『菊花』
一番隊を率いた斎藤が屯所に戻ったのは、午(ひる)を少し過ぎた頃だった。壬生の田舎道に、明るい秋の陽が降り注いでいる。
巡察前は、ピタリと閉じていた部屋の障子が、掌ほどの幅に開けられていた。
声を掛ける事無く、そっと中を覗いた斎藤は、夜具の中の総司と目が合った。
「一さん。巡察、お疲れ様です」「・・・具合は、どうだ?」
「もう、大丈夫です」
少し掠れてはいるが、声に張りが出て来た。
今朝方、様子を見た時に、額に乗せられていた手拭いは、今は、枕元の手盥の縁に掛けてある。
「昼餉は、何か喰えたか?」
「・・・いいえ。でも、夕餉はちゃんと食べます」
斎藤は、スルリと部屋に入ると、差料を置き、夜具の脇に腰を下ろした。「熱は引いたのか?」
「ええ。元々そんなに高くなかったのです」
やや大儀そうに、躰を起こすのを制止する。
「まだ横になっていろ。顔色が悪い」
「もう大丈夫です」
細い肩に添えた斎藤の手の甲を、おろした髪が、サラサラと流れる。
総司は、薄闇色の瞳を柔らかく細めた。
「すみません。三番隊の出動は昨日だったのに、今日は、一番隊をお願いしてしまって・・・」
「そんな事は気にするな」
髷を解かれた総司の髪は、肩のあたりでひとつに軽く束ねられていた。江戸の頃、病み付いた時には、間髪入れず、土方に髷を解かれていた総司を知る斎藤だが、当の土方は、三日前から大坂に出張っている。
総司が髪を解かれるのは、どうやら、「試衛館組」の習慣になっているようだ。
「そうなのです」
少しみだれた髪を掻き上げながら、総司は、困ったように笑った。
「小さい頃から、土方さんが、すぐに解くようになって・・・」
「それから、皆の習慣になったのか」
総司は、頷いた。
「長患いの病人じゃあるまいに、と思うのですが、髷を解いた方が楽だと言って・・・」
「それは、土方さんが正しいな」
「一さんまで・・・」
少し大げさにも思われるが、それだけ、病がちな子供だったのだろう。
――病がちなのは、今も変わらぬが。
日中(ひなか)は蝉の声、夜は秋の虫の音と、季節の境が混じる頃、人々が、その移ろいを肌で感ずるよりも一寸早く、総司は、決まり事のように、ひどく体調を崩す。それが、比類無き剣の才を享けた代償と言うならば、あまりに高いと、斎藤は思う。
天とて、与えたならば、存分に揮わせれば良いのだ。
小者が、茶を運んで来たのを機(しお)に、斎藤は、障子を閉めさせた。「あ・・・」
名残惜しげな声を上げた総司に、向き直る。
「日中(ひなか)は、まだ暑い位だが、風は冷たい。躰に障る」
「もう少しだけ、空を見ていたいのです」
「空は逃げん。元気になったら、たっぷり眺めろ」
斎藤の応えは、にべも無い。
「でも、少しだけ・・・」
「駄目だ」
斎藤は、首を横に振った。
部屋に、羽織の類の無いのを見、浅葱羽織を肩から落とす。総司に羽織らせると、ぶっきらぼうに告げた。
「・・・空の代わりだ。これで辛抱しろ」
「空?」
「浅葱は、秋の空色に似ている」
総司には、かなり大きな羽織が、華奢な身を包む。
「・・・斬り合いは、無かった」
付け足しのように呟いた斎藤は、話を仕舞った。
だから血の匂いは無いと、言外の含みに、総司は微笑んだ。
「・・・浅葱色は、秋の空ですか。一さんらしいですね」
斎藤は、懐から小さな包みを取り出した。「花月屋のじいさんから、預かった」
「花月屋さんから?」
花月屋とは、四条に店を構える、総司気に入りの老舗の京菓子屋である。
主は江戸生まれの江戸育ちで、長じて後に縁戚の花月屋に養子に入った為、江戸贔屓だと、そこまでは総司から聞かされていた。
細い手の上に包みを落としながら、渋面になる。「巡察の度に、沖田さんはどうしたと、煩くてかなわん」
「巡察の度・・・?」
小首を傾げた総司に、斎藤は、苦り切った貌をした。
「あのじいさんは、三番隊を連れていようと、一番隊を連れていようと、巡察の帰りを、いつも店の前で待っている」
総司は、目を丸くした。
出動する隊は、副長である土方が、日毎、巧みに変えているし、総司が寝付いた今の一番隊は、永倉、斎藤が交代で受け持っている。複雑な仕組みは、隊外の者に、容易く解(わか)るようなものでは無い。
総司は、クスクスと笑った。「一さんは、花月屋さんに、気に入られているのですよ」
「それは、お前だろう?」
「私は、お店の常連と言うだけです」
「俺は、甘いものには強くはない」
「・・・花月屋さんは、商い抜きで、一さんが好きなのですよ」
「何?」
驚いたように貌を上げた斎藤に、総司は、悪戯気な瞳を見せた。
「だって、私が一番隊を連れている時は勿論ですが、代わりを頼む永倉さんからも、そんな話は聞きません。それに、こちらが巡察中の時は、往来(みち)で会っても、互いに目礼するだけですよ」
斎藤は、呆然とした。
ならば、花月屋の目当ては、斎藤本人と言う事になる。
包みを開くと、菊を模(かたど)った練切と、ほっこりとした白い饅頭が二つずつ。「ああ、もう秋の菓子ですか。・・・綺麗ですね」
白く細い両の手が、捧げるように、菓子を目の高さまで持ち上げ、嬉しげに、薄闇色の瞳を細めた。
ぼんやりと、その姿を見つめる斎藤に、笑顔を向ける。
「この饅頭は、東風(こち)と言うのです」
「東風?」
「はい。江戸風の饅頭だから、『東風』と付けたそうです。そんなに甘くは無いので、一さんでも食べられますよ」
饅頭を睨む斎藤に、総司は、明るい声を掛けた。
「花月屋さんに、江戸から来た新撰組は、東の風だと言われた事があるのです」
京では荒夷(あらえびす)と言われる東国人を、風に譬(たと)えるとは、江戸者らしい風流(いき)がある。
「・・・だから、一さんの事が好きなのでしょうね」
総司は、微笑した。
練切は、頑として受け付けなかった斎藤だが、結局、饅頭は付き合った。最後の一口を、溜息と共に飲み込んだ斎藤は、二つ目の練切に取り掛かる総司を見つめた。
菓子が喉を通るようになったのなら、僅かずつでも、回復するだろう。
「夕餉も、ちゃんと喰えよ」
総司は、頷いた。
「『東風』一つ分は、必ず食べます」
斎藤は、苦笑した。
軽口が出るのも、回復の兆しである。
「総司」「はい?」
「下坂中の土方さんが戻る迄に、床を払わないと心配する」
「はい」
「菓子屋でも、菊見でも、何処でも付き合ってやる」
総司は、首を傾げた。
「・・・一さん?」
「だから、早く治って、花月屋に談判(かけあ)ってくれ」
「え・・・?」
「俺は、甘味も好きでは無いし、口下手だ。お前と一緒で無ければ、決して、花月屋の暖簾も潜らん。だから、待ち伏せは止めてくれと」
「・・・・・・待ち伏せ・・・」
斎藤は、まじめに頷いた。
「菓子屋のじいさんでは、斬る訳にもいかん」
本気で困り果てている友に、笑いを堪えた総司は、秋空を纏った肩を微かに震わせた。
了
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