『勾引』―かどわかし―
「どうにも、嫌いが多いねぇ」
珍しくも物憂げな道庵の声に、台所から徳治がひょいと貌を出した。
徳治、歳の頃は五十と少し、頭に白いものが混じる、小柄で人の良さそうな老爺である。
弱音を吐いた大きな主は、しかし、のんびりと背を伸ばしている。
「先生。宗次郎ちゃん、もう帰ったので?」
道庵は、首だけ振り返る。大あくびの最中だった。
「寺子屋帰りに寄ったからな。源三郎が心配するってさ」
「寺子屋?」
徳治は、首を傾げる。
「宗次郎ちゃんは、学問所に通っている訳じゃあ、ないんですかい?武家の子で、道場に暮らしているってのに?」
道庵は、くるりと躰の向きを転じた。
「あそこの大先生の、知り合いの処に通っているそうだぜ。学問所にも行くには行ったが、どうも大先生の気に入らなかったそうだ。まあ、学問なんざ何処でも出来るさ」
「やけに詳しいですねぇ」
「任せとけ。チビちゃんの事なら、その内誰より詳しくなろうさ」
大きく胸を張る主に、徳治は笑った。
最近、掛かり付けとなった小さな患者は、住み込み先の住人も含め、目下、主の気に入りである。
人形のように可愛い少年は、徳治にも差し入れの礼を丁寧に返してくれた。
最も、喉の腫れで、味がわからなかったと素直に言われ、徳治は破顔したのだったが。
「・・・で、嫌いが多いんですか?」
道庵は、むっつりと黙った。
「嫌いも多いが、とにかく食が細いんだよ。あんなに喰わねぇガキも居ねぇだろうよ」
「昼餉に誘えば宜しかったのに」
道庵は、ニヤリと笑った。
「逃げられたんだよ。源三郎の握り飯の方がいいってさ」
「おやおや」
「全く、徳さんの飯を断るたぁ、大物なチビちゃんだろう?」
道庵の言に、徳治は笑った。
「すると・・・やっぱりあれは宗次郎ちゃんだったのかな?行商の男と、歩いていたけど・・・」
「行商?」
道庵は、怪訝な貌をした。
「良くは見えませんでしたが、前の通りを、道場の方へ歩いていきましたよ」
「行商の男たぁ、何だよ?」
徳治は、首を傾げる。
「何の商いかは、わかりませんでしたが、行商の荷に、竹刀を括り付けていましたよ」
「竹刀だと?」
道庵の声が、厳しくなったのに、徳治も身を固くする。
「てっきり、あそこの門人かと思いましたが。・・・まさか?」
道庵は、引き戸を打ち破る勢いで駈け出した。裸足である。
「先生っ、履物っ」
徳治が、雪駄を掴んだのを見て、道庵が怒鳴った。
「徳さんっ、下駄だっ」
下駄を手に掴んだまま、道庵は、地響きを立てて駈け去ってゆく。
「まさか・・・勾引(かどわかし)?」
徳治は、その場に座り込んだ。
診療所と試衛館道場までは、五町程か。最後に、上り坂がある。
土埃を巻き上げ、物凄い形相で走る道庵に、往来の人は、ギョッとして道を開ける。
その勢いは、冬眠明けの飢えた熊の如き、である。
坂の手前に、小さな影が見えた。道庵は、肩で息をしながら歩を緩める。
共に歩く行商の男は、確かに妙な風体だった。
大きな荷を背負い、屋号に象ったのは『石』の文字か。それに、使い込んだ竹刀が括り付けてある。
紺手拭を頭に被り、着物の裾を大きく絡げている。どう見ても行商人であるが、しかし、荷に竹刀を括り付けた行商人など初めて見た道庵である。
少年の声が、微かに聞こえた。
「・・・王子のお稲荷さん?次は、連れて行ってくれる?」
行商の男が、ゆっくりと頷くと、宗次郎は、横でぴょんぴょん飛び跳ねた。
「本当?約束だよ?」
少年の、高く柔らかな声だけが、離れた道庵の耳に届く。行商の男が、話し掛けている。
「・・・・?」
「大丈夫。ちゃんと歩けるよ」
道庵は、裸足のまま、そろそろと近付く。行商の男の声は、かなり低い。それ故、話の筋迄はわからない。
「・・・・・」
「はいっ」
宗次郎が、元気に返事をする。
(畜生っ、源三郎の奴っ)
道庵は、歯噛みした。
(この坊やの、一体何処が、人見知りが激しいってんだっ?)
このまま進めば、試衛館道場の前を通る。大胆な誘拐犯である。だからこそ、小さな子供は騙されるのであろう。
道庵は、巨体の何処に、これ程のしなやかな動きが出来るかと思う位、密やかに男の後ろへ忍び寄る。それから、どれ程の不器用者でも外しはしない距離で、下駄を、力の限り男の頭に叩きつけた。
下駄が当たるや否や、渾身の力で男を蹴り倒す。
土煙を上げ、倒れ込む男には目も呉れず、小さな躰を横抱きに掬い上げ、そのまま大股で駈け出した。
「あっ」
宗次郎が、驚きの声を上げた。大きく揺れる腕の中、道庵を見上げる。
「道庵先生っ?」
「口を閉じてろっ、舌を噛むぞっ」
宗次郎は、慌てて両の手で口を押えた。薄闇色の瞳が、驚きに大きく瞠られている。
道庵は、一気に坂を駈け上がった。
門前で、井上が打ち水をしていた。
そこへ、物凄い勢いで駈け込んで来た道庵を見て、ポカンと口を開ける。
土埃にまみれ、坊主頭から湯気を立てる道庵と、小脇に抱えられ、両の手で口を押えた、小さな弟弟子。
「源三郎っ、寄越せっ」
駈け寄り様、井上の手桶をひったくると、道庵は頭から水を被った。宗次郎が、小さな悲鳴を上げる。
「道庵先生っ、冷たいっ」
「この馬鹿者がっ」
道庵は、小脇の宗次郎を叱った。熊の如き唸り声に、宗次郎は首を竦める。
「知らねぇ男について歩いちゃあ、危ねぇだろうがっ」
井上が、蒼白になった。
「本当か?宗次郎っ」
宗次郎は、薄闇色の瞳を大きく見開いた。抱えられたまま、困ったように井上を見上げる。
「源さん、あのね」
「男が言い訳するねぇっ」
道庵の、一刀両断である。
「でもね、道庵先生」
「黙れ、馬鹿者っ」
「馬鹿は、てめえだっ」
背に掛かった大音声に、道庵は振り向き、呆気に取られた。
そこには、土埃まみれの土方が、青筋を立て、仁王立ちしている。手には、道庵の下駄。土方はどう見ても、行商の格好をしている。
「熊っ、てめえっ一体どういう料簡だっ」
がなり立てる土方に、道庵は呆けたようになった。
「おめぇ・・・」
「ウチのチビを勾引(かどわか)すとは、一体、何のつもりかと聞いているっ」
「土方・・・。おめえ、その格好(なり)は・・・」
「歳三さんはね。薬屋さんなんだよ」
応えたのは、脇に抱えた宗次郎だった。
「薬屋?」
小脇に抱えたままの宗次郎を、困惑の目で見つめる。
確かに今日の風体は、行商人のそれである。会う度、印象の違う土方に、道庵は混乱した。
「土方、おめぇ・・・まさか、隠密かっ?」
「目ぇ開けて寝てるのか?このっボケ熊っ」
土方は、小脇の宗次郎をひったくる。
「てめえの患者を、濡らしてどうするっ。チビに風邪を引かす気かっ」
「・・・王子に連れて行くってのは・・?」
土方の腕に収まった宗次郎が、おずおずと声を掛ける。
「王子のお稲荷さんへ、次の商いの時に連れて行ってくれるって約束したんだよ?」
大勘違いである。道庵は、その場にへたり込んだ。
「俺は・・てっきり、勾引(かどわかし)かと・・・」
「てめえの方が、余程極悪面だろうよっ」
井上が、堪えきれずに吹き出した。
門前の騒ぎに、近藤が貌を出した。
「どうした、歳。・・・道庵先生も、一体その格好は・・・?」
二人共、汗だくな上に土埃まみれである。医師は裸足で、その下駄は親友が持っている。
おまけに、宗次郎はずぶ濡れだった。
「あのね、若先生。勾引(かどわかし)に遭いました」
にっこりと笑った宗次郎の言葉に、土方と道庵が力無く笑う。井上は、腹を押えて笑っている。
近藤だけが、紙のように白くなった。
もうすぐ、夏の盛りである。
了
戻る