1・祭り鬼

「祭リガ 来ルヨ」
 突然に、背後から囁かれた言葉。
 ぼくは驚いて、足を止めると同時に振り返った。するとそこには全身黒尽くめの少年が、真っ直ぐにぼくを見据え、道の真ん中に立っていた。
 いったい彼は、いつの間に現われたのだろう。この道は、左右を木立に挟まれた一本道で、おまけに辺り一面は落ち葉が敷き詰めたように埋め尽くしていて、物音を立てずに動くコトはできない。けれどぼくは、少なくともこの道に入ってから、自分の歩く音以外は聞いていない。
 いったい彼は、どうやって現われたのだろう?
 薄気味悪く思いつつ、ぼくは少年を見つめた。黒い靴に黒いズボン、黒いシャツの袖の先にはご丁寧に黒手袋まではめている。束ねた髪も、眼光鋭い瞳も漆黒だ。薄い口唇は、微かに笑っているかのよう。
「祭リガ 来ルヨ」
 先程と同じ言葉を、少年は繰り返した。そして、じっとぼくを見据えたまま、彼は跳ぶようにステップを踏んでぼくに近付いてきた。一歩毎に迫り来る、闇のカタマリ。けれどぼくは、身動ぎすらできずに、ただ彼を凝視するばかり。
 そうして、やがてぼくの目の前にふわりと降り立った彼は、
「ヨォク 耳ヲ澄マセテ ヨォク 目ヲ見開イテ 待ッテイルガイイヨ」
「祭リガ 来ルヨ」
 低い声で囁いて、一瞬、ぼくを包み込むように抱きしめたかと思うと、ふっと消えてしまった。
 後には、耳に残る囁きと、どこか穏やかな温もりと。
 ざあッと音をたてて風が通り過ぎて、木々は一頻り落ち葉を降らせた。
 ぼくは、自分が道のどちらへ向かっていたのかを、束の間忘れた。



  2・貨物列車

 夕暮れのホームにひとり、ぼくは下り電車を待っている。
 誰も、上りのホームにも、人はいない。
 ふと見上げれば、屋根の上には鴉が1羽、啼きもせずに佇んでいる。
 ただでさえ黒い鴉が、橙色の逆光の中、輪郭を滲ませて、溶けそうな闇の色。
 何処か遠くで、鐘の音がきこえた。
 澄んだ空気の中を、歪みながら伝わってくる。
 ぼくは耳を澄ませて、北へ伸びる線路の先を見つめた。
 微かに響いてくる、車輪の音。
 電車が来たのだろうか。
 ゆっくりと立ち上がり、ベンチに置いておいた鞄を取り上げて線路に近付く。
 線路があって、ホームの端があって、白い破線に黄色いブロック。
 靴底を通してブロックの凹凸を足の裏に感じながら、ぼくはやって来る電車を待ちうけた。
 けれど。
 やがてその姿を、黒い点から青い鉄の塊へと変えてきた電車は、ぼくの待っていたものではなかった。
 トラクターのような鼻先。
 これは貨物列車だ。
 ぼくは落胆して、一歩下がった。
 早く早く、家に帰りたいのに。
 早く、帰らなければ、
『闇ガ 来ル、』
 轟々と音をたてて、貨物列車が駅を通り抜けてゆく。
 青い先頭車両の後ろには、大きな貨物。
 色とりどりの、四角いコンテナ。
 そして、真っ黒な細長い鉄の塊。
 あれはなんだろう。
 何故だかひどく気になった。
 なんだろう、何かタンクのような。
 いいや、そうじゃない。
 そうじゃなくて、

  アノ中ニハ 大キナひとガ 横タワッテイル
  大キナひとハ 神
  アレハ 神ノ葬列

 突然に、耳元で大きな音がした。
 はッと我に返ると、丁度目の前を、貨物列車の最後部が過ぎ去ったところだった。
 ぼくはホームの地面に座り込んでいる。
 さっき浮かんできたコトバはなんだったのだろう。
 見上げると、向かいの屋根にいた鴉が飛び去ってゆくところだった。
 ぎゃあぎゃあと啼きながら。



  3・風鈴屋

 ちりん、ちりん、
 しゃらしゃらしゃら。
 風鈴屋が通る時、喧騒の中にいた人々も、ふと風のあるコトを思い出す。
 せかせかと歩く人々は、いつもは風に気付かない。
 だけど、風鈴屋の提げた何十もの風鈴が、
 ちりん、ちりん、
 しゃらしゃらしゃら。
 乾いた音をたてるから、人々は、そこに風のあるコトを思い出す。

 風鈴屋は、箱の上に木枠を組んで車輪を付けた台を牽いている。
 枠には何十という風鈴。
 指先ほどのものから、小振りの金魚鉢ほどのものまで。
 風鈴屋の風鈴は、どれもガラスで出来ている。
 透明なガラスに、鮮やかな色絵付け。
 朝顔、花火、かき氷。
 みんなみんな、夏の思い出だ。
 人々は、経験したコトもない、幻想の夏の思い出に惹かれて、風鈴を求める。

「おにーさん、」
 小さな子供がやって来た。
 呼び止められた風鈴屋は、振り返って台を停めた。
 子供は真剣になって風鈴を選ぶ。
 そして、風鈴を選ぶ子供を、風鈴屋は不思議な眼差しで、じっと見詰めている。
 やがて子供は、手のひらに乗るほどの風鈴を選び出した。
 青のグラデーションで、花火が描かれている。
 小さな手のひらで差し出した小銭と引き換えに、風鈴売りは、子供に風鈴を渡した。

  ……りぃん、ちりぃん、

 何処からともなく吹いてきた風に、風鈴が鳴る。
 いつの間にか、子供の姿は消えている。
 風鈴売りは、先刻までよりも艶やかな音をたてている、花火の絵柄の小さな風鈴を目の高さまで持ち上げて、微かに笑みを浮かべたようだった。
 ちりん、ちりん、
 しゃらしゃらしゃら。
 幾重にも重なったガラスの聲を引き連れて、風鈴売りは、次の獲物を探しに行った。



  4・宵闇祭り

 騒々と、耳に心地よい音が低く響いている。
 神社の境内は、何処に燈明があるのかわからないけれど、なにやらぼんやりと照らされているようだった。
 月の出にはまだ早い。
 日輪は疾うに沈んでいる。
 騒々とさざめくのは、宵宮に集う人々だろうか、それとも風に揺すられた樹々の葉だろうか。
 ぼくは気づけば、一人で歩いていた。
 連れとはぐれたのだろうか、それとも最初から、そもそもの最初から、ぼくはずっと一人だったのだろうか。
 右手には、小さな紅い金魚が2匹入ったビニール袋。
 左手には、

  ……りぃん、ちりぃん、

 左手に提げた、小さな風鈴が音をたてた。
 振り返れば、参道は闇に包まれている。
 ぼくは空手で石畳の真ん中に立ち尽くしている。
 突然、さぁっと辺りが光に包まれた。
 見ると、丁度拝殿の真上で、雲に覆われていた満月が姿を現したところだった。
 月は、疾うに昇っていたのだ。
 闇に囚われたぼくを取り残して。
 ぼくは、弾かれたように拝殿に背を向けると、鳥居目掛けて走り出した。

  ここにいては不可ない。
  早く行かなくてはならない。
  ……が、来るのだから。

 そうして、全力で鳥居の下をくぐり抜けた瞬間。
 ぷつん、と糸が切れた。



  5・祭り鬼

「祭リガ 来ルヨ」
 風の止まった瞬間に。
 ぼくは、一本道を一人で歩く少年の背後で囁いた。
 驚いた様子で足を止め、振り返った少年はぼく自身。
 けれど、彼は気付かない。
 囁いた祭り鬼が、自分自身であるコトに。
 闇に囚われた自分自身であるコトに。
 ぼくは、可哀相な少年が愛しくて、微笑みを浮かべた。
 彼に、この笑みの意味がわかるだろうか。
「祭リガ 来ルヨ」
 もう一度囁いて。
 ぼくは少年の許へ、跳ぶような足取りで赴いた。
 身動ぎすらできず、ただ目を見開いた彼。
 可哀相な少年。
 そう、ぼく自身。
 ぼくは、ありったけの思いを込めて囁いた。
「ヨォク 耳ヲ澄マセテ ヨォク 目ヲ見開イテ 待ッテイルガイイヨ」
「祭リガ 来ルヨ」
 君を迎えに。
 最後は口に出さないで、代わりにぼくは、少年の身体を一瞬だけ抱きしめて、闇の中にとけた。
 ざあッと風が鳴る。
 月は、雲に攫われて消えた。


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