仲秋の冴えた夜の中天に、清かな玉兎が凛と輝きを放つ。雲ひとつ無い今宵の空は、『中秋の名月』と賞すにふさわしい美しさであった。
「宗次郎」台所で、燗酒の張り番をしていた少年は、兄弟子の声に振り返った。
座敷から戻った井上源三郎は、空の銚子で一杯になった盆を抱えていた。
受け取ろうと、立ち上がる宗次郎を目顔で制し、
「ここはもういいから、行っておいで」
と、人の良い笑顔を見せる。
「でも・・・、皆酔ってしまっているし、源さん一人では大変です」
「なあに、腹はたっぷり膨らんで、後は呑むばかりだ。一人でも平気だよ」
賑やかな座敷から、「源さん、宗次郎。そろそろ宴に加われ」、「ついでに酒も頼む」と、威勢の良い声が届き、二人は、貌を見合わせて吹き出した。
月見の宴に、「花より団子」ならぬ「月より団子」、更に言えば、「団子より酒」の試衛館の連中は、「肴」の月そっちのけで、日暮れ前から賑やかな酒宴を張っていた。酒にそう強くは無い近藤も、賑やかさを肴に、宴の輪に加わっている。
「歳さんと、八幡様へ行くのだろう? 座敷の方には言っておくから、楽しんでおいで」
「ありがとうございます」
はにかむような笑みを浮かべ、宗次郎は頭を下げた。
「歳さんに、片月見にならないようにと、ちゃんと言うんだよ?」
悪戯気な笑みを浮かべた井上に、宗次郎は小さく頷いた。
十七にしては細身にすぎる躰が、戸口の向こうへ消えるのを、にこやかに見送る。夕刻に、日野よりふいと戻った土方は、酒宴の始まったばかりの座敷を避け、井上と宗次郎が忙しく働く台所へ貌を出し、宗次郎を月見に誘った。
ふらりと出掛けては、ふらりと戻る。
相変わらずの暮らしを続ける土方であったが、ここ最近は、関心の比重が剣術に傾いたのか、頻繁に試衛館に戻るようになった。
剣さばきは我流を極める土方だが、居るのと居ないのでは、道場の覇気がまるで違う。
座敷から再び掛かった呼び声に大声で応えながら、井上は、ありったけの酒徳利をぶら下げて立ち上がった。
「土方さん」門柱に凭れていた土方は、駈け寄る宗次郎に気付くと、端整な貌に微笑を浮かべた。
「・・・早かったな」
「源さんが、逃がしてくれました」
「逃がしてくれた?」
少し乱れた前髪を直してやりながら、土方は笑った。
「呑兵衛どもの宴から誘い出したなら、確かに逃がした事になるか」
「それと」
「うん?」
「源さんが、片月見にならないようにと言っていました」
宗次郎は、無邪気な笑みを浮かべた。
月の明るい夜は、提灯を持たずに気軽に外歩きが出来る。月見の衆が、楽しげにそぞろ歩く往来を、二人もまた、流れに任せてゆっくりと進んだ。
「・・・片月見にならねえように、か」
小さな呟きに、宗次郎は土方を見上げた。
この時代、八月十五夜と九月十三夜、両方の月見をするのが風習であった。
十五夜に宴を催した者、舟遊びをした者は、十三夜にも、そっくり同じ事をしないと「片月見」、「片見月」の縁起の悪い、忌みものになるとされていた。
それは、江戸にしか無い風習(もの)だと、他国育ちの山南、原田に聞いたが、要は、両方の月見をせよとの事だから、昨秋は、それにかこつけて、二つの月見を、永倉と内藤新宿へ繰り出し白粉にまみれて過ごした。
宗次郎と、想いを通わせたのは、この夏の初め。『後悔先に立たず』とは、よくも言ったもので、全く今更ではあるのだが、己が過去(むかし)を呪わしく思う身としては、数々の所業が腹立たしくも居た堪れなくなる。
土方は、溜息を飲み込みながら、増えた人波を避ける為に、宗次郎の手を握った。
それだけで、淡く頬を染め俯く宗次郎に、愛おしさがこみ上げる。
過去(むかし)を変える事は出来ないが、将来(さき)は、それなりに律する事が出来る。
「・・・日野の、川沿いの芒(すすき)が、綺麗だった」「はい」
「花穂がまだ若いから、陽を受けて銀色に輝いていた。十三夜の頃には、金色に輝くだろう」
「そうですね」
「今年の月見は八幡様だが、来年は、銀色と金色の芒を、一緒に見よう」
宗次郎は、土方を見上げた。
見上げた視界が、ふいに翳り、驚く間もなく、口唇に柔らかな熱が触れて離れた。
「・・・陽に染まる色と、月に染まる色を、一緒に見よう」
衆人の、誰一人として気付かぬ隙を狙い、くちづけを受けたのだと、気付いた時には、盗人(ぬすびと)は何事も無かったように微笑んでいた。
「・・・来年が・・、楽しみです」
「そうだな」
白磁の頬と、貝殻のような形の良い耳が、桜色に変化する様を堪能しながら、漸(ようよ)う応える宗次郎に、九月十三夜にも、同じ悪戯を仕掛けてやろうと、知れては嫌われる悪だくみを考える。
月に照らされた二つの影が、そっと寄り添った。
了
2007. 10.21
八月十五夜、月清光、一点の雲なし。諸人、月宴を催し、河辺、殊に賑へり。出典:ちくま学芸文庫『定本 武江年表』(万延元年の項)
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