ヒラヒラと翻る緋色の翅が、空と海の青に滲んで銀朱に染まる。

飛ぶ術を忘れた蝶は、風と重力と、絶望に弄ばれて奈落へ堕ちた。

傷付いた蝶が行き着く先は、光の世界か、絶望の闇か―――





(ぎん)(しゅ)(こち)(ょう) ―― 序章 ――





・・・・・・ヤベェ・・・、クスリだ・・・。

気付いた時は、遅かった。

長身、豪腕の「賊」は、いとも簡単に総悟を羽交締めにした上、渾身の足蹴をものともせず、華奢な体を宙へと浮かせた。

ギリギリと締められた腕が悲鳴をあげ、手から菊一文字が滑り落ちる。

足元に落ちた愛刀は、総悟を拘束する「賊」によって、蹴り弾かれて、離れた場所でカシャンと小さな音を立てた。

「てめっ・・・!」

咄嗟に開いた口元は、布で押さえ込まれ、息が詰まる。

「・・・ぐっ・・」

花に似た甘い香りが口腔に広がり、頭の芯が痺れるような感覚に包まれると、軋む痛みは、みるみる麻痺していく。

耳元に響く音は、何かの音楽か。夕方の蝉の声に混じり、煩い不協和音を奏でた。

――ちくしょう・・・っ――

眩むように霞みゆく視界に、倒れて動かない隊服が二つ見えた。

――山崎、原田・・・っ――

隊服の黒色が視界いっぱいに広がり、総悟を闇へと引き摺り込む。




それは、全くの油断だった。

油断するのも当たり前で、総悟と原田の率いる一番隊、十番隊、そして監察の山崎が出動した捕り物は30分も前に解決済だった。

隊士達が連行する、十数名の捕縛浪士を見送った三人は、現場を再検分し終えて、正に引き上げる時、何者かの急襲を受けた。

突然打ち込まれた砲弾に気付いたのは三人が同時だったが、咄嗟に大きな体で総悟と山崎を庇った原田は被弾し、それが催眠弾だと判った時には、総悟の前に立つ山崎が崩れるように倒れた。

二人に駆け寄る間も無く、音も無く囲む複数の黒装束の「賊」に、総悟も無言で剣を抜いた。

初弾に定石の閃光弾を用いなかったのは、離れた場所にいる隊士に気付かれるのを防ぐ為だろう。

あっけなく終わった捕り物とは異なり、明らかに組織化された格上の敵――。




――まるで、白霧で織った薄い紗に包まれたような、不思議な感覚が総悟を襲う。

(それ)が全身を覆い、取り払われると同時に、「何か」が引き抜かれるような、言い知れぬ恐怖と喪失感を覚えた。

口元の白い布は、未だ押さえつけられたままだ。

これが命を絶つ「毒」なのか、拉致拷問の手始めなのかは判らないが、真選組一番隊隊長の身分を持つ総悟にとって、命取りになる事だけははっきりしている。


――ちくしょ・・う・・・――

意識が遠ざかる中、近藤さんの大きな笑顔と、仏頂面のマヨラー野郎、仲間達の姿が脳裡を過ぎった。

これが「走馬灯のように」ってヤツなら湿っぽくて御免蒙りたい所だが、最期に見る夢なら、そんなに悪かねえ・・・・・・。

それからついでに、「ぶっとい腐れ縁」で繋がっちまった万事屋の面々――。

チャイナとの決着は、付けられそうもねえな。

旦那には、見舞いに来てくれた礼を、ちゃんと返していなかった。

『お礼ならデートで』とか、本気か冗談か分からない事を言ってたけど、どっちにしろ果たせそうもねえや・・・・・・。


真選組に――、選んだ道に悔いは無い。

時折、『兄達』が、修羅の道に踏み込ませたとか何とか、後悔していたのは知っている。

でも、この道を決めたのも、選んだのも俺だ。

――だから、あんまり悲しがらないで欲しいな。

ま、土方さんはダメージ受けた方が面白いけど、近藤さんを泣かせるのは辛えや。




華奢な体が弛緩したのを確認した「賊」は、塞いでいた口元を緩めた。

ふいに呼吸が楽になった総悟の喉を、乾いた夏の熱が一気に温めた。

眩んだ目は、もう何も捉える事は出来なかったが、せめて一撃と、再度喰らわせようとした足蹴は、力無く「賊」の脛を撫でただけで終わった。

「まだ動けるとは、たいしたものだ」

男の面白そうな声は、聞き覚えのないものだった。

耳障りな不協和音が、幾重にも歪んで破鐘(われがね)のように響く。

「・・・ひ・・・じか・・――」

せめて最後に、大切な人を呼んだ声は、音にならずに空(くう)に散った。

「おやすみ」

無慈悲な男の囁きが、意識を喪失するギリギリの際にいた総悟を闇へと突き落とした。







・・・・・・『向こう』へ行けば、もう一度、姉上に会えるんだろうか・・・。






――そうして総悟は、長い長い闇に堕ちた。








2008.01.31

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