『初日』―はつひ―



ギシギシと軋む音は、耳慣れた廊下のもの。

ガタリと、雨戸を開く音と共に、温(ぬく)まった空気が逃げてゆく。

一気に這い上がる冷気に、腕の中の小さな躰は、やや身動いだ。

それを宥めるように、優しい手が背を撫でる。

「・・・起きないか?」

「ぐっすり寝ている」

大人達の忍び音は、静かな闇に飲み込まれた。




大晦(おおつごもり)の江戸の町に、重々しい鐘の音が響く。

鐘の音は、静まった家並や往来に、染み込む様に行き渡る。

牛込柳町、甲良屋敷にある試衛館道場。

囲炉裏火が赤々と熾る温(ぬく)まった部屋にも、鐘の音が染みてゆく。

その音に、暖を取る者達の賑やかな遣り取りが、一時、静まった。

「今年も、もう終わりだなぁ・・」

井上の暢気な声に、近藤が頷いた。

「今年は、一年が過ぎるのが早かった」

「年寄り染()みた事を言うな」

土方が、笑った。

「チビ、大人しくなったな。・・眠いのか?」

土方の揶揄(からか)い声に、宗次郎は、小さく首を振る。

「平気・・」

やや、呂律が悪い。

許しを得ての夜更かしに、はしゃいでいた宗次郎だったが、先程から、言葉数が少なくなっていた。

近藤、土方の間に行儀良く座ってはいるが、時折、ゆらりと舟を漕ぐ。


向かいに座る井上が、明るく声を掛けた。

「宗次郎、鐘は、幾つ鳴った?」

ぼんやりと井上を見上げた宗次郎は、たどたどしく応える。

「・・さんじゅう・・」

舌のまわらぬ応えに、井上は笑う。

「ほら。また一つ鳴ったぞ?」

「・・・さんじゅう、いち」

言うや否や、小さな躰が、ゆらりと傾ぐ。

「宗次郎、あと幾つ鳴る?」

覗き込む近藤に、目元を擦り、応えを返す。

「・・ななじゅう、なな・・」

再び傾いだ躰が、コトリと、近藤の膝上に落ちた。

膝にぶつかるや否や、宗次郎は、ぎこちなく身を起こす。

行儀良く座り直す様子に、近藤は笑んだ。


「・・宗次郎、布団で眠るか?鐘は、まだ沢山鳴るぞ?」

「んんっ」

宗次郎は、小さく首を振る。

しかし、繊細な面輪を飾る長い睫毛は、今にも閉じようとしている。

「頃合いに起こすから、大丈夫だぞ?」

近藤に応える前に、小さな躰は、今度は反対側に大きく傾ぎ、隣の膝に沈み込んだ。

ガツンと、膝頭へ強かに額を打ったが、今度は身動ぎもしない。

「・・寝たな」

膝の主が、小さく笑った。

「歳、・・膝は大丈夫だったか?」

心配そうに覗き込む近藤に、土方は苦笑した。

「心配は、こいつのおでこにしてやれよ」

膝に突っ伏したままの小さな躰を、ひっくり返した。

額が、僅かに赤くなっている。

土方は、ゆっくりと身を屈め、小さな額に唇を押し当てた。

「・・コブには、ならねぇな」


「歳さん、これを・・」

井上が寄越した綿入れに、小さな躰を包(くる)み込む。

年の瀬に届けられた綿入れは、宗次郎の姉、きんの縫ったものである。

少しだけ袖の長い綿入れから、小さな指先がちょこりと覗く。

「やっぱり、少し長いな」

井上の声に、土方は小さく笑った。

「こいつの場合、丁度良くなるのは、次の冬頃だな」

「寒くないかな?」

「大丈夫だろ。これ以上包(くる)んだら、埋まっちまう」

土方は、小さな躰をそっと抱き上げた。

宗次郎は薄く目を開いたが、腕の主を見上げる事無く、眠りに落ちた。


あどけない寝顔に、兄弟子三人は、忍び笑う。

「慣れない夜更かしで、はしゃいでいたからな」

「朝からはしゃげば、眠くもなるさ」

近藤は、土方の腕を覗き込む。

「・・布団で寝かせるか?」

「いや、このままでいいだろ」

二人の小声に、薄闇色の瞳がゆるりと開く。

「鐘・・鳴った?」

「鳴っている」

「本当に、百八つ鳴る?」

「鳴るさ」

「ふうん・・」

興味が有るのか無いのか、判じかねる応えを返すと、薄闇色の瞳は閉じられた。

三人は、貌を見合わせる。

「・・今のは、寝惚けてたのか?」

「さあな」




いつの間に鐘が止んだのか、しんと静まる気配に、宗次郎は重い瞼を震わせた。

身に纏う空気は、すっかり冷えきっている。

頬を打つ冷気に、ふるりと身を縮ませると、低い声が、宥めるように降ってくる。

「まだ、寝ていろ」

聞きなれた声は、子守唄のように心地良い。

抱き締める腕も、いつもの、優しく暖かなものだ。

「勝っちゃん、・・大丈夫か?」

「ああ、先に上るぞ」

「歳さん、私が抱いているよ」

「頼む」


続いて抱き締めてくれた腕も、やはり優しく温かだったので、宗次郎は安心だった。

その内、躰がふわりと浮き上がり、もう一人の、大好きな腕に抱き留められた。

「いいか?歳」

「ああ」

それから、もう一度躰が浮くと、すぐにいつもの腕に収まった。

頬に当たる風は、更に冷たい。でも、腕の温かさが何より心地良かった。

宗次郎は、摺り寄るように腕に頬を寄せた。

「宗次郎。・・起きろ」

すぐ傍で聞こえた近藤の声に、宗次郎はそっと目を開いた。

目を開けても真っ暗で、宗次郎は、慌てて幾つか瞬きをする。


風が吹きつけ、ひどく寒い場所だった。

「若せんせ・・・?」

不安気に、近藤を探す宗次郎の耳に、カタリと、屋根瓦が音を立てた。

驚いて見遣れば、闇に慣れた目に、道場の屋根に立つ井上が見えた。

「屋根・・?」

頭の上から、土方の声が響いた。

「ここは、見晴らしがいいからな」

大人達は、屋根の傾斜も苦にせず、どっかりと座り込んでいる。

「チビ、見てみろ。初日の出だ」


遠く、家並の先の彼方に、橙の光芒が見え、次第に空を赤く染めてゆく。

夕映えよりも、ずっと濃い色合いに、宗次郎は目を見開いた。

闇を追いやる赤暗色の空が、見る間に、清(さや)かな青に姿を変える。

赤色が、綺麗な青色に蹴散らされ、消えてゆく。

下方から、白い光の帯が空を照らし、その光の中心から、まばゆい天道が昇る。

何処か遠くで、人々の歓声が聞こえた。


「おめでとうございます」

井上の声に、近藤、土方が挨拶を返す。

「おめでとうございます」

黙ったまま、初日を見つめる宗次郎の頭を、土方は乱暴に撫でた。

「チビ、十になったな」

「はいっ」

近藤が、目を細めて笑った。


土方は、小さな躰を高々と持ち上げた。

宗次郎は、驚いて土方の首にしがみ付く。

「吉運は、初日と共に天から降る。だから、朝陽を浴びて、福を沢山授かるんだ」

「福?」

土方は、笑った。

「そうだ。お前は特に浴びておけ」

井上が、にこやかに言葉を続ける。

「沢山の福を授かったら、後は寝ちまうんだよ」

「寝る?」

宗次郎は、目を丸くした。


「今日は一日中、ゴロゴロするんだ」

「ゴロゴロ?」

不思議そうに首を傾げる宗次郎に、井上は頷いて見せた。

「たっぷり朝寝をして、目が覚めたら雑煮とお節を喰って、福茶も飲む。それから、またゴロゴロ過ごす」

「・・稽古は、しないのですか?」

宗次郎は、隣の近藤を見上げた。

「元日は、何もしないんだ」

「何も?」

近藤が頷いた。

「授かった吉運を、零さないように、じっと過ごすんだ」

大きな手が、宗次郎の頭を撫でた。

「初湯も明日だ。明日は、皆で湯屋に行こうな」

「皆?」

薄闇色の瞳が輝いた。


「よしっ、ついでに願い事だ」

土方の声に、近藤は眉根を寄せた。

「歳・・、七夕じゃないんだぞ?」

「構わねぇだろ?」

土方は、笑った。


近藤の横で、井上が、真顔で手を合わせた。

「宗次郎の嫌いが、一つ直りますように」

近藤、土方は、目を合わせて苦笑した。

近藤も、大きな声で初日に祈る。

「宗次郎が、飯を一膳喰えるようになりますように」


小さな躰を抱いていた手が、宗次郎の目の前で、ぱんっと勢い良く合わせられた。

「今年は、熊の面(つら)を見る回数が減りますように」

土方が、大真面目に祈る姿に、近藤、井上は吹き出した。

宗次郎は、頬を膨らませた。

三人の願いは、祈りと言うよりも、自分に対する要求である。


「チビ、お前もお願いしておけ」

土方の声に、宗次郎は、朝陽に照らされた兄弟子達を見つめた。

「・・何でも、いいの?

「願い事だ。何でもいいさ」

近藤が、笑った。


少し考えた宗次郎は、ちらりと土方を見上げた。

「・・何だ?」

その声に、宗次郎は、慌てて頭(かぶり)を振る。

小さな手が、行儀良く合わせられた。

「・・・歳三さんが、お尻を叩かなくなりますように」





戻る