『友垣』



「待て」

「おう、待つぞ。いくらでも待つから――、」

「うん?」

「宗次郎を呉れ」

すっかり白く小さくなった髷を上品に結い、眼光鋭く矍鑠(かくしゃく)とした風情を持つ老武士は、手の中で機嫌良く碁石を弄びながら、向かいの近藤周助にサラリと告げた。

試衛館で『番町の御隠居』と呼ばれている、旧友、崎坂作左衛門(さきさか さくざえもん)に、周助は、碁盤を睨んだまま鼻で笑った。


「旗本なんぞの堅苦しい家に、大事の内弟子を遣れるかよ」

ピシリと打たれた黒い石にか、周助の言葉にか、作左衛門は、ムッと睨んだ。

「旗本なんぞとは何だ、旗本なんぞとはっ。当家は七百石を頂戴する御目見得ぞ」

「それがどうした。御目見得の身分と言っても、代替りの時に会える程度だろう?有り難くもねえ」

「何をっ、流行らねぇ貧乏道場よりマシだろう」

「流行っているさ。武州じゃてえしたもんだ」

「お前(めえ)の道場は江戸にあるんだ。江戸で流行らなきゃ意味は無い」

「その江戸の弟子を取ろうってのは、何処のどいつだ?」

直参旗本と小さな剣術道場の主と、かけ離れた立場の二人ではあるが、その付き合いは実に四十年を軽く超える。


作左衛門の打った白石に眉根を寄せながら、周助は腕を組む。

「大体、こいつは沖田家の惣領だ。おいそれと呉れてやる訳にいくか」

「崎坂家に入っても、いずれは惣領になるぞ」

「お前には、立派な倅がいるじゃねぇか」

「倅は居ても、孫が居ない」

「それは倅の嫁に頼め」

「うう・・・」

崎坂家の若夫婦は、睦まじ過ぎて子が出来ぬと、噂が立つ程仲の良い夫婦である。

嫁して五年。なさぬ仲の姑とも舅の作左衛門とも、実に上手くいっている。

『嫁して三年子なきは去る』などと言うが、何の不足も無い、器量気立ての良い嫁に、離縁も、ましてや妾も勧められぬ作左衛門であった。

作左衛門のそんな贅沢と言える悩みを知っているからこそ、周助は素っ気無い。


「子などは授かりものだ。お前が煩く言わんでも、授かる時は授かる」

「それはそうなのだが・・・」

「いざと言う時は養子を取れ。同輩に次三男など有り余っているだろう」

「子柄(こがら)が悪いから嫌だ」

身も蓋も無い事を平気で言う。

「そんな子柄の悪い集団に、宗次郎を放り込もうとは、非道な奴め」

「何をっ」

良い年をした二人の、大層大人げない争いは熱を帯びて来る。

常ならば、周助の後ろに行儀良く控えている宗次郎の目があるので、それなりに毅然とした振る舞いをする二人だが、今日はとことん大人げ無い。


段々と大きくなる声は、周助の膝を枕に眠る宗次郎が身動いだ事でピタリと止んだ。

くうくうと、あどけない寝息を立てる大事の内弟子は、まろやかな頬を真っ赤に染め、放たれる熱は周助の頬に届く程に強い。

瞼が微かに動いたが、濡れたような長い睫毛が持ち上がる事は無かった。

「・・・危うく起こす処だった」

作左衛門は、ポンと自分の口を押さえた。

「起きるものか」

周助は、苦々しく口を結ぶ。

行儀の良さで定評のある宗次郎の今の有様は、崎坂家の失態の末である。


宗次郎は、初めて周助に連れられて崎坂家へ訪れた時に、家人にいたく気に入られた。

以来、崎坂家への訪問は、それまで供をしていた「倅、勝太」に代わり、宗次郎を連れて来るようになった周助であるが、正月の挨拶に着いた早々、作左衛門の妻や嫁に囲まれ、振る舞い酒ならぬ振る舞い菓子を受けた宗次郎は、勧められるままに飲んだ甘酒に酔ってひっくり返った。

「甘酒に本当の酒まで加えて作るとは、全く呆れた家だ」

「酒を加えるとコクが出るのだ。我が家は子供が居らぬし、酒に強いものばかりだからな」

「十になったばかりの子に、飲ませる前に気付かぬとは、話にならん」

「反省しておる」

賑やかな舌戦の間にも、白黒の石は打たれてゆく。



「寒くはなかろうか?」

作左衛門は、気遣わしげに周助の膝元を覗き込んだ。

炭を贅沢に使った隠居部屋は暖かいが、眠るとなれば話は別である。

「熱い位だろうさ」

周助の嫌味をものともせず、作左衛門は、機嫌良く目を細めた。

小さな躰に掛けられている、大きな羽二重の羽織には、丸に木瓜の紋が入っている。

「丸に木瓜だ」

「・・・・・・」

「・・・丸に三つ引き紋の近藤家(おまえ)とは違い、当家の紋は丸に木瓜だ」

「それがどうした」

「宗次郎とお揃いだ」

「何がお揃いだ。丸に木瓜紋の家など何軒もある」

「いいや、これは縁だ」

周助は、不機嫌になる。


機嫌の良くなった作左衛門は、宗次郎の着物を見つめた。

おろしたばかりの着物は、ほんの少し袖が長いが、良く似合っている。

「それは、お前の処のお仕着せか?」

「これは、二番目の姉さんが届けてくれたものだ」

「そうだろうな、お前が選んだにしては上品過ぎる」

「一々余計な事を言うな」

「宗次郎の姉なれば、器量も良かろうな」

「二人が二人共美しいぞ。まあ、お前が会う事は金輪際あるまいがな」

「何をっ」

最早、碁の勝負か、口喧嘩の勝負か分からない。


「・・・そう云えば、お前が教えてくれるメリケンの話は、すこぶる評判が悪いぞ」

「何?」

「宗次郎など、夢にまでうなされている始末だ」

作左衛門は首を傾げた。

「あれは、雉肉、鶏肉を喰わせる算段の話だったろう。周助、お主ちゃんと話したのか?」

「話した」

「おかしいな。通事の筋から聞いたから、間違えようもないのだが・・・」

「次は、もう少し可愛げのある話を仕入れろ」

「うむ」

懲りない二人である。



床の間に置く時計が五ツ(午後八時)の鐘を鳴らした。

「そろそろ帰らんといかんな・・・」

「駕籠を呼ぼう」

「駕籠など要らん。歩いてゆく」

「何を言う。宗次郎が眠っているではないか」

「酔いなど、風に当たれば醒める」

「何と酷い奴だ」

「酷いのはこの家だ」

周助は、宗次郎を抱き起こしたが、真っ赤な頬の宗次郎は、くったりとしている。

「ほら見ろ、可哀想になぁ・・・」

作左衛門の思いっきり無責任な言葉に、周助は貌を顰めた。

「お前は歩いても良いが、宗次郎には駕籠を呼ぶぞ。一挺呼ぶのも二挺呼ぶのも手間は同じだ。ついでだから乗ってゆけ」

「・・・作左。駕籠は一挺でいいぞ」

「何?」

「宗次郎は、俺の膝に乗せてゆくからな」

「ああっ」

旧友を悔しがらせた処で、丁度、碁の勝負もついた。

いつのまにか逆転した形勢に、作左衛門は歯噛みした。

「今年の一番対戦は、俺の勝ちだな」

「・・・去年は俺が勝っていた。今年の一勝くらいは譲ってやる」

「何の、通算すれば俺の勝ちだ」

徹底的に大人げの無い二人の口争いは、迎えの駕籠が来て、せめて玄関までは、と頑張った作左衛門が、眠る宗次郎をその背に負うてもまだまだ続く。


駕籠の中、周助の膝に抱かれて眠る宗次郎を、作左衛門は名残惜しげに覗き込んだ。

「今日は、宗次郎と話が出来なかった。寂しいのう」

「・・・誰のせいだと思っている」

「おお、そうだ。今度雪が降ったら遊びに来い。我が家の庭は広いゆえ遊びでがあるぞ」

「道場(うち)には、雪だるまの上手がゴロゴロいるんだ。遊びになど来るものか」

「・・・・・・っ」

旧友を絶句させ、口喧嘩でも勝ちを収めた剣術の皆伝者は、ニヤリと笑った。





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