…朝、君の声が俺を夢から連れ戻す。
それでも、目を覚まして始まる一日は夢よりも幸せだった。
テーブルの上には不器用な君が一生懸命焼いたやや焦げ目つきのスクランブルエッグとハムを散らしたサラダ。 俺のお気に入りのダージリンティをその隣に置いて、パンをトースターに突っ込む。
『今日のスクランブルエッグは大成功作だな』 ってからかうと、『うるさい』と軽く睨んできたよな。
そんな朝の幸せが当たり前だった。
…昼、午前中から途切れることのない患者で目が回りそうな忙しさ。
それでも、患者と君の笑顔が忙しさよりも嬉しかった。
『よく頑張ったな、退院おめでとう』
目の前には小さな女の子。昔、俺のダチが患ったそれと全く同じ症例。時間はかかったが術後の経過も良好でようやく退院宣言を出すことができた。
『先生…、本当に治療費はよろしいのですか…』
はしゃぐ少女の隣でその母が申し訳なさそうに上目使い。
『ああ?いいって、本当に。その文この娘に栄養のあるモンしっかり食わせてやってくれ』
『でも…』
『せんせえ!これあげる!!』
ふいに、横から伸びてきたのは少女の手。小さな花が、握られていた。
『さっきママとお散歩した時にみつけたの!!』
『おお、んじゃ貰っとくか。治療費ってことで』
何度もお辞儀をする母親と体いっぱい手を振る少女。それを見送る俺の隣には柔らかい笑みを浮かべる君がいた。
『よかったな…』
『ああ、…惚れ直したか?』
『…少し、だけな』
珍しく悪戯っぽい笑顔の君、そのあと二人で思いっきり笑った。
そんな昼下がりの光景が当たり前だった。
…夕方、ようやく病院も一段落。 君と2階の我が家までの短い家路を歩む。
だけどその日のことをあれこれと話しながらだからその距離は一層短くなったっけ。
『夕食は何にしようか』
『お前』
『…死にたいか…?』
『んじゃ、人間の食えるモン』
『…やっぱり死にたいらしいな…』
でも、見てろよ、って台所に腕まくりで突入する君。そして晩御飯はやっぱり変なクルタ味。だけど二人で食べるそれは何故だか嫌いじゃなかったんだ。
そんな夕方の楽しさが当たり前だった。
…夜、疲れて布団にとびこむ。もう一つのベットに入ろうとする君を俺の懐に捕まえる。
君はいつも真っ赤になって暴れたけれど、その唇で俺は疲れも忘れられたんだ。
『ん…』
俺の腕の中で眠る君が身じろぎする。昔はあんなに浅かった眠り、今ではこんなに深い。 前にその話をしたら一度だけ、君は白状した。『お前が、いるからだ』って。
それがとても、嬉しかったんだ。
そんな夜のぬくもりが当たり前だった。
幸せな朝と昼下がりの風景、
楽しい夕方に夜のぬくもり、
繰り返される毎日、繰り返される幸福
当たり前の毎日、当たり前の幸福、
毎日が当たり前に楽しかった。
君が在たから、
君が隣で微笑ってくれたから。
ずっとこのままだと、思ってた。
ずっと一緒だと、信じてた。
なのに、
「…レオリオ、ちゃんと食べないと体によくないよ?」
ゴンの声が、する。…何でだろう…お前の顔ぼやけてよく見えねえよ…。
「元気だせよ…ほら」
珍しいな、キルア、お前がそんな面を俺に向けるなんて…。
…なのに、何でだろうな、涙が、止まらないんだ。
何でだろうな、こんなに当たり前で、こんなに幸福なのに…、
ほら、こんなツラしてたらまた君に笑われちまうじゃないか、なあ、
『何て顔しているんだ、お前は』
ほら見ろ、あの見慣れた呆れ顔だ。ベットの上で半身起こして小憎らしい顔してる。
『しゃきっとしろ、お前は医者なのだからその役目を果たすべきだ』
『……』
言えねえ、言えるわけねえだろ?でもまっすぐに俺を見つめる君の目。その眼差しに抗い続けることは敵わず、俺の口が禁句を紡ぐ。
『…手の施し様がねえ…体が内部からやられちまっている…。断定はできないが…おそらくは…念の力が強すぎてその負担が全部生身の方にきちまったんだと、思う』
『うん…』
静かに、君は受け止めた。死の、宣告を。
君のことだ、とうに気付いていたのだろう?それでもなお俺の口から聞きたかったのか、満足そうな微笑みなんか浮かべやがって…。
でも、君はずるい。俺は、どうするんだ。君がいなくなったら俺はどうすればいい?
朝は誰が起こしてくれるんだ?
昼は誰が傍にいてくれるんだ?
夕方には誰が美味しくない晩飯を作るんだ?
夜はひとりきりで眠るのか?
なあ、教えてくれよ…。
『レオリオ…泣かないで、くれ』
優しい、君の、声。そして初めて気付く。頬を伝う、とめどない、涙。
どうしようもないのに、君は悪くないのに、感情のままに口がやるせない気持ちを吐き出す。
『仕方ないだろ!止まらないんだ!!こんなにも俺は無力なんだよ!!何が医者だ。何が沢山の人を救うだ。一番大切なお前を救えなくて、!!』
『レオリオ、自惚れてはいけない』
ゆっくり、ゆっくり、君が、語りかけてくる。冷たい台詞なのに、かけられる声はあまりにも温かくて。
『他人を救う、なんてことは出来ないんだ。そう、神でさえ。立ち上がるのはいつだってその人自身の力でしかない。他人にできるのはほんの少し、それを支えることだけなのだよ』
『…この期に及んでもなおお説教かい…ったく、慰めのひとつも言えねえのか』
『知ってるだろ、私の性分だ』
そうして、二人で笑った。俺はやっぱりくしゃくしゃに泣きながら、だけど。そしたら君はもういちど、言ったよな。
『何て顔しているんだ、お前は』って。
それからはまた当たり前の毎日。休んでろって言うのにお前ときたら朝になったら俺を起こして、昼には隣で笑っていて、夜には腕まくりして台所に突入して、夜には俺の腕の中で夢を見ていたんだ。
無理しやがってって怒ったら、したいからしてるんだってけろりとしてたっけ。
…そうか。それで俺は泣いているのか。
「…おっさん、じゃまた明日くるから」
ああ、キルア、すまなかったな、ゴン、お前もゆっくり休んでくれよ、…ん?何だ、それ。
「…手紙、あの日、クラピカから預かったんだ。レオリオにって、ここに置いとくね。じゃ、また明日」
ゴンが小さな封筒を机に置いて、そっと部屋をあとにした。無理して、笑顔を作って。
…あの日?……ああ、「あの日」か…。
あの日、君がふ、と呟いた。
『海に、行きたいな。ゴンとキルアも誘って、弁当持って、一日中遊んで…』
いちもにもない俺はゴンとキルアを誘って、4人で海に繰り出した。
『ただの戯言だったのに』と君は気にしていたけど、ゴンが『いいじゃない!久しぶりにこうして会えたんだし!俺も海、楽しみだよ』ってはしゃいだら『体は大きくなったのに、変わらないな、ゴンは』と微笑んだ。
そして、海。朝から4人でめちゃめちゃに遊んだ。子供だってこんなに派手に遊ばねえだろって位。
『ほら!クラピカ!!貝殻!!!』
『ああ、綺麗だな、ゴン』
『ほら、おっさん、ナマコ!』
『…何で俺にはナマコよ…』
昼にはクラピカが作った弁当を食べた。相変わらずのクルタ味。ゴンとキルア浮かべる微妙な表情に笑った。
『これは…人間の食いモンか…?』
『キルア!!…だ、大丈夫だよ!クラピカ!!ちょっと斬新な味だけど』
『…ゴン、それはフォローのつもりか?』
『聞いて驚け、二人とも。じつは日々のこいつの料理の基準からいうとこれはかなりの成功作なんだ!!!』
『なにいいいいいぃぃぃ!!!?』
驚愕の表情を浮かべる二人に、君は仏頂面。
夕方、水平線の彼方へ沈み行く夕陽を並んで眺めた。海も天も大地もすべての存在を染めあげる朱。はるけき昔より繰り返されてきたであろう自然の営みを俺たちは静かに観ていた。
『大丈夫か?今日はだいぶ無理しちまったからな』
『無理なんかしていない、楽しかったよ、本当に』
本当に嬉しそうに言う君は穏やかで、優しくて…綺麗だった。加えて、夕陽が照らす朱がその表情をいっそ清らかなものにしていた。
『海なんかでよかったのか?その…おまえの故郷とか…』
『覚えてるか?お前と、ゴンと、初めて会ったのが海だったな』
『…ああ、覚えてるぜ、お前の愛想のなさ』
『ふふ…私もだ。なんて愚かな人間かと思ったよ』
『…愚かまで言うか…』
渋い顔をする俺にそっとよりかかってくる軽い身体。
『…あの時にはまさか思ってもいなかった。「ここ」が私の帰る場所になろうとは』
『………』
何も言わずそっとその細い肩を抱いて唇を重ねる。
夕陽は残光の朱を置いて、いつしかその身を彼方へと埋めていた。
夜、ホテルのサンルームで4人一緒の他愛のない会話。ガラス張りの頭上には満天の星の川。テーブルの上にはお菓子の山。
ゴンとキルアの冒険談、失敗談、俺達の日常、病院の話、今日の思い出、昔話…談笑は留まることなく心地よく流れつづけていた。ゴンが身振り手振りで話せばキルアがツッコみ、俺が呆れてクラピカは笑い続けた。
『…でね!キルアってば逆に魚に釣られて海にドボン!!』
『もとはといえばお前が急に手え離すからだろうが!!』
『だって俺の竿も引いたんだもん』
『お前ら…意外とチームワークなってなかったんだな…』
『そんなことないよお、レオリオ』
『こら、クラピカ!そんなに爆笑してんじゃねえ!!』
懐かしい空気、暖かい空気、ずっとこのままでいられたら…それだけでいい、たった、それだけでいいのに…。
目尻が熱い。慌てて『薬をとってくる』と俺は席を立つ。その背中にはしゃぐゴンの声が聞こえた。
『でもね!ここの海も綺麗だったけどくじら島の海も負けない位綺麗なんだ!そうだ!今度二人もおいでよ!!』
…ゴン達にはクラピカの身体のことを知らせてない。この旅行が終わったら話すつもりだったのだ。それゆえに悪気の欠片もない、素直な言葉。
だが、その純粋な含みとは裏腹に台詞は酷く残酷なものであった。
だが、クラピカは暫く黙った後、ゆっくりと微笑んで、言った。
『そう、だな。楽しみに、してるよ』
…それは、君が、その人生において、たったひとつ、ついた嘘だった。
次の日の朝、俺は君の声で目を覚ますことはなかった。
君はその役目を忘れて、ただただ俺の腕の中で安らかに眠り続けていたんだ…。
それからのことはよく覚えていない。俺は君をそのまま抱きつづけていた。
朝が過ぎて、昼がきても、ずっとずっと、
…せめて、君の身体にわずかに残るぬくもりを逃がさないように。
やがて、何の反応もない室内に心配したのだろう、ゴンとキルアが入ってきて呆然としていた。
そして、ふいに走る、痛み。
ゴンが、俺を殴った。泣きながら、叫びながら、
何故もっと早くに教えてくれなかったのか、と。何故もっと詳しく言ってくれなかったのか、と。繰り返し、繰り返し涙声で叫びながら。
初めてだった、ゴンから怒りを向けられるのは。
俺は何も言えずただその怒りを、痛みを受け止めるしかなかった。そう、身体ではなくココロを殴る痛みに。
キルアはそれを止めなかった。それがキルアなりの怒りだったのだ。
…やがて、ゴンは小さく、本当に小さく礼を言った。やっぱり初めて聞いたゴンの弱弱しい声だった。
『…でも、有難う…知ってたら、きっと、俺、いつもどおりに、できなかった、ね』
そして、泣いた。大声で、既に最後のぬくもりも手放したその身体にすがって。
キルアがそれに背を向ける。でも、広くなったその肩はずっと小刻みに震えつづけていた。
そして、夕方。当たり前じゃない夕方。君はまだ眠りつづけている。
よろりと立ち上がってその枕もとに腰掛ける。ベットが揺れて、君の身体も揺れる。
…なあ、変な味の夕食はまだか?今はあれしか食べる気がしねえんだよ。あれが俺の「当たり前」なんだよ。な、ほら、いいかげん目を開けて、呆れ顔でさ、『何て顔しているんだ』って、
でも君は、答えてくれない。幸せそうに、眠っている。緋の色を隠した瞳を閉じて、口元に微笑みをたたえて、
ぽとり、
その唇に零れる、涙。
ぽとり、ぽとり、
今度は瞳に、頬に、髪に…
雨が、降る。雨が、降っている。
俺の目から、ひとつ、またひとつ、涙の雨粒が、
君を、濡らす。それでも、君は嬉しそうで、幸せそうで…。
何がそんなに嬉しいんだ?
俺は、何もできなかったのに。 俺は、君を救えなかったのに。
『レオリオ、自惚れてはいけない』
…耳の奥に、いつか聞いた君の言葉。
『他人を救う、なんてことは出来ないんだ。そう、神でさえ。』
…そう、だな。全くだ…。 ゆっくりと顔を背ける。君をこれ以上濡らさないために。
その時、揺れる視界に入ったのはゴンの置いた手紙。クラピカからだと言っていた。おそらく夕べ俺が薬を取りに部屋に戻った時だろう。手にとって、封をきる。中にしたためられていたのはたった一枚の飾り気のない便箋。開くと、そこには見慣れた文字。
『それでも…』
そっと、手紙をたたむ。また泣いて、君の言葉を濡らしてしまわないように。
そして君を振り返る。満足げな、君。
しばらく見つめて、ゆっくりを君を覆う、俺。
金色の髪に、そっと口付ける。
続けて額に、深緑の瞳を閉ざす瞼に、白い頬に、細い手の甲に、
ひとつ、ひとつ、 精一杯の愛しさを、こめて。
君が、好きだったんだ。
君の笑顔が、うれしかったんだ。
君がいてくれれば、それで幸せだったんだ。
いつも、言おうと思ってて、でもなんか照れくさくて言えなかった言葉。
ひとつ、ひとつ、伝えていこう、 胸いっぱいの、想いを、こめて。
俺は、笑ってみようとした。でもやっぱりうまくいかねえ。きっと変な顔してるだろ? きっとこれから大変だ。朝は目覚ましで起きなきゃいけないし、昼だってばりばりに働くんだ。夕方には美味い飯食って、夜はあのでかいベットに一人で寝ないといけない。
きっと時には愚痴るだろう。きっと時には泣いちまうだろう。
それでも、俺は生きていくのだ。
いつか、果てしないこの空の何処かで、君が、笑って迎えてくれる日のために。
最後に、微笑みをたたえた唇に、口付ける。いつもの「当たり前」の夜と同じように。
長く、永く…
「…おやすみ、」
君は、やっぱり、微笑っていた。
俺の手の中にたった一つの言葉(こたえ)を、遺して。
『…それでも、お前は、私を救ったのだ。
神でも、他の誰でもない、
たった一人の、お前だけが。』