16世紀に生まれた世界最古のポピュラー音楽とされるクロンチョン。そのクロンチョンの複雑な歴史に関しては多くの書籍、CDなどで詳しく紹介されているので、ここではクロンチョンの歴史や当時のアーティスなど簡単におさらいしてみたいと思います。

クロンチョンの元になるものは15世紀末から16世紀の初めまでの大航海時代に生み出されたようです。当時ヨーロッパで高値で取引されていた香辛料を求めて、ポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマは東南アジアへ進出し、アフリカの喜望峰をまわってインドに至る航路を発見しました。彼の死後その航路は延びてやがてインドネシアに至ります。その船に祖国から持ち込んだ小型のギターを携えました。東南アジアへの航海は半年以上にも及び船員達はいつ祖国へ帰れるか分からない命がけの旅だったようです。

インドネシアを植民地としたポルトガルは1641年オランダとの戦いに敗れ、インドネシアから撤退します。その時に祖国に帰れなかったポルトガル系の子孫が生み出したのがクロンチョンといわれています。彼らはポルトガル人とインドやアラブ系の人々との間に生まれた人たちだといわれます。ポルトガル統治時代のインドネシアには航路の中継地だったインドのゴアなどからの移住者も大勢いました。彼らはカトリックに改宗していたためポルトガルの支配が終わっても故郷に帰れませんでした。この人たちにオランダはプロテスタントに改宗することを条件に滞在を許し町外れのトゥグーに隔離して住まわせました。オランダがマラッカを攻略した際にも負けたポルトガル人達が連れてこられたようです。その子孫が今でもトゥグーに暮らしています。そしてクロンチョンが誕生した頃に結成されたという楽団が今も続いています。当時持ち込むことを許されなかったポルトガルのギターを、トゥグーの人達は森の木をくりぬいて作りました。そして2度と帰れない祖国を思う郷愁をクロンチョンにのせて歌っていたそうです。その最も初期の曲が「クロンチョン・モリスコ」といわれています。これはポルトガル人(当時はアラブや北アフリカを含む多種多用の人種の意味を持つ)の「モリスコ(ムーア風)」という曲が元になっているそうです。やがてトゥグー独自の音楽であったクロンチョンはインドネシア全土に広がっていきます。


トゥグーのクロンチョン楽団

1877ころトゥグーでは近くにタンジュン・プリオクという港ができて、クロンチョンは小さなギターと共に港から港に伝わっていきました。そのトゥグーのクロンチョンは思わぬ所でも花を開かせます。1700年頃トゥグー地区でインフルエンザが流行し、一部の住民は穏やかなクマヨランに非難しました。そこはインド(INDO:インドネシア生まれのオランダ系住民)とよばれる人達が多く住む地区でした。彼らは非難してきたトゥグーの人達と親密になり、たちまち彼らの奏でるクロンチョンの虜になったようです。やがてインド人(オランダ人とインドネシア人の混血)独自のクロンチョン楽団も数多く結成されたようです。そして1920年初頭にはイギリスのエジソン・ベル・ラディオ社によって、クロンチョン・ユーラシア楽団「Kroncong Orchest Eurasia」のレコーディングがなされました。これは世界で最も古いクロンチョン・レコーディングとされています。その他にジャカルタに古くから存在していた中国系の音楽「ガンバン・クロモン」などを取り入れたクロンチョン・ブターウィという雑食性の強い音楽も生み出しました。


クロンチョン・オルケス・ユーラシア(Dunia Musikより)

そしてもう1つはクロンチョンがスタンブル劇団(大衆演劇)の音楽として採用されたことです。劇団員達は地方に巡業しながらクロンチョンを歌い広めていきました。スタンブル劇団の女優はクロンチョンの人気歌手でもあり、クロンチョン・スタンブルというスタイルの曲が数多くレコーディングされています。当時人気のあった歌手としてタンチェン・ボク、ミス・リボットなどが挙げられます。

中部ジャワにクロンチョンが伝わったのはトゥグーの近くにタンジュン・プリオクが出来た頃だといわれています。中部ジャワではガムランの要素の強い独特のクロンチョンが発展しました。1940年にはグサン・マルトハルトノがランガム・クロンチョンの名曲ブンガワン・ソロを歌って大ヒットします。この曲は今でもクロンチョンの代名詞として愛されています。
大らかでゆったりとした川の流れを歌ったこの曲は、実は当時インドネシア国民を苦しめていたオランダ植民地主義の圧制からの独立へのメッセージが込められていたそうです。この曲はラジオを通じて広く知られるようになりました。

その直後日本軍はアジアの独立を旗印にインドネシアに侵攻し、やがて支配下に収めます。そして当時人気のあったサンディワラ劇団を軍の宣伝に利用し、クロンチョンを大衆をまとめる手段としました。そしてブンガワン・ソロを題材にした劇の中でグサン・マルトハルトノの歌ったその曲は日本兵にも愛されました。やがて戦争終了後日本でもブンガワン・ソロはレコーディングされています。このクロンチョンのエピソードはNHKの衛星放送のドキュメンタリで放映されました。


60年代のクロンチョン楽団(ラディオ・オルケス・スラカルタ)

それでは、ここで独立後のクロンチョンについて簡単に追っていきたいと思います。クロンチョンは多民族国家インドネシアの国民音楽として認められました。ラジオではクロンチョン・コンクールがスタートして、人気を集めました。50年代中頃にはクロンチョンのレコーディングもスタートされます。当時発足したイラマ・レコードにはクロンチョン・バンド最初のリーダーといわれるM・サギが、数多くのレコーディングを残しています。歌手ではスハダ、スパルディ、スパルディーニ、ラトナ、カルティニ、アブドゥルガーニなどがあげられます。そしてイラマ・レコードと双璧をなす国営のロカナンタ・レコードが発足し、アフマッド・ザエラニをリーダーとするオルケス・カルヤ・ナダというクロンチョン・楽団が結成され、数多くのレコーディングを残しました。その後、独立戦争で活躍したルディ・ピルンカディ准将がスカルノ大統領の命を受けて、エバー・グリーンというレーベルで大量の録音を残しています。当時人気のあった若手歌手や一流の演奏家を集め、インドネシア各地の民謡から外国のポップ・ソングまで幅広く取り上げた。このレコーディングはステレオ・プレスされ、14枚が日本とインドネシアで発売されました。そして58年頃にはランガム・クロンチョンから派生した、ランガム・ジャワで人気を得るワルジナが登場します。その後、彼女は60〜70年代にかけてロカナンタやエルシンタに数多くの録音を行いました。その当時のランガム・ジャワの代表的な作曲家としてダルマントとアンジェル・アニが挙げられます。70年代に入ると若手のクロンチョン歌手が続出すようになります。その中でもダンドゥット、ポップ・インドネシアなどオール・ラウンドで活躍したヘティ・クース・エンダンが代表的な歌手として挙げられます。今ではクロンチョンは、ヒットチャートにほとんど登場しないノスタルジックな音楽になってしまっていますが、そのメロディーの数々はインドネシアの人々の心に深く刻まれています。最近ではクロンチョン・ビートに様々な音楽要素を混合させて、新しいスタイルのクロンチョン・バンドなども出てきています。


参考資料
Dunia Music Vol.1〜3
インドネシアの音楽/田中勝則 著
クロンチョン入門/オーディーブック

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