廊下を、静かに渡る足音に、宗次郎は、夢から現(うつつ)へ引き戻された。小さな身をそっと起せば、時を移さず、蚊帳の向こうに影が映る。
影は、猫のように、部屋に入った。
「・・・歳三さん?」
「まだ起きていたか」
土方の、笑う気配がした。
闇の中、宗次郎は首を傾げた。夕餉と風呂を、共に済ませた土方が、試衛館を抜け出したのは、宗次郎が床に入ってすぐだった。
恐らく、然程の時は経ってはいない。
「四つ(午後十時)の鐘、鳴った?」
「いや、まだ五つ半(午後九時)頃だろう」
宗次郎は、再び首を傾げた。
「まだ、夜だよ?」
「うん・・・?」
蚊帳の向こうで、土方も首を傾げた。
「色街(さと)で、振られたの?」
「何?」
とんでもない問いに、土方は言葉を失った。
「大先生が言っていたよ?半端な時刻に戻るのは、役に立たなかったからだって」
「大先生っ」
土方は、天を仰いだ。
齢九つにして、このチビ助の耳年増ぶりは、多分に、試衛館の主(あるじ)、近藤周助に責がある。
意味もわからず口にするのが、尚の事、始末に悪い。
「生憎とな」土方は、笑った。
「今夜は、別の誘いを受けた」
「別?」
「いいから、蚊帳を捲れ」
小さな手が、蚊帳を持ち上げた。
その隙間に、土方は両の手を差し入れた。
両の掌は、何かを包むように、丸く合わされている。
大きな手の、長い指の隙間から、淡い光が零れた。
ゆっくりと明滅する光に、宗次郎は目を瞬かせた。
「蛍・・・?」
「そうだ。途中の川筋で見つけた」
土方は、蚊帳の中に蛍を放った。
小さな光が五つ、パッと飛び上がった。
蛍は、蚊帳の中を思い思いに飛び回る。蚊帳をくぐった土方は、枕辺に置いた団扇で、蛍に軽く風を送った。
蚊帳の中、仄かな光がゆるりと舞う。
夢のような光景に、宗次郎は笑みを浮かべた。
「・・・きれいだね」
「だろ?」
一つの光が、ゆっくりと宗次郎の元へ下りて来た。
小さな手を広げれば、その指先に蛍が止まった。
指先に点った光を、宗次郎はじっと見つめた。
「歳三さん・・・」
「何だ?」
「熱くないのが、不思議だね」
子供らしい考えに、土方は微笑した。
「今夜は、大きな虫籠に泊りだ」土方は、床の脇に横臥した。
寝かし付けられた宗次郎は、隣の土方をじっと見つめた。
「歳三さん」
「何だ?」
「色街(さと)には、行かないの?」
長い指が、額を弾いた。
「大先生に、余計な話を聞くなっ」
ふわり、ふわりと、淡い光が蚊帳を舞う。それらを見つめる宗次郎の瞼は、明滅ごとに重くなる。
土方は、団扇で小さな身に風を送っていた。
「・・・蛍、逃がさなくて平気?」
呂律の回らぬ問いに、土方は笑った。
「朝、庭へ放してやればいい」
小さく頷いた宗次郎の、柔らかな髪をそっと撫でた。
「今度は、蛍を見に連れ出してやる」
心地良い低音の誘いに、宗次郎は、夢の中で頷いた。
了
九萬打御礼、『余話・六』
2005.8.25
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