『事始』―ことはじめ―
江戸、牛込柳町甲良屋敷にある、試衛館道場。師走も半ばを過ぎ、事始(ことはじめ)への準備に取り掛かる頃である。
台所で、夕餉の支度に取り掛かっていた井上は、突然始まった表の怒鳴り合いに、飛び上がらんばかりに驚いた。声の主は、日野、佐藤屋敷へ出稽古に出掛けていた筈の、道場主近藤周助と、養子の島崎勝太である。
「お待ち下さい、養父上(ちちうえ)」
「もう、決まった」
「ですがっ」
「煩えぞ、勝太」
大音声の遣り取りに、井上は恐々と貌を出した。
玄関先で睨み合う二人は、剣呑な雰囲気を漂わせている。「大先生、若先生も、どうされたのですか?」
井上の声に、周助は、不機嫌に勝太から目を逸らした。
「源三郎、濯ぎを頼む」
「はい」
そのまま乱暴に、上がり框に腰をおろす。
「まだ、話は終っておりません」
食い下がる勝太を、睨み上げる。
「決まった事と、言ったろう」
「しかしっ」
「俺の遣る事に、文句をつけるな」
怒鳴る周助に、勝太の方も一歩も引かない。
「俺は反対です。こればかりは、承服しかねます」
「お前が承服しようがしまいが、もう決まったんだよ」
「ならば、お断り下さい」
周助は、大きく貌を顰めた。
「馬鹿抜かせ。断るも何も、申し入れたのは俺の方だ」絶句した勝太は、喉奥から声を絞り出した。
「・・まだ、八つですよ」
「明けりゃ、九つだ」
「ですがっ」
「煩えっ、この話は終(しま)いだっ」
井上の用意した盥に足を突っ込むと、ざぶざぶと洗う。
更に剣呑な雰囲気となった二人に、話の見えぬ井上は、困り果てた。
乱暴に足を拭った周助は、不機嫌に立ち上がる。「勝太、道具の手入れをしておけよ」
「・・はい」
不承不承応えを返す勝太に、ちらりと視線を向ける。
「お前も、あの才を認めていたんじゃねぇのか?」
「それは、そうですが・・」
渋々頷く勝太に、周助は片眉を上げた。
「あの才を、てめえで育てられるんだぜ?どうだ、四代目」
「・・・っ」
言葉に詰まった勝太に、にやりと笑う。
「剣術馬鹿が。得心しやがった」
勝太は、耳まで赤くなった。
「俺は得心などっ」
「ともかく決まった事だ。わかったな?」
「・・・はい」
「此処に住むのは、正月からだ」
勝太は、驚いた。あと、半月もない。
「源三郎、夕餉の後に酒だ。付き合えよ」
「はい」
立ち尽くした勝太は、その背を無言で見つめた。
周助は、ふと立ち止まり、振り返った。「・・歳三の奴は、来ているか?」
「いいえ。ここ二月(ふたつき)程は、見ませんが・・」
井上の応えに、渋面になる。
「勝太っ」
周助の怒鳴り声に、勝太は弾けるように貌を上げた。
「歳三に言っておけっ」
「はい」
「形ばかりの入門なんざ、俺は許さねぇからな」
「は?」
「他流試合にうつつを抜かさねぇで、せめて江戸での商いの時は、試衛館(ここ)で励めっ」
「はい・・」
「出来ねぇって抜かしやがるなら、破門だっ」
「養父上っ」
「煩えっ」
ドカドカと、乱暴に歩み去る周助を、勝太と井上は呆然と見つめた。
「・・一体、どうなさったのです?若先生」戸惑いがちに見上げる井上に、勝太は苦々しく口を開いた。
「源さん・・、宗次郎の入門の話は、知っていたのですか?」
「入門?」
「内弟子の話です」
井上は、ああ、と頷いた。
「林太郎さんから聞いています。・・決まったのですね」
勝太は、不機嫌に頷いた。
「道場の門を前にしてから、突然言い出すので、驚いて・・」
「夏の頃には、話が出ていたようですよ」
勝太は、驚いた。
「宗次郎は、まだ八つではないですか。源さんは、反対しなかったのですか?」「沖田の家の事です。いくら遠縁でも、口は挟めませんよ」
勝太は、憮然とした。
「宗次郎は、沖田家の嫡男ではないですか」
「はあ・・」
井上は、困ったように頷いた。
「しかし・・、内々の事情までは、分かりかねますが・・」
「それだけじゃない・・・」
難しい貌をする勝太を、井上は見つめた。
「・・他に、何か?」
「揉める」
「揉める?」
首を傾げた井上に、勝太は、苦虫を噛み潰したような貌をした。
「養母上(ははうえ)が、納得されると思いますか?」
「御養子に取る訳でも御座いませんし、・・大丈夫では?」
戸惑うような井上の声に、勝太は長大息した。
「養母上に、それが通じるかどうか・・」
勝太の声を掻き消すように、部屋奥から、諍いの声が聞こえて来た。
周助の妻が、癇症な性分のまま、甲高い声で叫んでいる。
勝太は、井上と目を合わせ、大きな溜息を吐いた。
「・・通じなかったようですね」
井上が苦笑した。
「若先生、今濯ぎを持って参りますので・・」「いや」
勝太は、引き攣るように笑った。
「井戸へ行きます」
憂鬱な思いで裏の井戸へ回ると、噂の主の一人が、井戸端に立っていた。
行商の荷を縁におろした歳三は、悠然と水を使っている。
「歳・・」
「よう、久しぶりだな。喧嘩は終わったのか?」
歳三は、面白げに勝太を見遣った。
「・・お前、聞いていたな?」
怒ったような勝太の声に、歳三は苦笑した。
「あれだけ大声で遣り合えば、三軒先まで響き渡る。今の喧嘩なら、坂の下まで聞こえるだろうさ」
勝太は、むっつりとした。
「・・お前、どう思う?」
「俺の破門か?」
「違う」
「チビの入門か?正月なら、すぐだな」
事も無げに応える親友に、勝太は苛立った。
「宗次郎は、まだ八つだぞ?」「明けりゃ、九つだろ?」
勝太は、大きく貌を顰めた。
「随分前から、聞いていたな」
歳三は笑う。
「坂を上るのを見掛けてな。追ったんだが、門前で喧嘩を始めちまうから、声を掛ける切欠が掴めなかった」
「・・どう思う?」
「どう?俺の破門か?」
「怒るぞっ」
盛大に貌を顰めた勝太に、歳三は笑った。
「大先生が、決まった事と、言っていたじゃねぇか。どうもならねぇだろ?」
「もう、いいっ」
歳三は、日野に暮らす宗次郎を、殊の外可愛がっている。
今回の話を聞けば、自分と同じく、反対するとばかり思っていた。
ぷんぷん怒り、水を汲む勝太に、歳三は真顔を見せた。「沖田の家の生計(たつき)は、そんなに苦しいのかよ?」
歳三の声に、勝太は釣瓶を手繰る手を止めた。
「・・養父上の方から乞うたと、言っていたぞ?」
「そのまま信用出来るのか?」
勝太は、ふと不安になった。
宗次郎の姉、みつの、美しい面差しが浮かぶ。
あの優しい女性(ひと)が、丈夫とも言えぬ幼い弟を、乞われたからと手放すだろうか――。
「俺達、餓鬼には、わからねぇ話だがな」
嫌味のない歳三の呟きに、勝太は口を引き結んだ。
「ああ、そうだ。其処の部屋、貰うぜ?」「え?」
唐突に声を掛けられ、勝太は思考を引き戻した。
歳三が顎で指しているのは、井戸から見渡せる、一番奥の部屋だった。
今は、物置代わりに使っている。
「江戸に居る時は、使わせて貰う」
「急に、どうした?」
勝太の問いに、歳三は笑った。
「大先生も言ってたろ?入門早々、破門される訳にはいかねぇからな」
「物置のようになっているから、片付けないとな」
勝太の応えに、歳三は、さらりと付け足した。
「奥の部屋と、その隣、明日まとめて片付ける。手伝ってくれよ?」
「隣・・?」
歳三は、縁に置いた荷を持ち上げ、応えを返した。
「チビが入門するんだろ?部屋が要る」「歳・・」
不満気な勝太に、歳三は笑った。
「勝っちゃんに文句があろうがなかろうが、チビは此処に来るんだぜ?」
「わかっている」
「なら、少しでも暮らしやすいようにしてやれよ」
歳三は、にやりと笑う。
「あの才に、惚れているんだろ?」
勝太は、大きく貌を顰めた。
「お前が、それを言うな」
元々、宗次郎の剣才に惚れ込んでいたのは、歳三の方だ。
それが元で今回の話になったのなら、勝太としては、面白いものではない。
その心裡を察してか、歳三は真顔に戻り、勝太に向き直った。
「大先生に挨拶して来る。・・ついでに、おかみさんのご機嫌伺いもしておくか」「・・今は、喧嘩の最中だ」
「だから行くんだよ」
歳三は、笑った。
「お前の不得手は、俺が補う。・・ちゃんと守ってやれよ?」
言外に、半月の後には、此処で暮らす事になる宗次郎の事を含めている。
勝太は、端正な顔立ちの親友を見遣った。
「・・補い過ぎて、破門されるなよ?」歳三は、声を立てて笑った。
「勝っちゃんが言うと、冗談に聞こえねぇな」
踵を返した歳三を、勝太は呼び止めた。
「頼むぞ」
歳三は、笑って頷いた。
「師走もあと少し、事始には、丁度いいだろうさ」
了
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