暗夜思考


 眠れない夜を過ごす。
 元来、あまり寝付きのよい方ではなかった。疲れて床に就いた夜でも、三十分、一時間と天井を見つめて過ぎてゆくのがザラだった。
 思い返してみれば、幼い頃から既にそんなカンジだった。「おやすみなさい」と言って布団に潜り込んだあとも、いつまでも寝付かれず、まだ燈りのつく居間へ戻って父や母に眠れないと訴えた記憶がある。
 それだから、最初は気にも止めなかった。
 なんだかいつにも増して寝付きが悪い、精々のところ、そう思ってみるだけで。大体、三時間、四時間と眠れないコトだって、特別珍しくはなかったのだ。
 だから、一体いつ頃からそうなって行ったのか・・・思い出すコトも出来ない。
 それは、徐々に進行していった。
 少しずつ少しずつ、眠りに落ちるのが遅くなる。いつもと同じ時間に布団に入っても、寝付くまでの時間が、段々と長くなってゆく。
 夜が長くなってゆく。


 眠れないままに、天井を見つめて時間は過ぎる。
 幼い頃、眠れないと訴えるぼくに両親は、「目を閉じていればいいんだよ。そうすればすぐに眠れる」と、なんでもないコトのように言った。けれどそれは、決して簡単なコトではなかったと思う。
 幼いぼくは、言われるまま、素直に目を閉じてみる。
 眠れない。
 眠らなければ。
 さあ、目を閉じて。
 目を開けてはいけない。
 ほら、開いてしまいそうだ。
 ああ、目を閉じなければ駄目だ。
 眠りたいのに、眠らなきゃいけないのに。
 さあ、目を閉じて・・・。
 一生懸命に眠るコトを考えた子供は、考えるコトに一生懸命で、なかなか眠れない。
 それでもあの頃は、気付かぬ間に、いつの間にやら寝つくコトが出来ていた。
 今はもう駄目だ。


 目を閉ざしても、開けたままでも、無理矢理に開けておこうとするのでなければ眠る為には大差ないと、大きくなったぼくは知っている。
 その代わりに、電燈は全て消すようになった。
 昔は、まだ兄と一緒の部屋で寝ていた頃は、小さなオレンジ色のランプを点けていた。ぼんやりと、夜の部屋を映し出す燈り。やけにくっきりとした陰影。
 あれが酷く明るく思えるようになったのは、いつ頃だったろうか。これじゃあ、普通に電燈を点けているのと変わらないと。
 電燈を消しても、実のところ天井は見える。ごくはっきりと。都会の夜は明るくて、カーテン越しに漏れてくる光だけでも、十分に部屋の様子は見て取れる。
 けれど、じゃあ電燈を点けている時と何が違うかと云えば、瞼を透過して尚ぼくの網膜を突き刺す明るさだ。あれは辛い。ただでさえ眠れないというに、叩き起こされるかの如き刺激を齎す。
 ・・・光に、弱くなったものだ。


 光と云えば、昼間の街を歩くときも、建物の蔭を選んで歩くようになった。明るい太陽から逃げ出すかのように。
 薄曇りの日も苦手だ。淡い雲が陽光を乱反射させるのか、そこらじゅうに光が溢れていて、蔭の出来ない分、逃げられない分、晴れの日よりも辛いかもしれない。
 そんな日の横断歩道は最悪だ。黒いアスファルトに引かれた白線たちは、意地悪にぼくの目を突き刺す。
 あの白い色に、ぼくは敵意すら覚える。


 ・・・とりとめもない思考が広がってゆく。
 見上げた天井には、燈りを消した照明があるばかり。
 ぼくは溜め息を吐いて、枕許に置いた時計を見遣った。蛍光塗料で書かれた文字を、同じく蛍光塗料で塗られた針が指し示す。4時過ぎだ。布団に入ったのが11時だったから、かれこれ5時間も経つコトになる。
 眠気は微塵も訪れようとしない。


 この様子では、明日・・・いや、既に今日と言うべきか。今日の授業も、半分は居眠りで潰れてしまうだろう。
 夜に眠れない分のツケが何処に回ってくるかと云えば、それは当然昼間、学校にいる間になる。
 自ら望んで志した学問の道だ、決して退屈したりしているワケではない。知りたいコトは沢山ある。授業中、先生の話す内容は全て逃さず捉えておきたい。
 けれど、意地悪に訪れる睡魔たちは、ぼくの瞼に錘を下げる。
 耳からは先生の声。
 視界は下降してゆく。
 段々と狭まってゆく。
 背筋を伸ばして対抗。
 けれど瞼は重すぎる。
 目を開ける努力は徒労。
 声はただ流れてゆく。
 せめて耳だけでも働かせておこうとすれば、もう目に映るのは皮膚の裏だけ。薄闇に閉ざされた世界。
 やがて気紛れに通り過ぎてゆくまで。


 居眠りの後には一瞬だけ、すっきりとして清々しい感覚がある。けれど、すぐにそんなものは何処かに消えてしまい、重苦しい気怠さが残るばかり。頭の中は、霞が張っているかのようにぼんやりとして、鈍く、鋭く、頭痛が纏わり付く。
 ああ、こんな時。普段よりも更に、太陽への敵意は強くなる。光に満ちた世界への敵意は。
 眩々とする視界の中で、陽光はぼくを嘲笑うように煌めいている。周囲を歩く人々は、誰もそれに気付かない。いや、そうではなくて、彼らにとって、それは祝福なのだ。
 違うのは、異質なのはぼくの方。
 ぼくひとり。


 ひとりきりの夜は続く。
 太陽はまだ昇らない。
 今はまだ、夜。ぼくの属する時間。
 けれどもう直に、朝が、夜明けがやって来るだろう。
 そうして、世界は輝ける陽光に支配され、ぼくは異端を思い知らされる。
 夜明けは、ぼくを世界の外へと追い遣る標。
 やさしい眠りに見捨てられたぼくを。
 ああ、一体いつになったら眠りの安らぎは訪れるのだろう。
 それとも、まさか永遠に、もうずっとずっと、このままなのだろうか? 幼い日、眠れない不安に揺らされたあの時から、ぼくの夜は決まっていたのだろうか。
 眠れない夜。
 ひとりきりの夜。
 長い長い、薄闇の時間。


 遠くで鴉の啼く声が響いた。



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