなど、言われて面白い筈も無い。
「・・・熊が、お前に会いたいんだろうよ」
宗次郎は、首を傾げる。
「試衛館に、会いに来ればいいのにね」
「何でだ?」
宗次郎は、にこりと笑う。
「だって、剣術出来るよ?」
土方は、危うく吹き出しそうになる。
甲良屋敷への坂の途中、土方が、傘を斜めに傾けた。「宗次郎、もうすぐ雨が止むぞ」
「どうして?」
雨粒は、まだ絶えず落ちている。土方は、口元を引き、微笑んだ。
「蝉しぐれが、降ってきた」
通りの大木や、四方から、賑やかな音が降り始めている。
了
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