『兆し』―きざし―
「・・っ・・あ・・・」固く引き結ばれていた口の端から、とうとう声が零れ出す。
漸く陥落(おち)た想い人に、男は、満足げな笑みを湛えた。
「総司・・・」
「土方さ・・っ・・」
いっそ、溶け合えとばかりに突き上げれば、男の肩に縋る細指と、腰に絡みつく白い下肢が、強張るように震えを伝える。
「・・・っ、もう・・」「もう、何だ?」
泣き濡れた薄闇色の瞳が、限界の色を浮かべるが、男は動きを止めなかった。
尚も刻まれる悦楽に、零れ出る嬌声は、もう、止められない。
「・・っぁ、いやっ・・・」
「嘘をつけ」
最奥まで突き上げられた熱い昂りに、細い背が大きくしなった。
「いいか?」
「・・・っ」
固く目を瞑り、そむける貌を、ゆっくりと自分に向かせる。
「総司、いいか?と訊いている・・」
「やっ・・」
土方は、口元を引いた。
「まだ、足りねぇか?」
一度引いた腰を、一気に突き立てる。
「ひじかた・・さ・・っぁ」
悲鳴のような、吐息のような――。
そんな、切なくも甘やかな呼び声を最後に、ゆるゆると華奢な躰が堕ちてくる。
それを抱き止めながら、土方は、汗ばんだ白い項へ唇を寄せた。天衣無縫の想い人は、常ならば、寒暖の差にすら頓着を見せぬ。
珍しくも汗ばむ華奢な身に、土方は、まんざらでもなく悦に入る。
刹那。その耳に、プツリと、やけに鮮やかに戒めの切れる音が響く。
それと共に、総司の黒絹の髪が、流水の如く土方の貌を撫でて流れた。
――元結が切れる程に、激しく抱いてしまったろうか。土方は、苦笑混じりで黒絹に手を差し込み、そっと指で掻き上げる。
現れた花の顔(かんばせ)は、睫毛を露で飾ったまま、固く目を閉ざしている。
もう、何処にも知覚の無い躰は、抱(いだ)かれるまま、思うままにその身を揺らせる。一つに絡み合う熱は、まだ、同じ脈動を伝え合っていた。
繋がれた余韻に暫し浸り、土方は、ゆっくりと想い人との身を分つ。
最後の熱の離れる瞬間、僅かに震えた想い人は、しかし薄闇色の瞳を開く事は無かった。
余韻に震える細い身が、静かな寝息を立てる迄、土方は、腕に包んだ背を、愛おしげに撫で続けた。
それから、ゆっくりと華奢な躰を清め始める。
闇にも映える白い肢体、その細い輪郭を丹念に辿り、土方は眉を顰(ひそ)めた。抱いていた最中(さなか)にも感じてはいたが、改めて見ずとも、夜目にも懸念は明らかである。
皐月の初めと言うのに、その身は、春頃に比べ更に細まっている。
いくら何でも、夏痩せにはまだ早すぎる。
隊務の過酷さ故、致し方の無い仕儀かも知れぬが――。
「・・・少し、痩せすぎだぞ?」
闇間(やみま)の小言に、想い人は、何の応えも返さない。
この処の、隊務の厳しさは過酷の一途を辿っている。京洛に潜む長人の数も、冬とは比較にならぬ程増えている。
当然、隊の出動回数も増え、隊士への負担も増すばかりである。
そんな中、躰の弱い想い人を慮り、少しも負担のないようにと、訪う夜を非番の前夜のみと、固く心に決めてはいるが――。
挙句、これならば、傍近くで、体調管理までをも引き受けた方が余程良い。
「・・・何の為に、辛抱していると思っていやがる」
渋い声は、闇だけが聞いていた。
(それにしても――)土方は、切れ長の目を細めた。
(どうにも細くなりすぎだ)
男の手は、手早く、それでいて壊れ物を扱うように、至極丁寧に想い人を清めてゆく。
素早く夜着を着せ掛けて、華奢な躰を胸元へ攫う。
夜着の上から、静かに撫でる細い背も、すっかり肉が落ちている。
土方は、心裡で嘆息した。
これ以上痩せぬ内に、美味い物でも喰いに連れ出そう。
江戸の味が恋しいと言うなら、探す事も厭いはせぬ。
そんな思いを馳せながら、土方もまた、ゆるゆると眠りに堕ちてゆく。
屯所の内も外も、全てが闇に沈む中、腕に抱(いだ)く想い人から、小さな咳が零れ出した。耳聡く目覚めた土方は、震える華奢な背を、ゆっくりと撫で摩る。
中々収まらぬ咳に、総司が目を覚ます気配がした。
「・・・大丈夫か?」
静かな声音に、土方を見上げる。
薄闇色の瞳が、玻璃玉のように土方を映し出した。
「・・・すみません。起こしてしまいましたね」
土方は、喉奥で笑う。
「お前は、良く眠っていたな」
総司は、土方の胸に頬を寄せた。
「土方さんの腕は、心地良いから・・・っ」
また、咳が零れ出す。震える背を撫でながら、咳の鎮まるのを暫し待つ。
「随分と乾いた咳だな。・・風邪か?」心配そうな声音に、総司は、荒い息のままゆっくりと首を振った。
「春に引いた風邪が、まだ抜けないのです。咳だけが・・残ってしまって・・・」
あまり良い状態ではない。
「医者には、掛かったのか?」
「いえ・・・」
「総司」
土方の声が、低まった。それに、総司は優しく笑む。
「・・・今度、行ってみます」
「明日だ」
「え?」
「非番だ。必ず行け」
「でも・・・もう治りますから・・」
戸惑いの言葉は、土方の唇に摘み取られた。
「・・・安心しろ。診られて困るような場所に、跡は無い」腕の躰が、瞬時に熱を帯びた。
「土方さんは・・・」
「・・俺は?」
「いつも、そんな意地悪ばかりを言う・・・」
土方は、笑った。
「悩みの種を、一つ減らしてやっただけだ。医者が恐いのは、我慢しろ」
「恐くなど、ありませんよ」
拗ねた声音に、再び笑う。
「心配なら、印(しる)した場所を教えてやるぞ?」
腕の総司は、土方を睨んだ。
真っ赤な貌に睨まれて、土方は、何とか笑いを呑みこんだ。
「可愛いな、総司」
総司は、薄闇色の瞳を目一杯見開いた。
「土方さんは・・」
「・・俺は?」
「馬鹿ばっかり言う」
胸元の指が、夜着を握り締めた。
三度(みたび)、背が震え、咳き込んだ。乾いた咳は、長く続く。胸元の指が、震えながら力を込めた。
浅く荒い呼吸に、新たな息を取り込めずにいる。
土方は、総司を抱いたまま起き上がった。
「何か、飲むか?」
気遣わしげな声音に、総司は、力無く首を振る。
「・・・やっぱり・・風邪かな?」
言うや否や、総司は、土方の腕から抜け出ようとした。それを咎めるように、抱き締める腕に力を込める。
「何処へ行く?」
腕の檻の中、薄闇色の瞳は、困惑する。
「部屋へ戻ります」
「まだ、明烏(あけがらす)には、早すぎる」
更に、困惑顔になる。
「・・土方さんに伝染(うつ)したら、大変ですから」
「馬鹿野郎」
総司には、土方の怒りがわからない。
「土方さん?」
おずおずと見上げる想い人に、腕の力を更に込め、土方は華奢な躰を戒めた。
「少しは、自分の躰を厭え」
総司は、笑った。
「だから、今夜襲いに来たのに」
「・・襲われに、の間違いだろう?」
土方は、躰の位置を入れ替えた。細い手首を夜具に縫い止め、華奢な躰を押さえ込む。
「寒気はないのか?」「はい。・・京の春は、寒いから」
「何言ってやがる。もう皐月だぞ?」
それに、と唇を塞ぐ。
「・・・暑かろうが、寒かろうが、平気なくせに」
「平気ではありませんよ。土方さん程、暑がりでも、寒がりでもないだけです」
「俺が、普通なんだよ」
渋面の土方に、総司は微笑んだ。
「ちゃんと、喰っているのか?」
「はい」
これは、あまり信用出来ない。
「・・咳は、いつも出るのか?」
総司は、首を傾げた。
「朝に少しだけ・・・でも、すぐに収まります」
「・・そうか」
薄闇色の瞳が、甘えた色で、端整な貌を見上げる。
「だから、医者は・・・」
「行け」
総司は、くすりと笑った。
「土方さんは、心配性だなぁ」
「何言ってやがる」
掌を胸元に差し込み、白磁の肌を撫で上げる。
途端、大人しくなった想い人を、無骨な指が蕩かせてゆく。
「道庵との約束、違えるなよ」「・・え?」
総司は、端整な貌を見上げた。
「上洛して一年を超えた。奴への文に、未だ掛かり付けが見つからぬと書くつもりか?」
「・・・私の掛かり付けは、道庵先生だけですよ」
土方は、貌を顰めた。
「いくら熊でも、京(ここ)迄往診出来るか」
笑い出した総司を睨み、土方は声音を低めた。
「今度も、医者が見つからないと抜かしやがったら、俺が探す」
「はい」
「総司」障子に手を掛けたまま、総司がゆっくりと振り向く。
明けの陽を背に、細い輪郭が光に溶けた。
何とも儚げな様子に、土方の心裡が俄にざわめく。
「今日は、屯所で過ごせ。・・・早く治せよ?」
薄闇色の瞳が、悪戯気な色を浮かべた。
「あれ?医者を探さなくてもいいのですか?」
土方は、気だるくうつ伏せていた躰を起こし、想い人を睨みつけた。
「揚げ足を取るな。医者は、朝餉の後ですぐに探せ」
「そんなに早く?」
土方は、眉根を寄せた。
「どうせ、花月の爺さんに遊んで貰う気だろうが?菓子屋も忙しい。仕事の邪魔をするんじゃねぇぞ?」
「邪魔などしませんよ」
「どうだかな」
「午(ひる)には必ず戻れ。昼餉は一緒に喰うからな」「はい」
総司は、綺麗に笑う。
「土方さんに、お土産を買って来ましょう」
土方は、貌を顰めた。
「饅頭も団子も、干菓子も要らん。早く戻れ」
「・・・餅菓子は?」
「総司っ」
「はい」
笑い出した傍から、咳が零れる。
「総司・・」半身を起こした土方を、目顔で制する。
「だいじょう・・ぶです。では、午(ひる)に」
「・・・ああ」
ピタリと締められた障子に、華奢な影が映り、黒絹を靡かせながら去ってゆく。
土方は、遠ざかる足音に、暫し耳をそばだてた。
「昼餉は、外へ連れ出すか・・」
医者が見つかぬと言ったなら、そのまま二人で探すも良い。
土方は、布団の中で伸びをした。このまま、想い人の甘やかな残り香と共寝をするか。
それとも、今朝も山と積まれるであろう仕事を片付けに掛かるか――。
「・・仕事だ」
土方は、布団の上で胡座をかいた。
ふと、障子に目を遣り黙り込む。
射し込む陽は、どんどん明るく部屋を照らす。
「・・・熊の奴に、文でも書くか・・」
心の奥深くに、しこるような懸念。それが、恐ろしい兆しであるとは、土方も、総司自身も気付かなかった。
了