前回、気長に付き合ってくれろ、なんて言っちまって、だからってわけはねえのじゃが、
不覚にも9ヶ月も連載を止めるたあ思わなかったよ。ホンにすまねえ。勘弁してくれろ。
今回は心機一転、南へ向かうとしようぞ。
奈良盆地の南東にそびえる(そびえるってほどじゃねえが)三輪山の方へ自転車をこいでくと、
やがて盆地の南東端に行き当たるんじゃが、その盆地と台地の端境に阿部と言う所があるんじゃ。
ここに日本三文殊の一つに数えられる「安倍文殊院」があるんじゃ。
地元では「安倍の文殊さん」の名で通っとるが、何寺の文殊院なのかはほとんど誰も知りはせん。
では、拙者が教えて進ぜよう。この寺の正確な寺号は「祟敬寺(そうぎょうじ)文殊院」なのじゃ。
もともとこの辺りは古代の有力な氏族じゃった安倍氏の本拠地らしくて、祟敬寺の前身もまさにその安倍氏の一人で
645年に左大臣になった安倍倉橋麻呂(くらはしまろ)の創建になる安倍寺だったのじゃ。
この寺は塔と金堂が東西に並ぶ法隆寺式の伽藍配置じゃったらしい。
平安時代には十五大寺の一つに数えられとったっちゅうから、今では想像もできんほどの大きい寺じゃったんじゃな。
文殊院は平安時代に創建された別所じゃったが、戦国時代の兵火で安倍寺は消失、
以後再建されることもなく、別院じゃった文殊院に寺号が移ったというわけじゃ。
この寺の付近にはその安倍寺の跡じゃとか、履中天皇の磐余稚桜(いわれわかざくら)宮跡と伝わる神社があったり、
その他諸々の遺跡や古墳の宝庫になっとる。この地の古さが分かるというもんじゃ。
ちなみに履中天皇は第17代天皇じゃ。
応神、仁徳の次といって分からずば、推古天皇の16代前と言えば分かるじゃろか・・・。
恐ろしく古い話じゃろ。ほとんど浮世離れしとって目まいがするわい。
それと、安倍文殊院は華厳宗に属しとる。
日本三文殊の残りは天橋立の切戸の文殊、山形県亀岡の文殊じゃ。
まあ、何にしろ、由緒のある寺には変わりはなかろうて。
さあ、日も暮れてきよったに、家路につくとしよう。
写真は近鉄線を越えて大福の辺りから見た大和三山じゃが、右が耳成山で、左が畝傍山じゃ。
畝傍山は標高199.2メートル、耳成山に至っちゃ139.7メートルしかない。
ちなみに天香久山も152.4メートルしかないんじゃから、山と言うよりは丘と言った方がええかもしれん。
その後ろの高い山は、葛城山と金剛山じゃ。
どっちも軍艦の名前になっとるんじゃから(空母葛城と戦艦金剛)、ただの山ではなかろうて。
こういうこと言い出したらキリがないんで、もう今日はここでお開きじゃ。
久しぶりの行脚でちと疲れたわい。
今年から一ヶ月に一回の連載になって、ホンに助かるわ。
何? 連載が減って残念じゃと?
あんまり老人をこき使わんどいてくれ。
ま、その言葉だけはありがたく戴いとこうかの。
じゃが、いつまた倒れるか分からんて。
今年も気長に付き合ってくれろ。
第9番行脚終了 桜井市阿部および大福より
平成15年1月4日
1週間遅れてもうて、すまんかったな。
今回はちと遠いので車で行ってきた所を紹介するから、どうか許してけろ。
東大寺転害門前の道を北上し、般若寺へと向かう奈良街道から分かれて柳生へと向かう国道369号線を東へ行くと、
すぐに道は山中に入っての、ぐねぐねした曲がり道を20分ほど行くと、やがて道の左手に忍辱山円成寺が姿を現すのじゃ。
この寺の創立については「756年(天平勝宝8)年、聖武・孝謙天皇の勅願による唐僧虚滝(ころう)和尚の開山」という説もあり、
また江戸時代には寺中23寺、寺領235石を有する大寺として繁栄したという、何とも由緒ある寺なのじゃ。
境内に入るとすぐに国名勝の庭園があり、国重文の楼門をくぐった右手の多宝塔内には国宝の大日如来坐像があるんじゃ。
写真は本堂右手に鎮座する白山堂と春日堂で、この寺の鎮守社であり、いずれも国宝じゃ。
13世紀鎌倉時代の建立といわれ、春日造社殿としては全国最古というからブッたまげるわいのう。
小さいながらも均整のとれた、軽快な感じのいい建物じゃ。
こんな田舎にあるのはもったいないと思えるほどに、全国レベルの文化財で境内が埋め尽くされておるわけじゃ。
その奥ゆかしさには、ワシもちと心引かれるものがあるわいのう。
さて、この寺を後にして国道をさらに東へ向かうと、やがて阪原町に至るのじゃ。
ここに、南明寺という寺がある。
国道からはわき道へ入るからちょっと分かりにくい所にあるが、地元の人に聞けば、親切に教えてくれるじゃろうて。
本堂が一つあるだけの寂しい寺じゃが、その本堂は国重文、
その中に安置されている3体の仏像もいずれも国重文で平安時代後期の作だそうじゃ。
また写真左の十三重石塔は室町時代の、また右手の石造の宝きょう印塔は鎌倉時代のものというんじゃから、
なかなかどうして侮れないじゃろ。
近くには「お藤の井戸」という古い井戸があるんじゃが、そのお藤というのは柳生宗矩の妻になった人じゃ。
何でも、この井戸で洗濯していた彼女に宗矩が「洗濯をしておるが、水が揺れて出来る波の数はいくつあるか。」と尋ねたところ、
お藤は「はい、七三(なみ)二十一波でございます。」と答えたそうな。
その才気と器量に感心した宗矩は、彼女を妻に迎えたらしいのじゃ。
柳生宗矩がうろついとる位じゃから、ここはもう柳生の近くということが分かるじゃろ。
この後ワシは柳生の里へと向かったわけじゃが、その柳生については次回で触れたいと思うちょる。
この日は前日に降った雪がまだ残っておって、実に寒かった。
そんな雪深い田舎じゃが、ここはれっきとした奈良市に属しとる。
すなわち円成寺は奈良市忍辱山町、南明寺は奈良市阪原町なんじゃ。
皆が知っとる奈良は、奈良市が持つ多くの顔のうちの一つにすぎんのじゃ。
いやいや、奈良はいかにも奥深くて、なかなか飽きがこん所じゃて。
んじゃ、またな。
第10番行脚終了 奈良市忍辱山町および阪原町
平成15年2月8日