長らく暇をとって、皆の衆には心配を掛け申した。何?
心配なぞ誰もしとらんじゃと。それなら、それでいいのじゃが・・・。ちと寂しいのう。
あまり年寄りをいじまるもんじゃないぞ。
今日は唐古荘の地元、田原本を紹介しようぞ。
何せ近いもんでな、自転車で行けばすぐそこなのじゃ。
近鉄橿原線の急行停車駅であるにもかかわらず、田原本という所はあまりパッとしない町じゃ。
江戸時代には平野氏の陣屋町として発展したというのじゃから、何かあるじゃろうと思って町中を徘徊しておると、
写真のようななかなか風情のある建物に出会うた。
これは浄照寺の表門じゃ。
浄照寺は、浄土真宗の大和国五ヶ所御坊の一つとして栄えた由緒ある寺じゃ。
そして、この表門は京都の伏見城の遺構を移したものと伝えられとるそうな。
確かにこれは寺の建物と言うよりは、武家の香りの濃いものなので、わしゃそれで納得したよ。
この江戸時代の領主である平野氏の初代は、賤ヶ岳の七本槍で知られる平野権平長泰(ごんぺいながやす)じゃ。
この田原本など5000石の領地を与えられ、その後江戸時代にはその子孫たちも交代寄合として当地を支配し、
1868(慶応4)年1万石の大名になったんじゃ。
浄照寺の北にある本誓寺は以前にこの地にあった教行寺の寺地を浄照寺と二分した寺じゃが、ここはこの平野氏の菩提寺じゃ。
またこの二寺の南、田原本駅のすぐ東側にある津島神社は、もともとこの地にあった牛頭天王社に
平野氏がその本貫地である尾張国津島(現愛知県津島市)から津島神社を移し合わせたものじゃ。
このように田原本の町は平野氏と深い関わりがあって、そのもとで商業が発展し、
「大和の大坂」とも称された偉大な過去を持つ町なのじゃ。
近くに住んどったが、こうして調べてみるまでは何も知らんかった。
無知というものはおそろしいものじゃな。
今、田原元を観光で訪れる人のほとんどは唐古・鍵遺跡を見て「ハイ、さようなら」じゃろう。
田原本はその町自体が素晴らしい歴史を持っとるのじゃから、江戸時代と平野氏に焦点を当てた観光PRでもすれば、
全国的な知名度も上がって、もっと県外からの訪問者も増えるじゃろうに何とも惜しいのう。
まあ、うちも磯城郡のイメージシンボルとして唐古遺跡から名前を借りとる手前、大きなことは言えんが、
唐古遺跡の他にも田原本には見所がいっぱいあるんじゃ。
さしあたり、この浄照寺の表門のポスターでも作って陣屋町としての田原本を宣伝してみてはいかがかのう。
近所だけに田原本にはがんばってもらいたいんじゃ。
第11番行脚終了 磯城郡田原本町田原本より
平成15年12月10日