「森の灯台」づくりを目指すチャレンジャーへのメッセージ


   森林文化大学(森の灯台)の意義について考える      Fusho OZAWA                               
1.基本として踏まえておきたいこと
 皆様が「森の灯台」をつくろうということで、新しい大学・研究所構想に真剣に取り組んでおられることに心から敬意を表したいと思います。
 大学であれ、研究所であれ、新しいものをつくる、あるいは始める場合、産みの苦しみということは常につきまとうことと思います。 従って、焦らずに十分な論議が必要であるということです。 地域のコンセンサスが不十分ですと長続きもしないと考えられます。
 また、私としては、森林の機能(地球環境、共生機能等) をよりよく発揮すること、これを支える流域、山村、林業、木材産業、国際交流の発展に貢献することをライフワークとしておりますので、地域(流域)の方々が熱意をお持ちであればお手伝いすることについては何ら労を惜しむものではありません。
 しかし、地域にとって負担が過剰になったり、コンセンサスが不十分であるというようなことは避けるべきだというのが私自身の基本スタンスであります。
 別の表現をすればやれることからやっていくということでもあります。
 なお地域コンセンサスがありますと他地域からの応援もし易いということがあります。
 私が現にかかわっております、佐渡林業実践者大学にしても森林塾にしても関係者の熱意と同時に極力自然体で実行しているものであります。
2.中国山地の場合
 そこで御地(中国山地)の場合、屋上屋型ではなく、新鮮なインパクトを与えることができるものがあり得るのかということでありましょう。
 現在、日本列島を覆っている不況、特に林業や木材産業は苦境のまっただ中にあります。
 この問題については即効的な対症療法はもちろん必要ですが、今後の着実な発展を考えますと将来を見据えた抜本的な人材育成や技術開発等が必要であると思われます。
 今後の100年、200年を考えますと、最大の課題は温暖化防止をはじめ地球環境問題に対処あるいは貢献しながら地域文化や地域産業等を保存、発展させていくことではないでしょうか。
 森林文化大学(森の灯台)の話を東京大学及び東京農工大の先生にしましたところ応援してくださるとのことです。
 なお島根大学をはじめなるべく多くの大学の応援を受けた方が良いという意見です。
 つまり多くの大学等の先生を兼務等でやっていただくのが良いということです。
 また、放送大学や他大学での単位取得も認めるようにすると良いでしょう。
 授業や研究スタッフは全国から集まっていただけばよいと思います。
 しかし経営は地域が担うべきでしょう。
 いわゆる公立大というような形でしょうか。益田市が発議者になり中国山地の市町村が中核になり、さらに各地の自治体その他にも出資を呼びかけるというのが新鮮な感じを与えるように思います。
 設置目的を地球温暖化防止と地域文化等の保全というようにしますと、校舎や宿舎等はコンクリート造りはやめて、木造の空き校舎を寄付を受けて移築し、その保存についての研究材料にしながら利用するとか、各地の空き校舎を分校として使いながら、逆に保存のみならず若返りを図るとか、全国に前例のない大学とすることで社会にインパクトを与えることが可能となりましょう。
 演習林も圏域の広大な森林全体を利用する形にするほか出資自治体の山林も活かすようにすれば良いわけであります。
 つまり在来型の学校ではなく、日本の林業改革の拠点になるもの、教育拠点であると同時に流域交流の運動の拠点とするということであります。
 流域内のみで経済や物流が完結していれば別ですが、交流によって発展が実現するものと思います。発想は大きく、しかし地域の手作り型の特徴を出すことによって、全国に影響を及ぼすことができるわけであります。
 もう少し分かりやすくするためには講座名や研究室名を具体的に考えてご覧になると良いと思います。
 例えば、森林政策学、森林環境学、森林生態学などはごく当たり前としまして、森林共生学、地球温暖化防止学、温暖化防止森林整備学、地域文化施設保存学、地域コミュニティ整備学、森林バイオマス活用学、ソーラーシステム住宅建築学、木材リサイクル学等々新鮮な講座をつくっていくのが良いと思います。
 もちろん研究所も国際交流を含む特徴を出せれば良いと思います。
 入学者の条件も、高卒者については普通高校、専門高校を問わず募集するほか、社会人入学を積極的に進めることによって生涯学習大学(学部)の特色を持たせるべきであります。
 3.温暖化防止のための森林系炭素循環システムの構築とは
 地球温暖化防止は非常に差し迫った問題になっていますので、このことにどう対応していくのか、特に森林や林業についてどのような考えに立脚して方策を講ずるべきかについて考え方を整理してみました。
3−1. 日本林業を覆う閉塞感と海外林業の対比
 今の日本の林業関係者は多かれ少なかれ無力感を抱いているのではないでしょうか。
理由は、木材価格の下落とコストの上昇から来る採算力の低下あるいは採算性の喪失という点にあろうと思われます。
 このことは一つの現実として受け止める必要はあっても、果たして日本の林業のみが経験している現実でしょうか。
 近年フランスを訪問した際の体験としては、経営規模の零細性や後継者の不在状況などは同じような話が聞かれました。もちろん木材価格についてはおおよその見当としては日本の半分程度と見て良いと思われました。
 しかし林業に対する取り組みを見る限りにおいて木材生産量は3千7百万立方米あります。森林面積が1千4百万ヘクタールということでわが国の森林面積の六割弱程度にもかかわらず、生産量は日本(2千3百万立方米をかなり上回る状況にあるばかりではなく、間伐や枝打ちなどの森林施業に対する熱意、さらに日本に木材(ダグラスファー)も輸出したいとの意気込みにも並々ならぬものを感じました。
 ドイツでは、森林面積はわが国の約四割、1千万ヘクタール強に過ぎませんが木材生産量はやはり年間3千5百万立方米はあるということであります。
 しかも1990年にはドイツ史上最大といわれる7千万立方米に達する暴風雪被害を受けたにもかかわらず(因みにその翌年わが国の九州をはじめ大規模な台風災害をもたらした平成3年の台風19号等による風倒木被害は約8百万立方米と見積もられています)、素早い対応により、新しい森林経営への道を歩んでいます。
 これらの国の林業でわが国のそれと大きく異なる点は何かといいますと、一つには造林コストの低廉ということであります。フランスでは我々の質問に対して 造林費はヘクタールあたり20万円ないし30万円程度との答えでした。
 ドイツでもヘクタールあたりの苗木の植栽本数が1200本ないし1300本と少ないことに加えて植え付けの能率が1日800本ということで、森林造成コストはわが国に比較して格段に低いことが容易に想像されます。
 このことはニュージーランドのような人工林林業の盛んな国でも同様です。
 もう一つの異なる点は、林地生産性の問題です。ドイツやフランスで聞く限り、ヘクタールあたりの林木の年間成長量は9立方米程度との答えが返ってきます。
 つい最近、この4月10日に東京で開催された、国際林業研究センター(CIFOR)の公開フォーラムでの国際木材貿易機構(ITTO)事務局長フリーザイラー氏の講演の中で成長力の活発な樹種の年間20立方米なり、30立方米なりの成長量に比較すれば熱帯天然林の成長量はヘクタールあたり3立方米に過ぎず、経済的に非常に不利な立場にあるというくだりがあったわけですが、わが国の人工林の成長量も平均的なところで5ないし6立方米程度と見られますので、欧州の林業地より低い状態といえます。
 わが国のヘクタールあたりの造林費の累計は林業白書(平成5年度)によれば平成4年度における造林費は270万円となっています。因みにこの造林費はスギの造林投資の利回り相当率を算出するための基礎となっている数値であります。
 現在の欧州あるいはニュージーランドにおける造林費に近いものをわが国の過去の実績で振り返って見ますと、昭和40年度が18万円であり、昭和45年度が35万円となっているところから、この辺が近いということです。因みに利回り相当率は昭和40年度で6.3パーセントであり、昭和45年で5.6パーセントでしたが、造林費の高騰とともに利回り率が低下し、平成4年には0.9パーセントに低下しまして、以後は利回り相当率算出の意味がなくなってしまったといえるでしょう。
 平成4年の2百70万円を一応日本の造林費のモデルとすると外国での聞き取り調査の10倍程度のコスト格差となっています。
 このようなコスト格差の実態については、最近まであまり論議の対象になっていなかったように思いますが、最近は外国の情報も少しずつ入ってくるようになり、国際比較も可能になってきたところであります。
 したがって、各地域や大学などでも国際比較について徹底した分析や論議が望まれるのであります。
 また外国を訪問して気がついたことは、多くの日本人がぞろぞろと外国を歩いているのにかかわらず日本の林業の行政官も、学者も先進国の林業地ではお目にかかることはできないということであります。
 ドイツの黒い森で有名なフライブルクに参りましてフライブルク大学の教授の自宅に招かれ、そこで聞いたところでは留学生は東大大学院から1名のみということでありました。
 またフランスのナンシー林業大学校ではこの20年ほど日本からの研究者などは来ていないということでありまして、そのくらい研究面における国際交流は不活発となっておりますので、逆に世界各地から日本に研究交流で多くの人がこれる仕組みを作っても良いかと思います。
 ところで、林業経営の困難性を示す指標として、立木1立方米の価格で雇用できる伐木作業員数の推移というのがありますが、平成7年度の林業白書で見ますと、昭和36年では11.8人、昭和40年では7.7人だったものが平成6年には1.0人になったとの資料が掲載されています。
 どうやら日本の林業を産業視点で捉えることができたのは30年前までのことであったとかという思いにとらわれてしまうわけであります。
 過去の林業との比較によって判断しようとする限りにおいて林業について悲観的な見方が増大してきたことは当然ともいえるでしょう。
3−2.環境経済視点と林業
 平成9年12月、気候変動枠組条約第3回締約国会議(条約は1992年5月に採択、同年6月国連環境開発会議でわが国を含む155ヵ国により署名、その後1993年12月までにわが国を含む50ヵ国が条約締結を行い1994年3月に条約が発効、1997年10月までに171ヵ国及び1地域の批准を得ている)いわゆる京都会議が開催され、先進国に2000年以降の数値削減目標等を定めた京都議定書が採択されました。
 ここで決まったことは、ご承知のように、
(1)、2008ないし2012年の平均で、先進国全体で1990年と比較して5パーセント以上の温室効果ガスの削減を目標とすること、この場合のわが国の削減目標は6パーセント。
(2)、1990年以降に行われた植林等による二酸化炭素吸収量を削減目標に加味すること。
(3)、削減目標達成のための手段として、国際的には、排出削減ユニット(先進国間共同実施)、クリーン開発メカニズム(先進国の途上国内削減プロジェクト実施)、排出権取引(国家間排出権取引をとりいれること)、
であります。
 このうち、植林等による二酸化炭素吸収量については、1990年以降に新規植林及び再植林された森林の2008年ないし2012年(5カ年間)における蓄積量増加分から、
同期間における森林減少による蓄積量減少分を差し引いた数値の年平均値で計算されることになり、新規植林及び再植林が林業活動に起因する効果として認められることになりました。
 なお国家間のプロジェクト等についての仕組みの詳細については2000年以降に検討されることとされています。
 ところで、わが国の森林の数値目標達成のための貢献度は議定書に即した林野庁サイドの算定値によれば6パーセントの削減目標に対して僅か0.3パーセントの貢献度であるということであります。
 林野庁の温暖化防止検討報告は近くだされる予定であり、最終的な数値はわかりませんが、0.3パーセントという数値については、森林の機能に大きな期待を抱いていた多くの人たちにとっては、予想外に小さいという印象を与えていることは否めないところでありましょう。
 この点について林野庁サイドからの説明によれば「現状程度の政策努力」を数値算出の前提としているとのことであります。
 一方、通産省サイドの吸収源すなわち森林に対する期待値は3.7パーセントであるということです。
 3.7パーセントの根拠については不明確ですが、先ず林野庁の「現状程度の政策努力」という表現について考えてみますと、現在年間4万ヘクタール程度に低下した造林面積で計算すれば0.3パーセント程度の二酸化炭素吸収力にしかならないであろうということは容易に推察されます。しかし政策視点からの数値として捉えようとすると、これは近年とられてきた人工林化の数値の下方修正による長期的な森林(資源)計画の一貫性を維持したいということのあらわれなのか、あるいはさらに別の理由があるのでしょうか。
 いずれにしても、二酸化炭素の排出削減が、わが国の産業やライフスタイルあるいは諸政策において現状の維持や現状程度の政策努力で実現するはずのないことは、むしろあらゆる人々が承知していることでしょう。
 従って、林野庁の表現はこの際、全国民的な支援があれば森林が相当な貢献可能性を有しているということの裏返し表現と受け止めるべきかもしれません。
 現在、林野庁において学識者による「検討会」も行われていることでありますから、近く国民や林業関係者を納得させることができる結論が公表されることを期待するものでありますが、ここでは環境経済的あるいは林業的見地から若干の考察をしてみることにしましょう。
 持続可能な発展のための経済政策を論じた書として知られるピアスリポートによりますと「資源と環境は経済的機能に役立ち、プラスの経済価値を持つということである。資源と環境をゼロの価値しか持たないように扱うことは、資源の過剰消費という深刻な危険を招くことになる」ということの例としてオゾン層は価格ゼロの資源として扱われたため、これを保護する何らのインセンティブもなかったといっております。
 また「持続可能な発展とは、再生可能な自然資源を消滅させたり、悪化させたり、あるいは将来の世代にとっての自然資源の有用性を減少させたりしないような仕方でそれを利用することを意味する。 、、、、、、、、持続可能な発展とはさらに、再生不可能なエネルギー資源をゆるやかな速度で消耗し、再生可能なエネルギー源への秩序ある社会的転換が高い確率でできるよう保証することを意味する」と述べています。
 ここではもちろん再生可能な自然資源として森林を、再生不可能なエネルギー資源として石油などの化石資源を置き換えても異論を差し挟む人は少ないでありましょう。
 話を林野庁と通産省に戻しますと、森林の効果には0.3パーセントと3.7パーセントという大きなギャップがあります。これを政策的な思惑の違いとして片づけることが不適切であるならば、それはピアスのいう、環境問題につきものの不確実性というカテゴリーに入ると考えるべきかもしれません。
 確かに地球における炭素循環の仕組みが解明し尽くされるにはほど遠いところにいると考えるのが正しいのでありましょう。
 しかし一方、現在の地球環境の悪化状況は誰の目にもかなり歴然とした形で映りだしている以上、政策決定に躊躇できない状況にあるということが京都議定書にも反映しているわけであります。
 とにかく人間は、産業革命以後化石エネルギーの大量消費、しかもこの百年間で60倍増というエネルギー消費行為を行ってしまったのであります。
 これを押し戻すということは並大抵のことではありません。
 従って森林政策や林業に関連する環境政策として次のような事柄が真剣に論議されなければなりません。
 例えば、化石エネルギーに代えて再生可能な木質エネルギーへの転換を図ることの是非を論じることが必要であります。現実にはドイツあるいはフランスではかなりの量の薪等の燃料利用が行われております。
 ミュンヘンで開催された林業機械展示会を見ましたところ大小さまざまな薪割り機械が出品されていました。
 ところで、炭酸ガスの吸収源としての森林機能の増大策にはどのような手法が考えられるでしょうか。
 このような観点から、最近、森林の高蓄積高循環政策論が浮上してきています。
 しかし高蓄積高循環はかなり以前から私も提唱してきたところであります。手元の資料を見ましたら昭和58年に研修用テキストとして私が執筆した文章に次の表現がありました。すなわち、わが国森林の目指すべき方向として「森林の有する各種の機能を調和的に発揮する森林とは高蓄積であって、かつ生育の循環が良好なもの、これを高蓄積かつ高循環な森林と呼ぶこととするが、この条件を具体的に満たす森林が複層林タイプの森林であるといえる」ということであります。
 また平成8年に東大出版会から上梓しました「森林持続政策論」の中で、「林分立木の高蓄積状態を維持しつつ、木質資源の循環についても極力高度に行うことにより、国土環境ひいては地球環境の保全に貢献しつつ、林産物の育成供給に携わる林業の活性化を図り、森林山村地域社会の発展に資するため、わが国の森林施業に高蓄積持続高循環施業を定着発展させるため、、、、、、、、、投資経済的意義と同時に、その技術的側面としての施業管理的考察を省くわけにはいかない。高蓄積持続高循環な森林経営は、施業方式からいえば、長伐期施業と複層林施業の組合せあるいは複合ということができる」と述べておりますように、高蓄積高循環森林はカーボンシンクとしての機能を高めながら、エコマテリアルとして認識すべき木質物質など林産物の供給に貢献する持続型の森林を指しております。
 ところで一般の理解としては、複層林というと専ら国土保全などいわゆる森林の公益的機能面に着目した施業方法と受け取る向きが多いようでありますが、私が複層林施業の必要性を提唱した小論文(森林コンサベーションNo.7)では昭和53年に遡ることになりますがそこでは次のように述べています。
すなわち、「 最近、森林所有者には長伐期への志向が強く、このことは森林の木材生産機能において、フロー及びストックが相互に自在であるという特性を活かし、森林の長期的整備と併せて、需給の短期変動に備える備蓄効果の発揮を期待できることから、これを計画的に助長する政策が必要であるが、この場合、単純な長伐期移行政策を取らず、一部上木の伐採を行い、併せて後継樹の植裁を進める必要がある。特に供給力が急激に増大する現五齢級以下の森林については、一部長伐期移行を図るとともに併行的に樹下植裁等を行い複層林形成を促進する必要がある。このような考え方は森林資源整備の長期計画として確立されることが好ましく、今後の我国の森林整備は段階的に行われるべきであると考える。
 従って、我国戦後の主として生産力の向上を指向する森林整備の大プロジェクトである拡大造林政策を第一期の整備段階とすれば、森林の公益機能をより高め、かつ木材の供給面でも弾力性を付与する事を目標とする第二の整備段階に進むべき時が、今正に到来しているといえる。
 森林整備のための施業方法については充分な検討を必要とするが、主たる方向としては複層林の形成に力点を置き二一世紀を目指すニュー・グリーン・プロジェクトとして推進されるべきものと考えられるのである」ということでありました。このような状況はその後20年を経過した現在も変わっていないということになりますが、当時の5齢級は現在では9齢級になりますから、次世代の森林整備への機は完全に熟しているといいましても過言ではありません。
 また高蓄積高循環林や、複層林の発想はわが国のごとき国土が比較的狭小な地域で森林の面的拡大に制約の大きい国や地域において有効な施業方法であるといえます。
 ところで京都会議における、温暖化ガス(わが国の場合大部分が二酸化炭素とされています)削減目標の設定及び、森林による吸収量の加味という結論は林業にとってもその位置づけに大きな価値転換をもたらすことになります。
 つまり木材の生産とは二酸化炭素を原料とし「炭酸ガスの缶詰」をつくる地球温暖化防止に貢献する環境産業であるということになります。
 このことに関連して、NIRA研究報告書「地球環境政策のあり方に関する研究」の中で、「熱帯木材が貿易で取引される場合には、木材が二酸化炭素を吸収しうる財であることから、本来は木材で家を建てることができるといった価値とともに二酸化炭素の吸収という熱帯木材に内在する価値も取り引きされることになる。しかし、この二酸化炭素を吸収できるという木材の価値が現在の木材価格の中に評価されていない場合には、二酸化炭素による地球温暖化という社会的ロスが貿易に伴って、何らの対価なしに国の間を移動していることになる等の問題も考えられる」という記述がなされています。
 このことは国産の木材についてもいえることであります。また従来から森林の有する公益的機能について、その外部経済価値の内部化を図るべきであるとの声が強かったところであります。しかし木材については経済財としての見方をされてきたため、もちろん近年は林業、木材関係のかなりの人々が、「木」はエコマテリアル であるとの主張を展開して来たところではありますが、「木」そのものが外部経済価値の内部化の受け皿であるとの認識が薄かったといえましょう。
 一方、二酸化炭素の排出量削減方法については、前出、「地球環境政策のあり方に関する研究」によれば、一つには、直接的規制があります。例えば自動車の排ガス規制などのほか、二酸化炭素排出量の多いエネルギー利用からそれの少ないものへの強制的な転換も考えられますが、公害問題などのように地域に限定される場合は可能性が高いといえますが、温暖化問題のように非常に広範囲な地域をカバーする必要がある場合は排出量の割り当てなどが難しいというデメリットが考えられるといわれています。
 これに対して、経済的手法として、税・課徴金、排出権売買などがあります。
 先ず、税・課徴金ですが、自然環境の使用料徴収の方法として自然環境を利用する経済活動に課税することであります。つまり社会全体から見た場合、環境悪化という費用が組み込まれていない生産費に自然環境の使用料を加えることによって全体として適切な費用に調節することになるというものであります。
 これを地球温暖化についていえば、今まで二酸化炭素の放出量が多いエネルギー原が費用が安いからという理由で使われてきたとしても、この費用の安さは地球環境の悪化を引き起こす費用をカバーしていなかったということでありますから、課税することにより経済的に割の良いエネルギー源とはならなくなり、使いすぎが改められことになります。
 つまり化石燃料に課税することは化石燃料に依存している産業から、化石燃料非依存型産業への転換を促すことに通じます。
 次いで排出権売買について述べると、「国全体でCO2排出総量を先ず決めた上で、排出総量に等しいだけの排出許可証を政府が発行し、CO2を排出する石炭、石油、天然ガスの生産者または輸入業者は、それらを販売するに当たって、あらかじめ炭素含有量に等しいだけのCO2排出許可証を政府から購入」するということになります。
 また、具体的に進める場合は、排出権市場を創設するということになりますが、この場合総排出量を制限し、その範囲の中で各経済主体に排出権を配分し、その売買を認めることでこれまで取引の対象とされていなかった排出を市場経済の枠組みに取り入れようとするものであり、直接的な規制と経済的な手段を組み合わせた考え方となっています。
 ところで、課税あるいは排出権売買のいずれにしても問題点を抱えています。
 課税については、最適税率の設定が困難、税収確保のための税率変更、徴税費用、経済成長・インフレへの弾力的対応力の疑問などのほか、途上国の税制を含めた検討が必要であるほか税率が汚染排出量当たり世界共通であるべきであること。もしそうでなければ、低税率の国に公害企業が集中することもあり得ます。炭素税論議も盛んですが、この導入に際しては世界一律でなければ資源配分に歪みが生じるのではないか、すなわち税率の高い国においては原料ないし製品価格の上昇から国際競争力が低下します。また税率の低い国へ資本の移動が生じることになります。結果的に高税率の国では、二酸化炭素の排出量は低下すると考えられますが、雇用機会の減少を伴うことになりましょう。税率の低い国では雇用機会は増加しますが二酸化炭素の排出量も増加し、世界全体の排出量低下にはつながらないということになります。
 また一方、同一税率は所得に対して逆進的になるため途上国にとって負担が大となり受入に困難性が生じることになります。
 なお産油国は石油需要の減退を招くとの理由で炭素税の導入には反対の立場に立っています。
 また産炭国は炭素税の導入が行われると石炭の消費減退や貿易収支の悪化を懸念する立場から温暖化対策に消極的ともいわれていますが、むしろ産油国については、油田から天然ガスの採掘も可能であり、石炭から炭素含有量が少ない天然ガスへの転換が起これば産油国にとっては利益につながることでもあり、温暖化経済対策の産油国に及ぼす利害得失については必ずしも明確なものでないといえます。
 炭素税導入の是非論等については「地球温暖化を防ぐ」(佐和隆光、岩波新書)に詳述されているところでありますが、経済の自由化、国際化を是認する立場に立つ場合は、今後の地球温暖化防止策を経済的措置に力点をおいて進めることは妥当なところでありましょう。
 もちろん炭素税も経済的措置の一種であり、その代表格といえるものであることから関心も高まってきているところであります。
 さて排出権市場については、メリットとしては、排出総量のコントロールが可能、量規制であるため経済成長やインフレの影響を受けない、排出権の売買によって排出権の配分が効率的に行われるなどがあげられる一方、デメリットとしては、総排出量の大きさの決定が困難、排出権自体は市場を通じた効率的配分が可能であっても直接規制であるため生産量が社会的にみて最適かどうかは疑問、排出量が規制されるため経済的な状況により価格の乱高下が生じやすい、排出量が規制値内におさまっているかどうかのモニタリングが困難などがいわれています。
 要するに炭素税の導入と同様に、排出権市場の創設も一国で行った場合、国際貿易や投資行動などに歪みを起こさせる恐れがあるため、国際的に行うことが好ましいといわれています。
 実施に当たっては、総排出量の規制水準の決め方、どう世界に配分するか、配分後の規制量の遵守の担保措置、排出権市場が機能を発揮できるかなどの課題が指摘されるところであります。
 さらに排出権の売買を通じて所得の移転が、例えば先進国から途上国へというように生じますが、この場合、相対的に排出権を豊富に持つであろうと考えられる途上国が排出権を希少資源としてカルテルをつくり、価格をコントロールして排出権市場の効率性を損なう恐れがないかなどの問題も指摘されるところであります。
 以上のほか経済的措置として助成措置があります。これは外部性を内部化する手段として良く用いられる手法であります。プラスの外部効果を内部化するための補助金はピグー補助金と呼ばれることがあります。
 もう一つのタイプの補助金は、環境汚染物質の排出に対して課税するのと、環境汚染物質を排出しないことに対して補助金を交付することとは外部性の内部化ということでは同じ効果をもたらすということから支持されるものであります。
 なお補助金については各種の論議があり、「地球温暖化の経済学」(天野明弘、日本経済新聞社)には、OECD理事会では例外を除いて、補助金が一般論として汚染者支払い原則と両立せず、経済的に非効率的な状況を導きやすいとして、活用を勧告すべき経済的手段からは意図的に省いているとのことです。一方、補助金の有用性も一般に認められているところでありますから、今後、補助金については個々の内容について論議が深められることになりましょう。
 3−3.経済的手法の具体例
 外国における事例

 1990年から1992年にかけてスウェーデン、フィンランド、ノルウェー、デンマーク、オランダの5カ国が炭素税の導入に踏み切っています。
 税率、税の使途等には違いがありますが、いずれの国も増減税同額の税収中立を原則としています。
 従って炭素税の導入と同時に法人及び個人の所得税減税も行われています。
 減税面では、例えばスウェーデンとノルウェーでは、鉄鋼、紙・パルプなどのエネルギー多消費型産業についての税の減免措置が講じられています。フィンランドでは風力発電等は非課税とされています。
 製品に対する税・課徴金としてはベルギーにおける使い捨てのカミソリ刃に対する課税、カナダの一部における再生紙利用に対する低税率適用、トルコにおける環境浄化税などがあります。エネルギー関係ではオーストラリアにおけるガソリン税の引き上げ、英国でも数年にまたがるインフレ率を上回るガソリン税の引き上げ表明などがあります。
 分野別にみると、税・課徴金のうち水質保全分野では、ドイツやオランダでの排水課徴金の事例があります。対象となるのは科学的あるいは生物的汚濁、重金属であります。
 大気保全分野ではスウェーデンの窒素酸化物排出課徴金はボイラー等の固定発生源からの窒素酸化物の排出を抑制するために実施されています。フランスでも大気汚染物質排出課徴金があります。課徴金の使途は75パーセントが賦課対象者の大気汚染防止施設の設置補助及び関連研究開発に、残りの25パーセントは大気汚染監視網の整備に充てられています。
 この他、スウェーデンでは国内航空機に対する環境税が排気ガスの減少を目的として課されています。
 廃棄物分野ではデンマークにおける廃棄物税があります。これは特定の規制があるものを除き埋立及び焼却処分される廃棄物の重量に応じて課税されます。この結果、廃棄物の量的減少と再利用される廃棄物が増加したほか、建設廃材などの道路工事での埋込材としての活用が進んだといわれています。イタリアではプラスチック製買い物袋に市場価格の200パーセントの課税が実施され、消費量は20ないし30パーセント減少したが、消費者の買い物袋の経済的な使用方法に関する消費者の関心が高まるとともに有機分解が可能な買い物袋に関する研究が加速されることになったといわれています。
 排出権売買についてみると、米国では1992年大気清浄法の改正により酸性雨の防止を目的とした排出許可量の売買制度が導入されています。内容は全米の各発電所のユニットを対象に、二酸化硫黄の排出量の削減目標を定めていますが、各発電ユニットに配分される排出許可量は売買可能であります。と同時に政府は排出量のモニタリングを行っており、排出許可量を超えている場合には課徴金が課されることになります。また米国にはオゾン層破壊物質の低減を目的としたフロン、ハロンの製造権及び消費権に係る売買制度が見られます。製造権は1986年の製造量に基づいてこれらの製造者に付与され、消費権は、製造者及び輸入業者に割り当てられています。
 デポジット・リファンド制度の分野についてみますと、この制度は、潜在的に環境への負荷を有する製品にデポジット(預り金)を課し、当該製品ないしその廃棄物が適切に返却されたことにより、環境への負荷が回避されたとして払戻金を支払う制度であのます。OECD諸国では、飲料容器についての実施が多く回収率は80パーセント程度といわれています。使い捨て電池、農薬などにも導入例があるほか、スウェーデンでは自動車の不法廃棄を抑制するため、新車購入時に基金に対して一定額を支払い、定められた手続きに従って廃車を行うとその際に基金から払い戻し行われる仕組みであります。払戻額は廃車に要する費用を上回るように設定され、本制度の有効性を高めているといえます。
 アジア諸国でも関心が高まりつつあるが、事例は少ない状況です。例えばデポジット制は、韓国、台湾で実施されていますが、韓国での回収率は僅か0.2パーセント、台湾でのペットボトルの回収にデポジットシステムを導入し、4年で60パーセントの回収を目標としたところ、3年で41パーセントの実績をあげたとのことであります。
 日本における事例
 わが国における経済的手法の具体例は少ないというのが内外の認識であるといえましょう。
 この理由はわが国の環境政策が公害防止対応に出発点があったため規制的な手法が環境政策の中心となったとの説明がなされています。
 少数ではありますが事例について紹介しますと、先ず硫黄酸化物排出に係る課徴金制度が工場・事業場を対象に硫黄酸化物の排出量に応じて賦課金を徴収するものであります。
 ついで、航空機の重量及び騒音レベルに係る課徴金が空港特別着陸量の徴収を通じて行われています。これは航空機の重量と騒音の度合いに応じて料率が定められ、収入は航空機騒音の防止費用等に充てられています。
 この他、地方公共団体のゴミ収集手数料の事例があります。具体事例は北海道伊達市で容量40リットルあたり60円で、市指定のゴミ袋あるいはゴミ処理券を貼付したゴミ袋で平成元年より導入したところ実施前途の比較で37パーセントの減量効果が認められた。
 島根県出雲市では40リットルあたり40円、減量効果は平成4年の初年度で17.1パーセントであったということです。
 愛知県守山市で昭和57年から従量制の実施をしたところ導入前との比較で最高59.5パーセントの減少効果が認められたということであります。
 課徴金タイプの手法に比較するとわが国では助成的措置が多く行われています。公害防止用設備に対する減価償却の特別措置、低公害車への移行促進措置として一定の基準を満たす車への買い換えについての減価償却の特別措置を認める方法が採られています。
 3−4.地球温暖化防止時代の林業とは  
 森林系炭素循環システムの構築

 地球環境時代あるいは地球温暖化防止時代という言葉が意味するように、これからの時代は世界全体で対策を講じていく時代であるということであります。
 つまり好むと好まざるとにかかわらず国際的な共通項が増加し、国際的な基準やバランスの中での産業活動やライフスタイルが要求されるということであります。
 京都会議以後のわが国の林業の対応にも当然このことを念頭に置いて対応する必要があります。
 以下今後わが国の林業の目指すべき方向や課題について述べてみたいと思います。
 このまま二酸化炭素をはじめ温暖化効果ガスが増加した場合、どのような状況が予想されるかということについてはあらゆるところで語られているので繰り返し述べる必要はあまりないと思いますが、共通認識として持ちたいことは、いわゆる中位予測では、百年後の紀元2100年時点(送っていただいた社説では2010年となっていますが、書き間違いです)はで地表の平均気温の2度上昇ということがいわれています。世界人口の見通しについて見ますと、中位推計では、2100年に125億人に達し、その後は115億人程度でほぼ静止人口に達することになります。もちろん高位推計では2100年に190億人を超え、2150年には280億人を超すということでありますが、中位推計値以下に止まることを期待しつつ考察しますと、21世紀の百年が非常に重要な期間であることが認識できます。この百年を乗り越えることによって人口が静止状態から減少傾向に転じてくれれば地球環境の持続に希望も出てこようというものであります。
 一方、地球の温暖化は人口増加が仮に百年後に止まり、二酸化炭素等の排出増加に歯止めが掛かっても、大気に比較して約千倍の熱容量を持つ海水温度の上昇は時間的な遅れを伴って上昇することになるから気温の上昇に慣性効果を及ぼすとともに海水面の上昇も続行すると推定されるので地球環境の悪化はその後2百年ないし3百年程度継続すると見なければならないところに厳しさがあるわけであります。
 IPCCの中位予測では2100年で気温が2度上昇ということでありますが、森林に関する影響度は2度であっても植生変化等かなりの影響を及ぼすことになり、2100
年以後も気温上昇が継続することは避けられないわけでありますから、さらに1度上がって上昇が3度ともなりますと、わが国の植生分布は緯度方向に5百キロメートル、垂直方向に5百メートル移動するといわれていることから、現在の生態系そのものが根本的に破壊され、移動してしまうということになります。
 従って、今後温暖化防止に努力を集中する必要がありますが、ポイントはもちろん産業革命以後に出現した化石エネルギー利用の節減による温暖化ガスの増加を防ぐことであります。
 同時に代替エネルギーの開発利用が必要になります。代替エネルギーという話になりますと、どの本を開いて見ても原子力発電、太陽電池に風力利用という展開になっています。
 この際、森林を中心に据えた炭素循環を強大化する、すなわち森林の拡大あるいは高蓄積化によるカーボンシンク機能の増大、さらに森林の高循環化により木質系資源(森林バイオ資源)の徹底利用を図る必要があることについてやや詳しく述べておきたいと思います。なおこの循環を「森林系炭素循環システム」とここでは呼ぶこととします。
 先ず高蓄積化の問題ですが、先述した慣性効果の問題も含め今後数百年間を見通した温暖化防止努力を継続しなければならないとしても、百年後には人口増加も停止する可能性があり、温暖化防止対策も作戦が立てやすくなるとの期待がないわけではないので、先ずこの百年間に政策等の効果がでるかどうかが鍵となるものでありますから当面の百年間がもっとも重要であると考えられます。
 つまり今後の百年間、森林のカーボンシンク機能を高めながら林産物の高度(濃密かつ長期)利用を図ることを真剣に追求するときが来ております。
 わが国の場合、2千5百万ヘクタールの全森林のうち人為コントロール可能な人工林が1千万ヘクタールあることがカウント可能な戦力して期待できるのであります。
 1千万ヘクタールの持つ意味は、世界の中で中国に次いで、米国及びロシアと並んで2位グループを形成する地位にあり、今後急速に増加する各国の人工林管理の指標となるような目標意識を設定しつつ経営していく必要があります。
 二酸化炭素の吸収力のみを考えますと短伐期型の森林経営が良いという話が早くも出現しそうでありますが、わが国の場合は地力の減退等不確実な要素もあり、現在まで育成されてきた人工林を中心にしかも長伐期型複層林手法(間伐多用型)を基本として温暖化防止対策を考えていくことが適合していると考えます。
 この場合、長伐期型複層林の森林施業について上木(残存木) の二酸化炭素吸収力の低下を防ぎ成長の持続を期待できる密度管理、適正枝葉着生量を求める技術対応が必要となります。
 同時に間伐(受光伐を含む)の大量実施が必要となるため、生産流通体制の整備が必要であります。
 関連して木材等の高度利用の問題でありますが、大径材については大型木造施設等に利用可能な資材として活用すべきであり、先述しましたようにもっとも重要なこの百年をターゲットとすることにして、木材の利用も百年以上の長期的カーボンシンクとして位置づけることを目標とすべきであります。
 高度利用にはもう一つの側面があります。それは、従来の木材利用に加えて樹皮及び枝葉に至るまでの百パーセント利用方式の定着を図ることであり、これの徹底は再生可能つまり二酸化炭素原料資源の活用につながるもので、燃料等熱源エネルギー分野においても是認されるべきものでありましょう。
 ただしこれまでの間、森林破壊が現実問題として特に熱帯林に多く発生してきましたため、木材利用そのものが地球環境維持になじまないものであり、エネルギー利用などは論外と考える人も多く存在すると思われますので、行政当局をはじめ関係者による森林持続の定着政策の早期実現及び適正な利用についての啓発活動を活発に行う必要があろうかと考えます。
 さらに木造建築物等における木質物の長期利用後のリサイクル手法としては、これを解体後、建築等への再利用とともに炭化して森林土壌に戻すなどの循環についても「森林系の炭素循環システム」の基本形として整理し、実行体制を整えることが重要であります。
  3−5.新しい出発に向かって
 さて「森林系炭素循環システム」の構築の必要性及びその概要について述べましたが、これを一言で要約すれば、「間伐やリサイクルという小循環を行いながら長伐期型複層林施業を基本形とした長期持続型の森林経営、プラス、森林から供給されるエコマテリアルの長期利用を核とする複合型長期大循環システム」ということになるでありましょう。
 一方、化石燃料及び化石資源製品の利用の縮小を図るということは温暖化防止の観点から見れば理にかなっているといえましょう。
 しかし問題はここから始まるといえましょう。
 なぜならば、先ず森林系において、京都会議のルールは森林による二酸化炭素の吸収機能については1990年以後の新規植林、再植林による実績で評価することになりますが、複層林施業における植栽については再植林として正規にカウントされることにななっているのかどうか明確ではありません。
 しかしここでは、この方式を是とする前提で論を進めることとします。
 現在のわが国の森林の成長量は年間7千万立方米とされているが、この数字は平成2年から7年までの5年間の蓄積増加量3億4千5百万立方米から年平均値を算出すると6千9百万立方米となります。6千9百万立方米のうち人工林の成長量は5千9百万立方米で総成長量に対し85パーセントとなっています。すなわちわが国では、面積的には森林全体のうちの41パーセントの人工林が森林の成長量の点では主たる役割を果たしているということになります。
 そこで、次に森林の成長量と二酸化炭素の吸収量との関係ですが、6千9百万立方米の成長量をもってしますと、わが国で排出される二酸化炭素のうち8パーセントを吸収する能力を持つということでありますから、1パーセントの吸収に対応する成長量は8百62万立方米ということになります。
 これは人工林何ヘクタールに相当するかといいますと、わが国の人工林1ヘクタール当たりの年平均成長量は5.65立方米ですから、この数値を元にして算出すると、152万ヘクタールの植林地で1パーセントの吸収効果があるということになります。
 国土保全その他の観点から皆伐を避け、複層林方式で対応しようとする場合、植栽木の成長状況は皆伐方式に比較して若干低くなるものと推定されるので、成長量を仮に皆伐方式の7割として算定すれば、2百17万ヘクタールの複層林造成(移行)で1パーセントの二酸化炭素吸収力があるということになります。
 従って4百34万ヘクタールの複層林造成が行われることで、2パーセントの吸収効果が発揮できるということになります。
 もうすこし地味の良いところを選定する、あるいは植裁木の成長を高める方法を選択することによって、さらなる効果を上げることも可能でありましょう。
 平野部の休耕地等に植林をすればとの声もあるが、これは新規植林ということになり、ヘクタール当たりの年間成長量を仮に9立方米(ドイツやフランスの林業地帯での聞き取りではこの程度の数字となっている)とすると百万ヘクタールの森林造成で1パーセント強の吸収効果が生じることとなります。もちろんこの場合用地の確保が可能か否かは明らかではありません。
 さらに天然林における人為努力による吸収効果の増大方策もあり得るわけですが、効果の数値的把握が不確実であるので今後の研究課題ということになりましょう。
 こうしてみると、森林の整備は二酸化炭素の吸収に大きな効果を有していることが分かります。
 しかし一方、現在のわが国の状況から見て、数百万ヘクタール以上の森林整備を短期間で行うことについては巨額の資金や多数の労力投入を必要とすることから、従来型の政策や技術体系のままでは達成が難しいということになります。
 技術体系一つをとってみても、丁寧植え、多数本数植栽、下草刈りなどの濃密保育方式など、わが国独自型ともいえる造林、育林方式は国際的な見地からの見直しが必要でありましょう。
 労力問題にしても、山村地域の過疎化は若者どころか、ベテランのインストラクターなどのリーダー層の弱体化減少をも一般化してしまったところであります。
 一方、本論の冒頭でも述べましたように都市部等からのボランティア参加の増加及び技術力等の向上が明らかに認められる段階に到達しつつあります。
 この際、温暖化防止等森林施業の目的を明確にすると同時に、施業インストラクターや施業技能認定等資格付与(温暖化防止森林管理士など)を併せた人材育成を大規模かつ広範囲に展開すべきであります。
 現在のわが国の大学はこのような、実践的な技術者養成には不十分な態勢にあることは否定できないと思われますのでこれらを是正していく必要があります。 
  むすび
 ここ30年ほどのわれわれ自身のライフスタイルを振り返ってみますと、余りにも化石燃料エネルギーに依存していたことは事実でありましょう。
 木を燃すことには後ろめたいものを感じても、火力発電、ジェット機、自動車の利用にはあまりためらいを感じない生活を繰り返してきた人々は多かったことと思われます。
 今後は、省エネルギー生活を心がけると同時に、非化石燃料系エネルギーの選択の時代に入ることになります。
 現在わが国のエネルギー供給はその87パーセントを石油等の化石燃料が占め、残りの13パーセントを水力や原子力エネルギーに依存しているところでありますが、非化石エネルギー系の、原子力、太陽光発電、風力、水力などに加えて森林系エネルギーの選択の時代になると予想されます。
 森林系エネルギーとしてはバイオマスエネルギー利用の他、従来型の薪炭としての利用もあり、森林の成長量をフルに利用すればかなりのエネルギー供給が可能であります。スウェーデンでは総エネルギー供給のうちバイオマスエネルギーの比率が17.9パーセントを占めるといわれています。 このほか小水力発電なども開発の余地があるところであります。 今後どのようなエネルギーが伸びてくるかということになりますと、いろいろな条件がありますが、大きなファクターの一つに、供給コストの問題があります。
 エコマテリアルとしての木材の供給にしても同様、国際レベルでのコスト競争にさらされながらの道を歩むことになりましょう。
 さきに述べたように、炭素税や温暖化ガス排出権の売買市場の実現などの可能性も高まっていますが、これらの地球環境に関連する経済的政策は最終的には国際性を持つということであります。
 従ってわが国の林業もさらに環境経済との関係が深まることを考えれば、独自の道を歩むということは、その存在意義の重要性とは関わりなく、あり得ないわけであり、国際経済動向をクールに踏まえた行動が問われるのであります。
 同時に関連する技術体系の整備についても国際的な視野に立脚した開発や人材育成の方向性が重要となるのであります。
 もちろん日本の森林を特徴づける地形の急峻性などの固有の条件はありますが、これらの問題については、まさに公共投資政策の範囲においてインフラストラクチャー整備を行うことも必要なことであります。 一方、林業経営あるいは関連産業についてはあくまで経済行為として捉えて行くことも重要な課題であります。
 近年、ベンチャー産業に関する話題や政策論を聞く機会が増加しています。
 めまぐるしく変動する経済条件の中で長期的な経営を必須要件としている林業は、過去におけるような着実な努力があれば結果がついてくるというような状況とは異なり、リスクもあるがエコマテリアルやバイオエネルギーを供給して地球温暖化防止にも貢献するという人類の期待を担う夢のある産業でもあるということ、すなわちベンチャータイプの産業であるとの認識を関係者が持つことが必要な時代に到達していることを強調しておきたいということであります。 このような新たな観点からの、人材育成機関や研究機関、さらに具体的な行動の必要性が生じて来ております。
 誰かがやってくれるだろうと考えるという時代が終わり、自分がやらなくてはという自分自身の行動が問われる時代が始まっているのではないでしょうか。
 
    (以上) (平成10年5月1日記)


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