尻尾


 猫が。  影のような黒猫が振り返る。
 ぼくがちゃんと自分の後ろについて来ているかと、確かめるかのように、振り返る。街灯の光を反射する瞳の色は蒼。冷たい月の色。
 ぼくは彼の眼差しに答えて、右手を軽く挙げて頷いてみせた。歩調は緩めもせず、速めもせず、一定を保って。猫の方は振り返った姿勢のままで止まっているものだから、自然、ぼくと彼との距離は縮まってゆく。
 十メートル、五メートル、三メートル・・・
 もう、間近まで来たところで、猫はまた前を向いて歩き始めた。ぼくも勿論ついてゆく。猫は、背中に目があるかのように(それとも単にぼくの足音から判断しているのか)、ぼくと全く同じ速度で先をゆく。距離は変わらない。
 猫は、悠々と道路の真ん中を歩いている。見えない石灰でラインが引いてあるのかと思うほど、そのコースは正確だ。角を曲がる時だって、かっきり九十度。尻尾の角度は六十度。
 ゆらゆら、ゆらゆら。微妙に揺れる、彼の尻尾。
 ぼくは何故だか、その柔らかそうな細長いものから目が離せない。だから、周りの様子なんて目に入らない。自分が何処を歩いているのかも、わからない。
 そもそも、どうしてぼくは彼の後ろについて歩いているのだろう? いったいいつから? そして彼は、何処へぼくを導いてゆこうとしているのだろう?
 瞬間的に、そんな疑問が頭の片隅を掠めたけれど、一秒後には、もうどうでもよくなっている。何だろう、なにか、ふわふわといいキモチ。尻尾はゆらゆらと揺れている。
 ああ、なんていい尻尾なんだろう。長過ぎず、短過ぎず。棒のように真っ直ぐでもなければ、醜く捻れているのでもない。素敵な尻尾。どうしてぼくにはないのかな。
 そう思ったら、突然、衝動的な欲望が込み上げてきた。あの尻尾が欲しい。欲しくて堪らない。だってあんなに素敵な尻尾。あれが、ぼくが歩くのに合わせて、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れていたらどんなにいいだろう。
 知らず、ぼくは歩みを速めて――ゆっくりと右手を伸ばし――・・・

 「駄目だよ。これは君にはあげられない」

 吃驚した。
 猫がいない。
 右手を伸ばしたぼくを振り返ったのは、黒猫ではなくて、ぼくと変わらない年頃の少年だった。黒の上下に身を包み、にっこりと微笑んでいる。
 白い肌、黒い髪。そして冷たい月の蒼をした睛に、紅い口唇。ぼくは戸惑い、どうしていいのかわからず、伸ばした右手をゆるゆると下ろした。全身で困惑を表した様子だったろう。だってぼくが欲しいのは、猫の尻尾で、彼じゃない。
 けれど、ぼくはそこでもう一度驚いた。思わず目を見開いて、あッと声を上げてしまった。
 少年が、その白い手に、先程の猫の尻尾を持っていたのだ。ぼくがあんなに欲しいと思った素敵な尻尾。それが少年の手に握られている。
 いったいどうしたコトだろう。尻尾の根元は少年の背後に回り込んでいて、その先に猫の身体が付いているかはわからない。もしかしたら、彼の背中にしがみついているのかもしれない。
 ぼくは、それを確かめに少年の背後へ回ってみたかった。でも、ぼくが動くのより早く、少年は微笑みを浮かべたまま、ぼくに向かって近づいてきた。猫とぼくとの間にあった距離を、少年が歩いて縮めてゆく。
 十メートル、五メートル、三メートル・・・
 少年はぼくの目の前で立ち止まり、にっこりと一層深く微笑み、紅い口唇を開いた。
「この尻尾は、ぼくのだからあげられないんだ。ごめんね」
 少年は尻尾を握っていた左手を開いた。尻尾はゆらゆらと揺れている。揺れる尻尾を見つめるぼくの頬に、少年はその左手でそっと触れた。少し低めの体温。滑らかな感触。
「でも、君は折角ここまでついて来てくれたし。他の尻尾ならあげられるよ」
 少しだけ、手のひらに力を込めて、少年はぼくの目を覗き込んだ。月の色の彼の睛に、ぼくの顔が映っている。じっと見つめていると、睛の中のその顔は、やがてこくりと頷いた。
 少年は満足気に目を細め、ぼくの頬から手を離した。そしてぼくの手首を掴むと、不意にそのまま駆け出した。
 走る、走る、走る。
 いくつもの角を、まるでめちゃくちゃに曲がって。だんだんと疎らになる街灯。降り注ぐ夜の闇。深く深く、夜の真ん中へと向かってゆく。
 今更ながらに、もう戻れないんじゃないかと思った。
 ――戻る? 何処へ戻ろうというのだろう。
 ああ、ぼくはいつから、何処から、どうして、何故・・・?
 次々に浮かんでくる疑問たち。それらは浮かぶ端から闇の彼方へと吹き飛ばされてゆく。行く、逝く――・・・。

 気がつけばぼくらは立ち止まっていて。目の前には大きな門が聳え立っていた。艶消しの黒。植物が絡みついたような装飾的な意匠。門の両脇には、赤煉瓦を積んだ上に門と同じ鉄柵をつけた塀が、どこまでも延々と続いている。
 少年は、まだぼくの手首を握ったままだ。ひんやりとした感触が心地よい。
 視界の隅に、ちらりと映った黒いモノ。少年の尻尾はゆっくりと揺れている。素敵な尻尾。
 少年は、ぼくに尻尾をくれると言った。それはどんな尻尾だろう。本当は、一番欲しいのは彼の素敵な尻尾なのだけど、それは駄目だと言っていた。
 どうせなら、あの尻尾に匹敵するぐらいのものがいいな。だって折角尻尾をもらっても、不恰好なものがぐらぐらと揺れているようじゃあ台無しだ。そんな尻尾だったら、ない方がずっといい。
 そんなコトを考えて、ぼくは少し心配そうな顔をしていたようだ。振り返った少年が、小さくくすりと笑った。
「怖いのかい?」
 少年は、今更怯えても無駄だとでも言いたげな様子で、ぐいとぼくの手を引いた。少年とぼくの顔が、ぐっと近づく。ぼくは、彼の月の色の睛を見つめて、首を横に振った。
「ううん、そうじゃないんだ、ぼくが考えていたのは尻尾のコトさ。ねえ、君の尻尾はとても素敵だね。ぼくはそんな尻尾が欲しいんだ。だけど、こんな素敵な尻尾が他にもあるのかな?」
 ぼくは、少年の睛を覗き込みながらそう言った。彼の睛に映るぼくの睛を見つめながら。真剣な眼差しをしている。少年と同じ、月の色をしたぼくの睛。ずっと前からこんな色をしていたんだっけ?
 ――ああ、Lunatic。
 少年はぼくの言葉を聞くと、少しばかり意外そうな表情を見せ、そしてすぐに凄く嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫。そんな心配しなくても、きっと君にぴったりの尻尾が見つかるよ」
 ずっと握ったままだった左手を、少年はようやくぼくの手首から外し、そっと背中に添えた。
「さあ、」
 軽く促すように力を込められて、ぼくは門に向かって歩き出した。少年もぼくの背中に触れたままついて歩く。目の前に迫ってくる、大きな大きな門。
 少年は、勝手を知った様子で手をかけ、重そうな門を易々と押し開けた。微かな軋みをあげて開いて行く、それは異界への入口。
 ぼくは、もう僅かも躊躇うコトなく、自分から門の中へと足を踏み入れた。
 もう、決して戻れない。
 何処からか、猫の啼く声が聞こえた。
 振り返ってみると、月の色の睛をした少年が、それはそれは美しい微笑みを浮かべて、ぼくを見つめていた。

  暗転。



 月が。
 空には蒼白い満月が浮かんでいる。
 月光に照らされた道を、ぼくは1人で歩いている。なにかふわふわと、弾むような足取り。どうしてかな、嬉しくて堪らない。
 思わず十字路の真ん中で、くるりと一旋、右足を軸にターンする。
 視界の端に、ちらりと黒い影が映った。しなやかに揺れる、細長くて柔らかいもの。その美しいカーブに、ぼくはうっとりとした。
 ああ、なんて綺麗な尻尾。素敵な素敵なぼくの尻尾。
 いま来た道から右に九十度、ぼくは北に向かって歩いて行く。その背中でゆらゆら、しなやかに揺れている尻尾。それを背後から見下ろしている満月。蒼白い月。蒼い、月の色をした瞳。
 振り向けば、塀の上に黒猫が佇んでいる。艶やかな毛並みをした、影のような黒猫。ぼくを見つめる、月の色の瞳。
 ぼくは、蒼い月の色の睛にその姿を映した。彼の瞳に映る、ぼくの睛を見つめた。
 ゆらりと動かされる彼の尻尾。ぼくもそれに答えて、尻尾を大きく揺らせた。密やかな、音のないシグナル。
 一瞬の後に、彼が塀の向こうに姿を消してしまうのを見届けて、ぼくはまた、北に向かって歩き出した。
 ゆらゆらと、素敵な尻尾を揺らせながら。


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