土方は、ふと筆を止めた。
八木家の下の子だろう、むずかる声が先程から聞こえる。
(あの泣き方は、熱だな)
泣き声の様子から、母親に抱かれ、あやされているのがわかる。
(・・今夜辺り、熱が上がるな)
そこまで思い、一人、苦笑した。
こうした『知識』は、必然的に得たものだった。心裡に浮かぶのは、幼い宗次郎の面影。
家族と遠く離され、他人と暮らすようになった少年は、どれ程躰が辛くとも、
『苦しい』と漏らす事は無かった。抱き上げた土方の襟元や袖元を、小さな手で固く握り締め、大きな瞳いっぱいに涙を溜め、
そうして必死に堪える姿には、幾度も心が締め付けられた。年齢(とし)相応の感情を引き出そうと、近藤、井上と共に苦心したのは、つい昨日の事のようである。
現在の総司の姿を思い起こし、土方は嘆息した。
(あまり、成功したとは言えねぇな)
無二の想い人は、幼子(おさなご)の魂のまま、大人になってしまった。
泣き声が止み、再び筆を取り直した時、廊下の気配に気が付いた。想い人のそれは、悪戯っ子の如く、そろそろと近づいてくる。
風を通す為、開け放った障子から、遠慮がちに総司が貌を覗かせた。
「土方さん・・、お忙しいですか?」
心裡の幼い面影に、大人になっても変わらぬ、澄んだ瞳が重なる。
「そうでもない。何か用か?」
「用と言う程でも無いのですが・・」
「用があるから、来たのだろう?」
土方が、苦笑混じりに筆を置いた事で、漸く総司は部屋に入った。
「少し休みませんか?お茶をお持ちしました」盆には、湯気を立てた茶と、菓子鉢。
「・・その、菓子の山は何だ?」
貌を顰めた土方に、総司は、にこりと笑う。
「端午の節句ですから、柏餅と粽(ちまき)を買ってきたのです」
茶を並べる所作に見惚れながらも、声音を低める。
「一人で出掛けたのか?」
「一さんと出掛けて来ました。古道具を見に行くと言うので、一緒に」
「・・夜から巡察だろう?」
「一さんは、非番ですよ」
土方は、厳しい貌になった。「お前の事を言っている。今日は非番では無いだろう」
総司は、渋面の土方を見上げ、首を傾げた。
「巡察には、ちゃんと出ますよ?」
「・・昼間、遊びに行けと開けてある訳じゃねぇんだぞ?」
「こんな良い天気の日に、寝てなどいられませんよ」
総司は、笑った。
この笑顔に、いつもはぐらかされてしまうが、三度の食事も、
これ位楽しげに喰えばいいものを、と土方は思う。
総司は、にこにこと、土方に柏餅を渡す。「花月屋さんに聞いたのですが、京の柏餅は小豆餡だけで、味噌餡は無いそうですよ」
「・・江戸に、戻りたいか?」
流石に突飛だったか、総司は、目を丸くした。
「・・・柏餅恋しさに、ですか?」
「馬鹿、菓子の話じゃねぇよ」
望郷の想いが、江戸と京との違いに出たと思ったのは、深読みしすぎか。
薄闇色の瞳が、悪戯気な色を浮かべた。
「土方さんこそ、江戸の味が恋しいのなら、花月屋さんに頼んでみますよ?」「馬鹿を言うな」
土方は、仏頂面で茶を啜った。
「・・私の居たい場所は、土地ではなくて、人ですから」
心の臓を鷲掴みにされたような言葉に、土方は、無言で目を上げた。
想い人が、ふわりと微笑んだ。
「この先もずっと、こう言う風に過ごせればいいですね」
総司の明るい声が、新緑に染み透る。
清らかな魂を持つ想い人は、土方が思うよりもずっと、心の支えになっているのやも知れぬ。
「総司、口元に・・」「え?」
総司が貌を上げたと同時に、土方の舌がその唇を舐めた。
絶句したままの想い人の耳元に、揶揄(からか)い声で囁く。
「・・夕餉は、残すなよ?」
そのまま額に唇を当てたが、沸騰したように赤くなった想い人の、熱は測れなかった。
了
副長誕生日記念
2005.5.5
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