第3部第2章1〜4の写真とコメント


1 青い廻廊



ホテルの屋上で寝る、という青年に出会いました。
何でも、部屋の中で寝るよりもかなり宿代がお得なのだそうです。
日本でだったら、防犯上問題がある、とか、風邪でも引かれたら責任はどうなる、などとまあ、やかましいことになるのでしょうが、
ここはアラブ、そんな小さなことには構わないようです。
風邪の問題にしたって、風邪を引かないように厚着して寝ればいいのだし、
それだって、宿の人がそう言ってくれなくても自分が考えてすればいいことです。
風邪を引いて困るのは自分なんだから、自分で対処するのは当たり前のことです。
宿にそこまで面倒を見てもらおうとするのは、サービス過剰に慣れきった日本人の弱さなのかもしれません。
写真はある有名な岩窟寺院の屋根部分なんですが、
地上10メートルはあろうかと思われるこの屋根の端から足をぶらぶらさせて昼寝している人を見ました。
何ともタフなハートを持ってる人だと感心しましたが、これとて自分の責任でやってること、
もし誤まって下に落ちて死んだとしても、それはその人の責任であって、他の誰の責任でもありません。
日本では何か事故があると、その現場の管理がどうのとか、すぐに周囲の責任論に発展しがちですが、
もっとその行為主体の自己責任を厳しく追及していってもいいのではないか、と思います。
ホテルの上で寝ることだって、それにより生じるかもしれない一切の不都合を自己の責任において引き受けるということであれば、
日本のホテルだって、それを認めるのにやぶさかではないでしょう。
自己責任を引き受ければ、普通とは違ったエキサイティングな体験が楽しめます。
日本ではその責任を問われないがゆえに、みなと同じような体験しかできないのです。
何とも息苦しい社会ではありませんか。
私も、よく晴れた夜には星空を見上げながら寝てみたいものです。
もっとも、東京や大阪ではそんなにきれいな星空は見えないでしょうけど。



2 ワイルドなドライブ



ヨルダンの内陸砂漠は砂砂漠ではなく、いわゆる岩石砂漠です。
長い間の浸食作用で岩の硬い部分が岩山となって残り、あちらこちらにニョキニョキと屹立しています。
紅海沿岸の街アカバから砂漠のリゾート地ワディ・ラムへの直行バスはそんなに走ってはいません。
そこでアンマン方面へ向かうバスを途中で降り、そこから先はトラックをヒッチハイクして行きました。
その時、荷台に乗せられたのですが、これが正解でした。
というのも、景色は車内にいるとせいぜい180度の広がりしか持たないのですが、荷台から見るそれは実に360度です。
そして、トラックは100キロを優に越えるハイスピードで岩山の谷間にまっすぐに敷かれた道をぶっ飛ばしていきます。
砂漠の風を全身に受け、見上げれば青空、見渡せば地平線の向こうまで茶褐色の砂漠です。
実に気分爽快です。
車の揺れが激しいので、荷台の縁をガッシリと握り、両足を踏ん張って、中腰で揺れを体で吸収します。
荷物は、足のそばでガタガタと音を立てています。
砂漠は、自然の厳しさを見せつけられる所です。
それだけに、こうした荒っぽい洗礼を受けながらの道行きはかえってまっとうな感じがして、
それだけで爽快な気分になれるのです。



3 ラクダの旅



私はこのワディ・ラムでラクダに乗る前に一度、中国の敦煌でもラクダに乗ったことがあります。
ラクダは見た目は乗りにくそうですが、実際に乗ってみると実に快適です。
小走りに走る時でさえ、その揺れは馬ほど激しくはなく、
上下の揺れを馬よりもラクダはその体で吸収してしまうのか、揺れの周期が大きくゆったりと揺れます。
馬よりも柔らかい走りっぷりで、乗っていて疲れを感じません。
昔の人はこんなラクダに何日も乗って、地平線彼方に広がる砂漠の只中を旅していたんですね。
乗り物は原始的なものほど、旅の感慨が味わい深い形で存在しているように思えます。
現代人は速さや便利さ、安全を手に入れた代わりに、
旅そのものの持つ移動に関する生々しい感覚やそこから来る感慨を得ることが難しくなりました。
この世界の広さを自分の体で生で実感できる機会が昔の旅人にはふんだんに用意されていたことを思う時、
私は過去の世界への憧憬の念を感じずにはいられません。


4 天との会話



漠の夜の星空は、とてもきれいです。きれいすぎて、むしろ怖いくらいです。
一つ一つの星の輝きがとても強く、また星の数もとてつもなく多いのです。
だから夜空の暗い部分が少なくて、至るところが星の輝きで覆い尽くされているように見えます。
その輝きの強さと多さに、私は恐怖を感じるのです。

砂漠は、極端な二元的世界です。
大地と天空が、静寂のうちに向き合っています。
その狭間にあって、人間はその静寂に耐え切れなくなって自ら思惟を始めます。
普通の人間は、なかなか無念夢想にはなれないものなのです。つい考えてしまう。
やがて夜がやってきます。
人はその時、暗い大地に現世の悲惨な暗みを見、天空の光に希望の明るさを見たのでしょう。
そうした砂漠の夜の著しい二元性が宗教を育んだのかもしれません。
天空の光の明るさは、いわば神の正義の表象なのです。

こうして圧倒的に何もない広漠とした空間に身を置くと、自分の頭の中がにわかに饒舌になってくるのを如実に感じます。
太古の人々はここで何を感じ、何を思ったことでしょう。
砂漠とは、私にとってはこうした精神の饒舌を誘う空間なのです。