『酔漢』――よっぱらい――
夜番の隊が戻った時、少しばかり賑やかになった壬生の屯所も、捕り物も無かったのか、人声は間も無く静まった。冬の京は寒い。
骨に沁みる底冷えの夜は、酒でも呷(あお)り、さっさと布団を被るに限る。
小さな物音も絶えた頃、自室の総司は、ゆっくりと机上の書を閉じた。疾うに済ませた火鉢の始末を今一度確かめ、文机近くの蝋燭から、枕元の行灯に細い灯を取る。
僅かに明るさを増した天井に、華奢な陰がゆるりと伸びた。
蝋燭の灯を消そうとした処で、ふと、外の気配に手を止めた。静かな廊下を渡る足音は、常とは異なり、少しばかり乱れている。
総司は、そっと口元を笑ませた。
足音の主は、午少し過ぎに、永倉を伴い黒谷の会合へ出向いた土方である。
遅い帰営の理由(わけ)は、会合の流れに連なる酒席の為だろう。
蝋燭はそのままに、障子の前に立った時、それは外から開かれた。「まだ、起きていたのか?」
障子を開けた土方は、端正な貌を淡く染めていた。
足元から這い上がる冷気と共に、弱くは無い酒気が、総司の身に纏い付く。
「お帰りなさい。・・・もう寝(やす)む処でしたよ」
どれ程遅くなっても、他出から戻った時は、必ず部屋を覗いてくれる。
江戸の頃と変わらぬ習いの土方に、総司は明るい笑顔をみせた。
土方は、夜着に、薄物を羽織っただけの姿に眉を顰めた。「またそんな薄着でいるのか」
「大丈夫ですよ。私は、暖かい部屋に居ましたから」
「お前の「大丈夫」は、信用ならん」
土方の目が、火鉢を見つめているのに気付き、総司は、慌てて言葉を付け足した。
「もう寝むのですから、これで十分です」
「それは、暖かいとは言わねぇだろう」
小言の口を開きかけた土方だが、雨戸から入り込む隙間風に、蝋燭の灯が大きく揺らぐのを見、部屋に入ると、後ろ手に障子を閉めた。
黒羽二重の羽織を脱ぐと、華奢な身を包み込む。
「困った奴だ」
土方の温もりに包まれた総司は、戸惑うような貌をした。
「本当に、平気ですよ」
「お前の「平気」は、最も信用ならん」
土方は、机の上に視線を落とした。「書見か。何を読んでいた?」
「監察の報告書です」
「仕事か・・・」
土方は、揶揄(からか)うように低く笑った。
「色気のない事だな。坊や」
「報告書に、色気などあっては困ります。土方さんの袂に入れられるような、恋文とは違いますよ」
総司は、くすりと笑った。
悪戯気な薄闇色の瞳が、蝋燭の灯を映し取り、蠱惑的な揺らめきを見せる。
目を細め、黙り込んだ土方に、総司は首を傾げた。「御酒が過ぎましたか?白湯か水をお持ちしましょうか?」
「いや、要らん。お前の貌を覗きに来ただけだ」
土方は、己の貌を撫でながら、夜具の脇に胡坐をかいた。
「・・・が、少し酔った」
つられるように坐した総司は、微笑した。
「そのようですね。お貌も少し赤いですよ」
冬の道を帰っても残る酒気を思えば、酒に強くはない土方でも、相当量呑んだと見える。
「会津のお歴々は、酒が強い。・・・連れが永倉で助かった」「・・・永倉さんは?」
「呑み足りねぇと、途中で別れた」
言われてみれば、二人で戻ったにしては気配が薄かった。
総司は、険しい貌になった。
黒谷での会合の護衛は、永倉一人だけのはずである。
「土方さんも、永倉さんも・・・、一人歩きは危ないですよ」
「この寒さに、待ち伏せする酔狂な輩(やから)もいまい。半刻も待てば、手が悴(かじか)んで刀など握れねぇさ」
さらりと応えた土方を、総司は軽く睨んだ。
「何かあっては、皆が困ります」
「それを、お前が言うな。一人歩きは止めろと、何度叱ったと思っている?」
「私が歩くのは、陽のある内だけです」
「口の減らねぇ奴だ」
土方は、苦笑した。
「手を出せ」土方は、懐から取り出した包みを、総司の掌に載せた。
「何ですか?」
「土産の、土産だ」
「・・・・・・?」
首を傾げながら包みを開くと、中から、緋色の椿が繊細に描かれた、目にも鮮やかな絵蝋燭が出てきた。
蝋燭、殊に絵蝋燭は、新撰組を預かる、会津藩の特産品である。
「これは・・・、会津の絵蝋燭ですか?」「国許から出てきた藩士の、土産だそうだ」
総司は、掌の蝋燭に瞳を細めた。
「・・・綺麗ですね」
「灯してみるか?」
土方は、指先で、白い面輪をそっとなぞった。
「お前の肌えに、よく映えるだろう」
「肌・・・?」
総司は、目を上げた。
頬をなぞる指がすべり、耳朶を軽く摘む。「閨の中で、な」
「・・・ね・・や」
「絵蝋燭の灯火に照らされた、お前の肌に、酔いたいものだ」
一糸纏わぬ姿を揶揄され、総司の頬に朱が上った。
睦み事に灯りを入れるなど、論外である。
総司は、耳朶から頤を辿っていた、無骨な指を慌てて捕らえた。
「折角の絵蝋燭を、そんな事に使っては、罰が当たります」
「そんな事?」
「そんな事です」
「つれない奴」
土方は、艶然と笑った。
総司は、警戒した。酔った目の奥に、深い情が見え隠れする。
情熱的な眼差しは、油断がならぬ。
「・・・嫌ですよ。酔った人の相手など」
「馬鹿を言うな」
土方は、捕らえられていた手を反転させ、細い手を握り返した。
そのまま、白い手の甲にくちづける。
「・・・大事なお前を、酔った勢いなどで抱くものか」
蕩けるような、端麗な笑みを見せられた総司は、沸騰したように全身を朱に染めた。耳奥に、痛い程に鼓動が響く。
掌伝いに、跳ねるような鼓動を気取られるのを恐れ、掴まれた手を引こうとしたが、たいした力も込められてはいないのに、ビクともしない。
今の土方は、口調も態度も、贔屓目に見ても素面ではない。
総司は、ひたすらに、普段の土方の鋭利さが戻らぬ事を願った。
自然、探るような瞳になるが、土方は、機嫌良く総司の手を構っている。
必死で気持ちを立て直した総司は、上擦った声を出した。
「・・土方さんは・・・」
「俺が、何だ」
「・・馬鹿ばかり言う・・・」
「俺は、嘘は言わん」
天井まで伸びていた二つの影が、揺らめきながら一つに重なる。
触れるばかりのくちづけで離れた事に、強張った華奢な身から、ほっと、力が抜けた。土方は、口元に微笑を湛えた。
「今宵は、これで勘弁してやる」
総司の耳を、甘い低音が擽る。
「酔って味わうには、惜しすぎるからな」
真っ赤になった貌が自覚出来る総司は、俯いたまま動けない。
「総司」
笑い含みの土方の声が響く。
「お前の貌を見に寄ったのに、見せてはくれねぇのか?」
笑いながら頤を掬い上げ、総司の額、頬、そして唇にくちづけた。
唇の形を丹念になぞり、震えるように開いた口中を、濡れた舌で蹂躙する。
触れ合う処から、温度差のあった互いの体温が近付いてゆき、同じ温度となり、更に燃え上がってゆく。
土方の腕を、縋るように掴んでいた細い手が、徐々に力を失ってゆく。
甘やかな時は、ガタリと、雨戸が大きな音を立て障子を震わせ、蝋燭を消した事で唐突に終わった。からくも踏み止まった行灯の灯が、心許無く室内を照らす。
息の上がった華奢な身を抱いたまま、土方は、羽織と薄物を肩から落とした。
総司がそれに気を取られている隙に、枕を掴むと、無造作に、ポンと部屋の隅へと放り投げた。
転がる枕に、総司は唖然とした。
乱暴を咎める暇(いとま)も無く、天と地が逆さまになり、気付いた時は、土方の腕を枕に横になっていた。
「枕なぞ、要らねぇだろ?」「土方さんっ」
「もう寝(やす)め。眠るまで、ついていてやる」
身を起こそうとした総司を、深く抱き締める。
「土方さん、着物に皺が・・・」
「構わん」
「でも・・・」
「脱いでもいいなら、嬉しいがな」
総司は、絶句した。
土方は、指先に絡めた黒絹の、そのひと房にくちづける。
「お前が眠ったら、部屋に戻るさ」
「土方さん・・・」
「眠らねぇなら、酔わせて貰うぞ」
途端、ピタリと収まる抵抗に、土方は惜しいような笑い声を立てた。
間を置かず、胸に深く抱(いだ)かれたままの総司の耳に、規則正しい寝息が聞え始めた。総司は、困惑した。
このままでは、五つ紋の黒羽二重に、皺がよってしまう。
「土方さん・・・」
そっと呼びかけても、応えはない。
包み込んでいる腕も躰も、やはり常より熱い。
揺さぶる位では起きそうも無い様子に、総司の困惑はいよいよ深まる。
「・・・酔っ払い」
けれども、どこまでが酔った上での所業であったか――。甘く、情熱的なくちづけを与えておきながら、あっさり身を引いたり、今も、決してきつくは縛(いまし)めぬ心優しい酔っ払いに、胸の奥が温まる。
総司は、おずおずと土方の胸に頬を寄せた。
力強い鼓動も、いつもより、ほんの少しだけ早く打っている。
「土方さん・・・」
応えの戻らぬ呼び掛けを、幾度(いくたび)か、総司はそっと試みた。
土方は、目を覚まさない。
総司は、思い切ったように首を伸ばして唇を重ねると、はにかむように笑んだ。常ならば、恥じらいばかりが先に立ち、中々出来る行為ではない。
甘やかに紡がれた土方の言葉か、くちづけか、総司もまた、すっかり酔わされてしまった。
広い胸の襟元に、そっと手を添える。
その僅かな身動ぎに、土方は、夢寐の狭間から「・・・どうした?」と問いながら、一層深く抱き込んでくれた。
背を撫でる掌は、どこまでも優しい。
総司は、逞しい胸に頬を寄せ、唇だけを動かして、そっと、小さく呟いた。
この酷い心配性が、目を覚まさぬよう、そっと――。
細い灯の中、土方は、腕の想い人を見つめている。総司は、ぐっすりと眠っている。
酒気に酔ったか、呆気なく眠りに落ちた想い人に、土方は口元を綻ばせた。
眠り込みそうだった土方を覚醒させたのは、清楚な想い人のくちづけだった。
何度か名を呼ばれた後に、秘密のような小さな呟き――。
それは、土方の心を震わせた。
「・・・いつもこうだと、嬉しいのだがな」
そっと抱え直し、額に唇を押し当てる。
京の冬は寒い。骨も凍える底冷えの夜も、愛しい者と温もりを分かち合えるなら、一刻千金の値もあろう。
自分が寒がりなのは、もしかしたら、無くてはならぬこの温もりが故かも知れぬ。
子供じみた思いつきに、まんざらでもない笑みを浮かべ、目覚めた時の想い人の反応をあれこれと想像しつつ、悦に入る。
ジッと小さな音を立て、行灯の灯が消え、部屋は闇に沈んだ。
「・・・さて」
闇を静かに揺らせる、土方の小さな笑い声。
「どこら辺までを、酒のせいに出来るものかな」
了
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