2004年8月〜  バックナンバー


第12番 当麻



またまた長らくのご無沙汰じゃったの。
まあ、年寄りの気紛れとでも思うてくれ。
今回は南へ行くぞ。
佐味田川に沿って南下し、真美ヶ丘ニュータウンを突き抜け、五位堂駅からさらに南下すると、そこは当麻の里じゃ。
当麻寺の近くには当麻蹴速(たいまのけはや)の墓があるが、これは相撲の開祖と言われておる。
また当麻寺のもととなる寺を作ったのは用明天皇、これは聖徳太子のお父上じゃな、その皇子である麻呂子皇子(当麻皇子)じゃ。
この皇子の孫にあたる当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)の手で現在地に移されたのが今の当麻寺じゃ。
みな当麻の名をもつ人間が関わっておるわけじゃが、このうちのどれかがたぶん当麻の地名の元じゃなかろうかの。
ワシゃ、詳しいことは分からん。誰か教えてけろ。

まあ、当麻寺に行く前に一つ、寺に寄っていくとしようかの。
当麻寺の真北にある石光寺じゃ。
寒牡丹で有名な寺じゃ。
別名染寺(そめでら)とも言うがの。
中将姫が曼荼羅図を織るとき、化女があらわれて、蓮糸を井戸で五色に染めたという伝承の井戸、すなわち中将姫の染めの井が境内にあるからこう言うんじゃ。
中将姫というのは右大臣藤原豊成(とよなり)の娘じゃ。
豊成は南家武智麻呂(むちまろ)の子で、また恵美押勝(えみのおしかつ)として一時権勢を振るった藤原仲麻呂の兄に当たる人じゃ。
この娘は継母に殺されそうになって苦労した末に当麻寺で尼となって、当麻曼荼羅を織ったんじゃ。
何やら、歴史の授業みたいじゃの。
この辺でやめとくから、安心しろ。
写真は境内から眺めた二上山じゃ。
この山の山頂には大津皇子の墓があるんじゃ。
やれやれ、奈良では歴史抜きには話もできんの。
小さい寺じゃが、二上山と当麻の里の風情を静かに味わいたい者にゃあ、おススメの寺じゃわい。




さて、今度はいよいよ当麻寺へ行こうぞ。
前にも書いた通り、飛鳥・白鳳時代にまで創建がさかのぼる、古い寺じゃ。
古いだけじゃなく、ちょっと面白い寺での。
ちゅうのが、この寺は真言宗と浄土宗の両方に属しておるのじゃ。
神仏習合なら聞いたことはあるがの、宗派が二つある寺というのはちょっと聞いたことがないのう。
まったく、めんくらこいたわい。
それからここの本堂の本尊、つまりこの寺のご本尊なんじゃがの、実は当麻曼荼羅図なんじゃ。
本尊と言やあ、普通は仏像じゃろ。変わっとるじゃろ。
この曼荼羅図は先にも言うた中将姫が織ったとされるものじゃが、今堂内に掛かっとるのは16世紀初頭の写本じゃ。
原本の「綴織当麻曼荼羅図」、つまり実際に中将姫が織ったとされるものじゃな、
これは痛みが激しくての、軸装されて朱塗りの箱に納められておるんじゃと。
珍しいのはそれだけじゃあないのじゃ。
ここには東塔と西塔の二つがあるんじゃ。
どちらも大規模な改修はしておるが、天平様式の古代からの塔じゃ。
もちろん、二つとも国宝じゃ。
薬師寺にも塔は二つあるが、あれの西塔は近年再建されたものじゃ。
古代の東西両塔が完全に残っている例はこの寺だけだそうじゃ。
いや、ありがたや、ありがたや。
この塔だけでなく、この寺には国宝が多くての、
先に言うた「綴織当麻曼荼羅」も国宝じゃ。
他にも梵鐘(天平期の名鐘じゃ)、本堂、当麻曼荼羅厨子(ずし)、弥勒仏坐像、蓮華倶利迦羅龍蒔絵経箱(れんげくりからりゅうまきえきょうばこ)などがあるんじゃ。
また中の坊の庭園は片桐石州の築造と伝えられ、国名勝・国史跡になっておる。
写真は西南院(さいないん)庭園から見上げた西塔じゃ。
紅葉の季節にはきれいじゃろうのう。
これだけの歴史と話題がある大きい寺なんじゃが、どうもこの寺はあまり知られてはおらん。
東大寺や興福寺、法隆寺などに比べると、どうも観光客の姿は少ないのう。
場所が悪いんかもしれん。
観光コースに入れるにはちょっと一つだけ、ポーンと離れすぎとるのかもしれんのう。
交通の便はあまりようないが、みんな奈良に来る時にゃあ、ちいとはこの寺のことも思い出してやってくれんかの。
年寄りの頼みと思うて、ちいと心の片隅に覚えておいてくれんかの。

んじゃ、またな。


                            第12番行脚終了  北葛城郡当麻町染野および当麻
                                               平成16年8月7日



第13番 女寄峠から宇陀へ



今回は盆地を離れ、宇陀を目指すぞ。
桜井市を東西に走る国道165号は同市外山で国道166号線を分岐する。
ここは宇陀が辻という所じゃが、その名の通り、宇陀への分岐点じゃ。
ここから166号を進むと、次第に山が険しゅうなってきよる。
そして女寄峠にさしかかるわけじゃ。
ここはものすごい傾斜道がまっすぐに延びとっての、車で行くのもちょっとコワイとこなんじゃ。
ワシも下からエッサエッサとこいでったがの、途中で自転車から降りたわい。
とても一息で上れるもんじゃあないわ。
ぜーぜー。あ〜、苦ひい。
上り詰めた所は桜井市と大宇陀町の境界で、ここが女寄峠のてっぺんじゃ。
後は大宇陀の町中に下っていくのみじゃ。
ペダルこがんでも、スピードがえらい出よる。
風が涼しいのう。
盆地より200メートル以上も標高が高い宇陀は、いつ来ても気温が少々低いんじゃ。
この女寄峠、実は奈良交通の最初のバス路線が敷かれたとこなんじゃ。
奈良交通を作った当時の有力者は大宇陀の人での、
桜井駅から女寄峠経由で大宇陀までバスを走らせたのが奈良交通のそもそもの始まりなんじゃと。
昔のバスでこんな坂登らせたんじゃから、乗ってた人はえらいコワイ思いしたんとちゃうやろか。
写真は峠の上から盆地の方を眺めたものじゃ。
山の向こうに奈良盆地がかすんで見えるじゃろ。
こんだけの高さを上ってきたわけじゃ。
苦労した分、気分はいいのう。



国道166号は内原という所で南に折れる。
宇陀川沿いの狭い盆地を行き、岩室という所で右手の高台にある寺へ向かう。
これが今日の目的地の徳源寺じゃ。
臨済宗の寺じゃ。
ここは織田公墓所として有名なのじゃ。
宇陀松山藩織田家の菩提寺なんじゃ。
この宇陀松山藩織田家の初代は、何と織田信長の次男信雄(のぶおじゃないぞ。のぶかつ、っていうんじゃ)なんだと。
小牧長久手の戦いで徳川家康と連合して、豊臣秀吉と戦ったあの信雄じゃ。
小田原征伐の後、関東に移った家康の旧領を治めるよう秀吉から言われたんじゃが、それを断ったんじゃと。
おかげで冷遇されて、家康に拾ってもらったものの、こんなとこにひっそりと墓があるんじゃな。
まっこと、人の世は一寸先は闇じゃな。
ちょうど、行った頃は紅葉の頃での、もみじがきれいに色づいとったわい。
なかなかきれいに撮れとるじゃろ? 
涼しい分、盆地より秋の訪れが早いようじゃの。
宇陀にはこの他にもいい寺がいっぱいあるんじゃが、今回はここまでじゃ。
次回はここからさらに南へ向かってみようと思っとる。
みなも宇陀へ行ってみんか? 静かな秋が楽しめるぞ。
その時には、ぜひ女寄峠を通っていくがよかろ。
車でもけっこう楽しめるぞ、あの坂は。
んじゃ、またなー。


                          第13番行脚終了  桜井市粟原および大宇陀町岩室
                                               
平成16年9月4日