酒が過ぎた。重い頭を抱えた永倉は、昨夜の所業を悔いつつ、庭へ下りた。
明け六つの鐘より少し前の、朝稽古には、ずっと早い時刻だった。どれ程酔っても、躰に染み付いた習慣で、決まった時刻に目が覚める。
しかし、酒席を囲んだ者達は、誰一人として起き出してはいないようだ。
原田の、大きな鼾が庭まで聞こえてくる。
(安酒は、頭に響きやがる)
貧乏所帯の試衛館で、酒が呑めるだけでも御の字だが、この二日酔いには閉口した。
一歩進む度に、ズキズキ痛む頭を押え、永倉は低く呻いた。
視線の端に、ピタリと閉ざされた障子を捉えた。常ならば、疾うに起き出している、若い師範代の部屋である。
(あいつが起きねぇとは、珍しい事もあるものだ)
そう思いつつも、昨夜、酒席には加わらず、早々に部屋に戻った姿を思い出した。
余り有る天稟を授かった少年は、皮肉な事に、それを活用する、強い躰を授かる事は適わなかった。
「・・宗次郎の奴、加減が悪かったのかな?」大きな独り言は、己の頭を容赦なく打ちのめした。
「酒は、暫く呑まねぇ・・」
唸りながら井戸端を見れば、白み始めた薄闇に、土方が立っていた。
鍛え上げた躰を諸肌脱ぎにし、水浴びに近い状態で、ザブザブと水を使っている。
この男も、昨夜は、何処かへ出掛けて行った。
早起きしたと言うよりは、色街からの朝帰りであろう。
永倉は、思わず吹き出してしまった。広い背には、赫い引き傷が、幾筋も走っていた。
それも、かなり深い。
井戸端の土方は、驚いたように声の主を振り返った。
「永倉か・・、早いな」
永倉は、笑いながらも、片手で頭を押さえている。
「土方さん・・、昨夜は、何処で悪さをした?」
「何・・?」
怪訝な貌をする土方の、諸肌の背を、軽く叩いた。
「凄いぜ、背中の爪痕。・・生娘でも抱いたのかい?」
揶揄(からか)う永倉に、土方は、無言で己が背に手をやった。
指先に、いくつもの傷を認め、やや狼狽(うろたえ)た。
永倉は、にやりと笑い、土方に手拭いを渡した。「何だい、気付きもしなかったのかえ?・・余程、佳(よ)い目を見たんだな」
「生娘なぞ、抱かねぇよ」
「じゃあ何かい?色街(さと)には、爪を立てる程、深い馴染がいるのかい?」
「そんな馴染も、いねぇよ」
その肩口には、夜着の上から噛まれたのか、薄い噛み痕まで残っていた。
とうとう永倉は頤を放ち、しかし、すぐに頭を抱え、しゃがみ込んだ。
「畜生っ、どうにも、安酒はいけねぇ」
土方の視線が、一瞬、宗次郎の部屋に流れた事に、永倉は気付かなかった。「たまには、土方さんの武勇伝でも拝聴したいものだ」
「話はしねぇが、酒なら付き合うぞ」
頭を抱える永倉の耳に、甘みのある土方の応えが届いた。
驚いて見上げれば、何とも照れくさそうな土方が居る。
見ている永倉の方が、思わず赤くなった。
「・・今夜は、傷を肴に呑めそうだな」
暫く呑まぬと言った事など、もう忘れている。
「何の肴にもならねぇよ」
永倉の為に、水を汲み上げる土方は、いつもの仏頂面に戻っている。
「それはそうと・・、宗次郎の奴、まだ起きないね。珍しい」土方は、豪快に貌を洗う永倉を見た。
「・・あいつは、少し加減が悪いようだ。今日は休めと言った」
気まずい声音に気付かぬまま、永倉は、心配そうに宗次郎の部屋へ目をやった。
「昨夜も早く寝たな。・・風邪でも引いたかな?」
「さあな」
「宗次郎も、もう少し躰がしっかりするといいんだが」
永倉は、小さく溜息を吐く。
「蒲柳の質、と言うのだろうが、あの天稟に、躰が追いつけば良いがな」
「そうだな・・」
呟くような土方に、永倉は笑顔を見せた。
「まだ十七だ。躰が出来るのもこれからだ」
初夏の朝陽が、庭を照らし始めた。永倉は、ややすっきりした貌で、大きく伸びをした。
「土方さん、朝稽古に付き合ってくれ」
「わかった」
永倉の後に続きながら、土方は、布越しに背中の傷にそっと触れた。微かな疼きが、指先に愛おしさを伝える。
土方は、口元を綻ばせた。
宗次郎には気の毒だが、これから屡(しばしば)、寝込む原因(もと)を作りそうである。
了
2005.4.19
戻る