眠りから覚めたら別の世界だった…。
見た目は同じだが、何かが違う…。
いつも何気なく過ごしている世界は、
時間という縦糸と空間という横糸に、
織りこまれたパラレルワールドなのだ。



赤いボディが潮の香りのする街並みを見下ろして疾走する。ダンとソガが降り立った第四惑星はこんな身近にあったのだ。京浜急行線で品川から特急なら2つ目の平和島駅で電車を降りる。高架下の駅改札口を第一京浜国道側に出ると、巨大な陸橋が視界を遮り、大型トラックの行き交う轟音が響き渡る。ここは都内でも有数の通行量なのだ。東西方向に走る環状七号線を南北に通る第一京浜が陸橋でまたぐ交差点は、トラックターミナルや青果市場などの流通施設が近いため、大型トラックがひっきりなしに轟音をたてて通り過ぎる。信号待ちのあいだですら深く呼吸することをためらってしまうほどだ。
陸橋下の横断歩道で第一京浜を渡り、環七通りを平和島駅に背を向けて歩きだす。すぐに商店街と交わる信号がある。商店街通りは旧東海道で、短い商店街ながらも旧街道の趣きを感じさせる独特の雰囲気を持っている。環七通りを直進すると左右に「海苔」という看板やサインを掲げたビルや商店が目立つことに気づいた。そうこの地は、かつてアサクサノリの最大の漁場であったところだったのだ。
目黒川の河口から羽田の近くまでは浅瀬が続き、海苔の養殖には最適な地形だった。そのため江戸時代から海苔の養殖場として大いに栄え、明治、大正を経て、戦中・戦後と一貫して江戸前の味覚を提供し続けてきたのである。しかし高度成長の波は、東京港の更なる拡充を要求し、陸地に続く浅瀬は港湾用地として全面的に整備がされることとなった。1962(昭和37)年、この地の海苔養殖にはピリオドが打たれ、埋立地の造成が始まったのであった。



しばらく歩くと、目の前に大きな坂が近づいてきた。環七がかつての勝島運河と首都高速1号羽田線をひとまたぎにする長い陸橋だ。かつての勝島運河とは、その一部分が埋め立てられて公園となっているからで、この勝島運河から先が平和島である。勝島は戦前に造成されたこの地区最初の埋立地で、いかにも軍国主義時代らしいネーミングがなされている。戦時中、勝島の南側の浅瀬をかさ上げして小さな島とした。島は四方を塀で囲われ、小さな橋によって陸地と連絡した。島ごと戦時捕虜の収容所としたのである。戦後、その土地は「平和島」と名付けられた。多くの連合軍捕虜が、ジュネーブ条約を理解していなかった帝国軍人の手によって、筆舌に尽くしがたい辛酸をなめたり、非業の死を遂げたりした土地に、である。命名がGHQの指示なのかどうかは不明だが、平和を念じての命名であったと思いたい。ひと気のない休日の平和島には、無機質な第四惑星の面影が感じられる。


首都高速を専用歩道橋で越えると東京モノレールの高架橋が視界を横切る。高架橋の下にたどり着くと流通センター駅である。東京モノレールは、東京五輪の開催に間に合わせるために1964(昭和39)年9月、突貫工事で開業した。モノレールの線路橋は天王洲以南のほとんどの区間が運河上に建設された。開業時期が決まっていたため土地収用に手間のかからない浅瀬や干潟に橋脚を建設したのだ。流通センター駅は、1969(昭和44)年12月に新平和島駅として開業している。したがって、第四惑星のロケが行われた1968(昭和43)年5〜6月頃はまだ陸の孤島だったのである。ダンとソガが立ち寄るガソリンスタンド、アリーの手引きで脱出するトラックターミナルなどの施設が、ダンプ暴走シーンにある区画整理とインフラ整備が完了している風景の中に散在していたのだろう。



                 
                          開通当時の東京モノレール。
                      大井競馬場付近。大井埠頭はまだない。



流通センター駅を右に折れて、高架線に沿って南下する。行く手の左右はTRC(東京流通センター)の建物に囲まれているうえに、頭上にはモノレールの高架橋があって空がひどく狭い。しかしセブンの頃には更地にモノレール高架橋だけが走り抜ける光景だったのだ。
繁栄と共存することが許されない都市の自然、無機質なコンクリートジャングルが茂る寸前の人工的な荒地、生き物を死滅させた後に息吹く新たな生命。支配権をロボットに取って換られた惑星の情景にはうってつけの場所だ。
現在では、物流倉庫が立ち並び、大型トラックが行き交う升目状の街は、表面上は活気がありそうに見える。しかし右も左も似たような風景が続いていて、自分の位置も見失いそうだ。何かにとりつかれたような気分になる。やはり第四惑星の呪縛なのだろうか。生活感のない街というのはどうにも苦手なのである。15分ほどの散策で平和島の南半分を周ったことになる。



首都高速に沿って北上する。競艇場やクア・リゾートのあるレジャーランドと首都高速を隔てて京浜トラックターミナルがある。ダンとソガが、第四惑星人アリーの手引きで死体積車に乗って脱出するシーンが撮られた場所だ。京浜トラックターミナルは、1968(昭和43)年6月に共用が開始されているので、その直前に撮影されたのだろう。拡張された現在では、貨物取扱能力は1日に12,000トンを誇り、トラック物流の中核をなしている。
流通センター駅に戻り、モノレールに乗り込んで浜松町方面に向かう。トラックターミナルの敷地内を走行中、右手にコスモ石油のガソリンスタンドが見える。ターミナルへ集結するトラック専用のようだ。四角い敷地に対して斜めへ向いた給油スタンド。ダンとソガが足を踏み入れたガソリンスタンドにそっくりだ。トラックターミナルは一般人の立ち入る場所ではないのでモノレールからの眺めで我慢する。やがて、大井競馬場、大井埠頭のニュータウンなどを横目に首都高速と並走する。首都高速も運河の上だ。高速道路とモノレール、セブンの頃にはどちらも未来的イメージを象徴する都市景観だったに違いない。モノレールは高層ビルの林立する天王洲アイル駅に吸い込まれる。



            
                   昭和42年ごろの品川埠頭。煙を吐く品川火力発電所。
                    発電所の横の道と橋で結ばれているのが天王洲。



天王洲はもともと目黒川河口部の干潟で、江戸時代末期には第四台場が築造された。近代になってほぼ現在の島形に埋め立てられて物流倉庫として重要な役割を果してきた。1985(昭和60)年になると、民間最大規模の地域再開発事業が始まった。この都市開発事業により、倉庫の街「天王洲」は、親水都市「天王洲アイル」に生まれ変わったのだ。かつての天王洲埋め立て地の構築時に取り込まれていた第四台場は掘り返されて、その石垣は、ボードウォークの護岸として再利用されている。
天王洲アイルには、著名店の出店が多い。モノレール駅やホテルに直結しているシーフォートスクエアには、海原雄山も兜を脱いだ「カニ鍋」を創作した西健二郎さんの名店「京味」(西新橋)が唯一の支店を出している。また、首都高速を隔てたブロックには、松涛の老舗フレンチ「シェ松尾」と邱永漢氏がオーナーとして名を連ねる「天厨菜館」(渋谷)が、悠然と構えている。もうちょっとお手軽にという向きには、イタリアンの老舗「アントニオ」(西麻布)や三笠会館の中華レストランはどうだろう。どちらも運河側に面しているので、気持ちの良いひとときを過ごすことができる。
天王洲アイルのボードウォーク対面に、クリスタルヨットクラブが見える。大型クルーザーによる船上パーティー、とりわけ船上ウェディングに人気が高い。そのクリスタルヨットクラブの背後には東海道新幹線の大井車両基地への引込み線と東海道貨物線の高架橋が横切っている。りんかい線との接続のために造られたモノレール南口出口の辺りから品川埠頭橋を渡り品川埠頭に足を踏み入れる。



品川埠頭は、我が国初の本格的コンテナ取り扱い埠頭として、1956(昭和31)年の東京港築港中長期計画でコンテナ埠頭への整備が決定した。もともと天王洲の沖合いに位置するこの辺りは、隅田川の澪筋の土手にあたる浅瀬だったので、おりから建設が進められていた京浜運河の掘削残土や浚渫土砂などで埋め立てられた。なお、埋め立て計画地内には、幕末に竣工した第一台場と第五台場が含まれていたが、天王洲に取り込まれた第四台場同様に品川埠頭内に陸地化された。第一台場は南埠頭公園の付近、第五台場は東京税関の海寄りの辺りである。セブン放映の1967(昭和42)年に、コンテナ埠頭は完成し、北米西海岸との定期航路が開設された。以後船舶貨物はコンテナが主流となったため、品川埠頭とこのクレーンは貿易ニッポンを支えた功労者といえるのだ。現在の東京港には大井埠頭や青海埠頭にコンテナバースが造られており、海上から望むとクレーンの林のようだ。



品川埠頭を見て廻る前に、湾岸地域でのロケシーンを確認しよう。
湾岸地域で撮影されたと思われるシーンは以下の通り。

@ ダンとソガ、造成地に降り立つ
A ダン、モノレール高架橋の前
B ガソリンスタンド
C 巨大なクレーンのあるコンテナ埠頭(曇り)
D 赤電話(曇り)
E 交通事故
F コカッコロッ署長登場
G ダンとソガ、連行される
H 見張りの脇を走り去るジープ
I 総合センター外観
J トラックターミナル(夕方)

これらのシーンにはある特徴がある。天気である。ほとんどは晴天の下で撮影されているが、CとDは曇っている。つまり、平和島と品川埠頭は、別の日に撮影されたと考えられる。
造成地に降り立ったダンとソガは、ガソリンスタンドで人を見つけて声をかけるが無視される。不可思議に顔を見合わせる二人。次のカットは、巨大クレーンの下に立っている。周りにはコンテナが置かれ、後ろには3本の煙突が重なるように写っている。ここからが品川埠頭で撮られたシーンだ。背景の3本煙突は改築前の旧品川火力発電所。東京湾に対して直交する方向に立ち並んでいた煙突は、ほぼ一線に重なるように撮られている。



海側に目をやると、現在は航空法の規制から紅白にペイントされている巨大クレーンが並んでいる。いちばん南側のクレーンが撮影に使われたものであろう。煙突がほぼ一線に並ぶ場所から最も近いからだ。同じクレーンを撮るのにわざわざ遠くは選ばないと思う。現在、セブンが撮られたであろう場所は、港湾施設用地のため関係者以外の立ち入りは禁止されている。残念ではあるが整然と置かれたコンテナに囲まれて往時をしのぶのも悪くはない。
ところが海の向こうからイメージが捕えられる場所があった。対岸に整備された臨海副都心地域の潮風公園である。臨海副都心地域の西端にあたり東京湾トンネルの出入り口付近に造成された潮風公園は、バーベキュー設備もある人気のスポットだ。そのトンネル排気塔の辺りから対岸を望むと、巨大なクレーンとその背景の新発電所の太い角柱型煙突が目の前に現れるのだ。散策コースからは外れるので何かのついでに立ち寄ってはどうだろうか。



           
               在りし日の品川火力発電所。右下が紅白になる前のクレーン。
               停泊中の貨物船ブリッジの下辺りからだと煙突は直線に並ぶ。



品川埠頭を後に天王洲アイルまで引き返す。再びモノレールに乗り、羽田空港へ向かう。先ほど通った道のりを戻る形になる。大井競馬場駅はその名の通り、競馬場関係者の利便のために造られた駅だったが、今では大井埠頭内に出現した大規模団地「八潮パークタウン」や都内有数のスポーツスポット「大井埠頭中央海浜公園」の玄関口として、競馬開催のいかんを問わず、日々賑わいをみせている。その大井埠頭であるが、セブンの頃には埋め立て造成の真っ最中で、トラックターミナルの横を通って平和島陸橋につながる新平和橋が本土との唯一の連絡橋であった。ダンとソガが降り立ったファーストシーンの泥地。インフラ整備を進めながらの土地造成は、マンホールの地上部分だけが天に向かって口を開いている。周りは広大な更地。区画整理が終わって一部の施設が使用され始めた平和島や既存の市街地と近接している品川埠頭では撮ることはできない画面だ。このファーストシーンは造成中の大井埠頭で撮られたものと考えられる。



                 
               昭和41〜2年ごろの東京湾。大井埠頭が陸地になりつつある。



昭和島を抜けたモノレールは海老取川をトンネルで潜りぬけて再び高架に上がる。沖合移転前の旧空港の頃は、この辺まで来るとエプロンに留まる飛行機が眺められて気持ちが高揚したものだ。高架の整備場駅を過ぎると再び地下へ。トンネル内で新線に切り替わり京浜急行線との連絡駅である天空橋に到着する。訪れた目的は旧羽田空港であるのでここで下車する。地上に上がると空が広い。空港方面にはターミナルビルや滑走路の跡地が広大な空き地となって拡がっている。相変わらず頻繁に離着陸を繰り返す旅客機だが、その姿は遠くなった。旧空港ターミナルビルの跡地には新B滑走路が伸びてきている。もっともオーバーランゾーンとして整備されたので、実際に航空機が近寄ることはほとんどない。



                 



天空橋駅からほど近い橋のたもとに「赤い鳥居」が立っている。旧羽田空港のターミナルビル前にあった穴守稲荷神社の鳥居である。1945(昭和20)年9月13日、進駐した連合軍は、海老取川以東の住宅や諸施設の接収と居住者の強制立ち退きを発表した。羽田空港の拡張工事のためであった。立ち置き地域内には穴守稲荷神社もあり、その門前まで京浜急行線が乗り入れていたが、神社は移転、鉄道は寸断されることになった。しかし神社の鳥居を移動させようとすると、ブルトーザーが故障して立往生したり、作業員が怪我をしたり、不可解な事故が続いたため、放置されることになったのだ。羽田空港返還後も旧ターミナルビル前の第一駐車場にその姿をとどめていたが、沖合展開によって旧ターミナルビルが廃止されて取り壊されると現在地へ無事に移転したのである。



                 
                  旧国際線ビル前辺り。三角形の敷地が第二駐車場。
               奥に見える羽田東急ホテルも新東ターミナルビル内へ移転する。



地下に潜っていたモノレールが急勾配で高架に上がる。その高架橋の高さが平行になる辺り、左手の空港用地へ入る道路跡がある。道路跡は50メートルばかり進むとフェンスによってさえぎられる。第二駐車場のあった辺りだろうか。昔の地図とかつての記憶、そこまでの距離から推測するしか手はないが、それはそれで楽しい推理だ。荒地に目をやると、ほうぼうに草が生えた土地のところどころにアスファルトとペイントが見え隠れしている。忘れ去らないで見つけて欲しいと、華やかな国際空港の玄関を務めたかつての主役たちが主張しているかのようである。

旧羽田空港は、ユシマ博士を迎えに来るシーンが地下の旧羽田空港駅で撮られ、また旧ターミナルビル前の敷地も、フルハシ母や要人の出迎えシーンに登場した。当時の空港自体が未来感覚あふれる場所だったのだろう。



              



赤い鳥居の横に海老取川という小さな川を渡る橋がある。弁天橋、かつての羽田闘争の際、学生デモ隊と機動隊が衝突した激戦地だそうだ。羽田に国際空港があったころから弁天橋を渡った街は時間が停まっている。羽田猟師村の空気が残されているのである。羽田は今も漁民の街である。アナゴ、コハダ、メゴチ、キス、シバエビと、江戸前の味覚を提供し続けているのである。弁天橋を渡ったバス通りを中心に、地物の鮮魚を売り物とする料理屋が目につく。ただしどこも小さな店なので、迷惑にならないように訪れたい。バス通りをしばらく歩いて右折すると京浜急行穴守稲荷駅だ。ここから京急線で京急蒲田駅を経由して京急川崎駅へ向かう。バス通りを走る蒲田行きバスでJR蒲田駅を経由しても結構。ただし京急線のほうが安くて速い。



川崎駅前は大規模な地下街アゼリアが地上のバスターミナルと一体に整備された。京急川崎駅、JR川崎駅ともに一旦地下に潜って、川04系統「市営埠頭」行きのバス乗り場を探そう。バスは川崎駅から市役所や競輪場の前を通って海岸の工業地帯へ向かう国道132号線をひたすらに走る。塩浜で首都高速横羽線・産業道路と交差すると周りは一気に大工場地帯に変わる。大規模な重化学工業のプラントが所狭しとそびえたっている。ニッポンの高度経済成長を支えた京浜工業地帯の中核である。
塩浜の貨物ターミナルと千鳥運河を越えると川崎市千鳥町。バスは直進すると海底トンネルで東扇島へ向かう手前を右折する。この海底トンネルは首都高速湾岸線が空港中央ICから大黒JCまで開通した時から一般車が通行できるようになった。東扇島に造られたICとの兼ね合いである。この湾岸線の部分は一般者が立ち入らない工業地帯を通過しているせいか、その風景に違和感があること甚だしい。特に扇島辺りでは、何度も攻撃されて炎上したテレビの中の工業地帯なのである。
バスを「東芝ケミカル前」停留所で下車する。今走ってきた方向を振り返ると、紅白の煙突が立ち並んでいる。川崎火力発電所の煙突だ。煙突の方向に百メートルほど戻り右の道に入る。左手の敷地は清掃工場だ。その隣に煙突への景観が開けた場所がある。そうここでは、#8「狙われた街」の冒頭、材木置き場で遊ぶ子供たちや暴走するタクシーなどの一連のシーンが撮影されたのだ。当時はぬかるみだった路面も今は舗装されているが、土地の用途は昔と変わらない材木置き場である。なんとも感慨深い。



一旦バスで川崎駅に戻る。というのも次の目的地の浜町へはバス路線の関係からこの方が都合がいいからだ。今度は、川13系統「扇町」行きのバスに乗る。駅から工業地帯へ一直線に伸びるもう一本の道、新川通りをバスは走る。「大島四ツ角」停留所で下車すると、バス停の先にアーチがかかっている左斜めに入る道が見える。「川崎コリアタウン」の入口だ。横浜中華街ほどの規模ではないが、この浜町界隈は古くから在日韓国朝鮮人の居住する地域だった。そのため焼肉店や家庭料理店が商店街に点在している。数年前、町おこしの一環としてセメント通り商店街(これはこれで味のある名前だが…)は、「川崎コリアタウン」を立ち上げたのだ。以来本場の味を求めて広い範囲からお客が集まるようになったという。浜町で撮影されたのは、あのメトロンアパートとその周辺であるが、往時の名残はほとんどない。京浜工業地帯の空洞化に伴って街は住宅街に変貌を遂げつつある。資材置き場にはマンションが建ち、ボロアパートは分譲住宅に建て替わったのである。よってのんびりと本場の味に舌鼓を打って、一日の散策の疲れを癒すのが得策というものであろう。





歩いてみて…。




「第四惑星の悪夢」が主題とした自然破壊や人間至上主義へのアンチテーゼが、そのロケーションをした土地に地縛霊のように取り残されている思いがした。実相寺監督は「東京オリンピックも終わって、高度成長真っ盛りのころでしょう。東京も地方も開発によって姿を変えていく。怪獣っていうのは破壊されていく自然、地に宿る霊がグロテスクな異形に昇華した、そういう気持ちの現われなんですね。怪獣やってると、開発とか自然破壊とか、そういうことが肌身で感じるってことはありました」(実相寺昭雄談、「怪獣に夢を賭けた男たち」、JTB時刻表臨時増刊「それから」より)と述べている。肌身で感じた思いが「第四惑星の悪夢」ラストシーンに表現されたのだろう。しかし解りやすく描かれたラストとは異なり、どちらかというと淡々とカットを重ねていった新興地域の画面に「地に宿る霊がグロテスクな異形に昇華した怪獣」を感じてしまい大きな衝撃を与えられた気分になったのである。










                       



                     セブンを撮った場所  そのA ベイサイド篇
                 09/NOV/2001 初版発行  24/DEC/2001 第二版発行
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セブンを撮った場所

そのA ベイサイド篇
品川駅→平和島駅→平和島→流通センター駅→天王洲アイル駅→品川埠頭→東京モノレール→旧羽田空港→川崎市千鳥町→川崎市浜町→川崎駅