セブンを撮った場所 番外篇



「怪奇な京都を巡る」







04年12月 「怪奇な京都を巡る PartU」



2日目


東福寺→平等院鳳凰堂→萬福寺→広隆寺→仁和寺→
常寂光寺→二尊院→化野念仏寺→平野屋→祇王寺




牧を気取って京を歩く

「怪奇な京都を巡る PartU」の二日目は、いよいよリベン
ジだ。今回は牧のように歩いてみよう。

午前中は、洛南・宇治方面に出張り、午後を嵯峨野にあてる
こととした。
朝の冷た
い空気の下、四条通りをぶらぶらと東進し、京阪四
条駅に向
かった。



東福寺

京阪四条駅から各駅停車に乗り、東福寺駅で下車する。猫の額ほどの狭
い敷地に、
JRと京阪の東福寺駅が肩を寄せあっている。本町通りを南
下して、九条通りの先を左折すると、寺町の風情が開けた。

「東福寺
」は、1255年(建長7年)に、九条道家が19年もの歳月をかけ
て完成させた。寺名は、東大寺のように大きく、興福寺のように賑わう
ようにと、奈良の名刹に因んで命名された。その規模から「東福寺の伽
藍面(がらんづら)」と呼ばれ、京都最大の禅寺として栄えた。

牧と美弥子が歩く廊下は「通天橋」。方丈と開山堂との間の渓谷を渡る
ために架けられた木造の歩廊で、紅葉の名所として知られている。



「東福寺」といえば、方丈庭園も有名である。方丈とは禅寺の
本堂のこと。
庭園は、1939年(昭和14年)、重森三玲によって
作庭された。方丈の四周に配された独特なレイアウトの庭園は
八相成道に因んで「八相の庭」と命名された。

   南庭は、巨石と白砂で四仙島を表わした枯山水。
   西庭は、さつきの刈り込みと砂地で井田を表現。
   北庭は、敷石と群苔を巧みに配置した市松模様。
   東庭は、古い柱石を利用した北斗七星の石組み。

寺の創建された鎌倉時代の質実剛健な風格を基本に、抽象的構
成を取り入れて、古代の宇宙観を表現したといわれている。

  「東福寺」通天橋拝観料400円、方丈庭園拝観料400円






牧と美弥子は渓谷(奥)から方丈(手前)へ
肩を並べて歩いてきた。





「さよなら…、許してください、私は仏像を愛した女なんです。」





別れを告げた美弥子は仏殿の横へ去って行く。





萬福寺

東福寺駅から京阪線で中書島駅へ、ここで京阪宇治線に乗り換えて、黄
檗(おうばく)駅で下車する。駅名は、萬福寺の宗派で臨済宗・曹洞宗
と並ぶ三禅宗のひとつ黄檗宗に由来する。

「萬福寺」は、
1661年(寛文5年)中国からの渡来僧「隠元(いんげ
ん)禅師」により創建された。中国明朝様式を伝える伽藍配置は独特な
もので異国情緒にあふれている。仏像もまた然り。弥勒菩薩の化身とさ
れる布袋像は、日本の仏像イメージとは大きくかけ離れている。なんと
腹を出して笑っているのだ。

笑う布袋様が安置される天王殿で、町田警部らの捜索シーンが撮影され
た。牧が雲水と美弥子の関係を疑う庭は、天王殿の前庭である。独特な
形の敷石は、龍のウロコを表わしているそうだ。


萬福寺」はまた、今日の生活習慣に様々な影響を与えている。
隠元禅師は、いんげん豆・すいか・蓮根・孟宗竹を伝え、寒天の名付け
親とされている。
禅師以降に渡来した僧たちは、胡麻豆腐に代表される中国風精進料理の
「普茶(ふちゃ)料理」をもたらした。煎茶の普及に深く関わった高遊
外(売茶翁)も萬福寺の僧侶であった。


「萬福寺」拝観料500円




「牧さん、何を考えてるんですか?」
 「仏像が、恋人だといった女のことさ」





平等院

黄檗駅から再び京阪宇治線に乗り込み宇治駅へ向かう。駅前から宇治川
に架かる宇治橋を渡れば「平等院」への参道が開けている。


「平等院」は、
1052年(永承7年)の創建で、翌年には阿弥陀堂が建立
された。阿弥陀堂の屋根上に金銅の鳳凰が立てられている。このため阿
弥陀堂は「鳳凰堂」と称される。

「鳳凰堂」は十円硬貨の裏面に、国宝の「金銅鳳凰」は一万円札の図柄
に採用された。牧と美弥子のアップ直前に写るあの鳥である。
近年の庭園改修により創建当時の意匠であった「州浜」が復元された。
このため、撮影当時とは景観が変わってしまった。





仏像の美しさのわかる人だけの都を作りたい…
お分かりにならないでしょうね…、それでいいんです。」






京のたぬき

京阪宇治駅から来た道を引き返す。京阪四条駅で下車し、四条通りを八坂神社方面へ
向かう。ひとつめの信号を左折して縄手通りを上り、一筋北側の通りへ右折する。色
とりどりの行灯看板に囲まれた夜の祇園の真ん中だ。ほどなく右手に大きな赤提灯が
見えてきた。「おかる」と大書されている。

「おかる」は80年以上も続く花街のうどん処だ。仮名手本忠臣蔵「おかる勘平」のお
かるがここに住んでいたことから名付けられた。もともとは、お茶屋への出前専門で
あったため、芸舞妓に贔屓が多い。


東京と大阪の「たぬき」の違いはよく言われていること。
「東京たぬき」は、そばorうどんで、「揚げ玉」が乗る。
「大阪たぬき」は、そばonlyで、「薄揚げ」が乗ったもの、「東京のきつねそば」だ。
「大阪きつね」は、うどんonlyで、「薄揚げ」が乗る。
大阪では、同じ薄揚げでも、「うどん→きつね」「そば→たぬき」となる。
それでは、「京都たぬき」はどうだろう。
「京都たぬき」も「東京たぬき」と同様に、そばorうどんのチョイス。
しかし、乗っているものが違う。刻み薄揚げにあんかけ仕立て、なのである。
「京都きつね」は、そばorうどんで、「刻み薄揚げ」が乗る。
「京都たぬき」は、そばorうどんで、「きつね+あんかけ+おろし生姜」。

「おかる」のこだわりは、出汁と油揚げ。
出汁には、北海道礼文島香深産の最高級昆布を使う。油揚げは、代々つ
きあいのある豆腐屋へ特注した身の厚いもので、時間をかけてふっくら
と炊き上げる。

ほっそりとしたうどんはやわらかく、いかにも京のうどんを食べている
気がする。讃岐うどん以来、硬いうどんが好まれる傾向にあるが、飲み
込む時の喉ざわりのやさしさに、京うどんの醍醐味があると思う。

「おかる」たぬきうどん650
東山区八坂新地富永町132 075-541-1001





嵐山電車

四条通りへ戻り、東へ向かう。鴨川を渡れば四条河原町。地下の阪急河
原町駅から阪急京都線に乗り、大宮駅で下車する。地上に上ると京福電
鉄嵐山本線の四条大宮駅がある。京都に残る路面電車は「嵐電(らんで
ん)」の愛称を持つ。

四条大宮駅と嵐山駅を結ぶ嵐山本線の延長は7.2q。途中、帷子ノ辻駅か
ら分かれて北野白梅町駅に向かう北野線は
3.8q。レトロ車両も走るノス
タルジックなミニ路線だ。

四条大宮駅を発車した電車は、三条口駅までは専用軌道を走る。三条口
駅から蚕ノ社駅の間は、三条通りの路上に出る。蚕ノ社駅手前の路面区
間は道幅も狭く、道路沿いの建物が至近に迫る。周りの車も駐車車両を
避けながら走るため、左右に揺れて危なっかしい。





広隆寺

「広隆寺」は、太秦駅前にある。太秦駅から嵐山方向は一部分路面を走
る。初めて「京都買います」を観たとき、山門前を走る路面電車の画面
は、最後まで残っていた京都市電沿いの祇園八坂神社辺りで撮られたの
だと思った。嵐電の路面区間は知らなかったのだ。

「広隆寺」は、斑鳩の法隆寺や大阪の四天王寺などとともに、聖徳太子
が建立した七大寺の一つである。
603年、渡来人の氏族の長、秦河勝(はたのかわかつ)が、聖徳太子から
弥勒菩薩像を賜り本尊とした。秦氏は、養蚕・酒造・治水に優れた当時
第一線の技術者集団だった。太秦の地名は秦氏に因んでおり、蚕ノ社や
松尾大社なども秦氏に縁が深い。


1951年(昭和26年)国宝第1号に指定された本尊は、正しくは「弥勒菩
薩半跏思惟像」という。
この菩薩像は、ウルトラマンのフェイスデザイ
ンで話題となった「アルカイック・スマイル」といわれる微笑をたたえ
ており、あまりの神秘性に指を折られたこともあった。

三沢が向かう先に見える丹塗りの建物は「赤堂」と呼ばれ、重要文化財
に指定されている。画面では大型バスが横切っているが、当時は重文の
横に、観光バス駐車場でもあったのだろうか。

「広隆寺」霊宝館拝観料600円、境内無料






「京都買います」





仁和寺

太秦駅から帷子ノ辻駅を経て御室駅へ向かう。「仁和寺」のある御室
(おむろ)の地名は、出家した宇多天皇が僧坊(御室)を建てたこと
に由来する。この地で創業したオムロンの社名も地名に因んでいる。

「仁和寺」というと吉田兼好の「徒然草」の一節、「仁和寺の僧」が
思い出される。仁和寺の僧の一人が、当時流行していた岩清水八幡宮
参詣に出かけたものの、岩清水八幡宮が男山山頂にあることを知らず
に、麓の門前町を見物しただけで帰ってきた、という話である。

世界文化遺産に指定された「仁和寺」には、重要文化財に指定された
建築物が数多い。野村がくぐった「仁王門」もそのひとつである。





嵯峨野ふたたび

御室駅から帷子ノ辻駅へ戻り、嵐山へ向かう。ついにリベンジの時はき
た。京福電鉄嵐山駅から歩き出す。今回は「天龍寺」の境内を抜けて、
トロッコ嵐山駅に程近い裏門から竹林の道に至るコースをとる。

「天龍寺」は、1339年(暦応2年)足利尊氏が、南北朝に分かれて政権
を争った政敵、後醍醐天皇の冥福を祈って開創した。伽藍の造営費用を
捻出するために、元との貿易占有権船「天龍寺船」を就航させた。
遠景の嵐山と近景の亀山を借景とした庭園は、夢窓礎石の作。龍門爆と
呼ばれる三段の滝組には、鯉が滝を登ると龍になるという中国故事を形
として表わした。「登竜門」という言葉の発祥である。


竹林の道からは前回のルートをトレースする。
猛暑の夏が続いたこの年(
04年)は、11月になっても暖かい日が多か
った。その分、冬将軍の到来も遅れ、12月中旬のこの日でも、ちらほ
らと紅葉が残っていた。

冷え込んだ昨日とは変わり、この日は柔らかな陽も差している。
こもれ
陽の差す竹林は、穏やかな表情で旅人を迎えてくれた。小雪がちらついた牧
の彷徨とは大違いだ。
竹林を抜け、トロッコ嵐山駅を見下ろす。保津峡に沿う山陰本線の旧線
を活用した観光路線だ。小倉池の水辺を通り過ぎると、農村的な風景が
広がる。変わらぬ風景の中に、常寂光寺の山門がたたずんでいた。





常寂光寺




山門をくぐる牧
「常寂光寺」の鄙びた空気の中で、
あわて仕込んだ和歌の世界に思いを寄せる。
付け焼刃だが、それもそれである。






二尊院




石段を駆け上げる牧

再び登る覚悟を決めた「二尊院」の急石段。
頂上からの眺望は格別。苦労は必ず報われる。





鳥居本の町並み




鳥居本はやっぱりいい。

農家集落から門前町へ、変化しつつ発展して
いった様子が、残る民家の構造からわかる。





化野念仏寺




境内を歩く牧

「化野念仏寺」は変わらない。
無常観のオーラを絶やすことはない。





平野屋



お茶をすする牧

「平野屋」の甘酒は、どこの甘酒よりも疲れを癒してくれる気がする。
二回目の余裕からか、充足した気持ちを反芻できた。





祇王寺




境内への木戸に向かう牧

祇王らの悲哀話を知った今、違った感慨があ
るかもしれないと、入口の木戸をくぐった。

驚いた。
感慨どころではなかった。

美弥子の足元に広がっていた苔生した緑は、
真紅の絨毯に覆われていた。

今年の紅葉は遅かった…。
色づくもの遅かった分、落ちるのも遅かったのだ。



祇王寺は紅葉の名所として知られている。
94年秋の「そうだ
京都、行こう」キャンペーンに起用された祇王寺のコピー。

「…(前略)…苔を一面におおい尽くす散紅葉…その眺めは、
 まるで一枚の絵画のように完成されています。…(後略)…」

一般観光客にはそうかもしれない。しかし「完成された絵
画」では「怪奇な京都」の世界は成立しえないのである。


気がつくと「祇王寺」を走り去っていた。
もちろん頭からコートを被って…。






    

「正蓮尼と申します。須藤美弥子は一生仏像とともに暮らす、
とお伝えしてくれとのことでした。

きっとその方がお幸せだと思います。
どうぞあなた様もお忘れになってくださいませ。






「怪奇な京都を巡る PartV」





         




 「怪奇な京都を巡る PartU 2日目」  17/FEB/2006
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