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人生名言集
その一
「一日讀書せずば口中荊棘(けいきょく)生ず」
安重根
「感想」
今回は私の居間兼書斎であります部屋の壁に掛けてある写真の石碑から選びました。この石碑は10年近く前、私が韓国のフリーパック旅行に参加した折にソウルの「民族独立記念館」(?)の前庭において撮影したものです。安重根(アンジュゴン)はご存知のようにハルピン駅頭で明治維新の元勲であり、当時の朝鮮総督府統監であった伊藤博文を狙撃、暗殺した人物です。彼は暗殺犯として大日本帝国により旅順監獄において処刑されましたが、非常に信心深いクリスチャンだったそうです。この石碑の文面は獄中で書かれたものです。「一日讀書せずば口中荊棘(けいきょく)生ず」と読み下すのでしょうか。荊棘とは「いばら」のことでしょう。私はこの漢文が好きです。日頃読書をするといっても実につまらない本を読みながら視線を上げてふとこの文章を眺めると何か恥ずかしい気持ちがしてまいりますから不思議です。浅学非才と知りながら五十の手習いということも考える今日この頃であります。2000年11月7日
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その二
戦前の思想家であり革命家であった北一輝は二・二六事件の首魁として処刑されましたが、この遺書は処刑の日の朝に書かれたものだと言われています。文字通りの絶筆です。遺書の宛先は一人息子の大輝になっています。処刑を前にしながらのこの我が子を思う気持ちには万人の胸を打つものがあります。しかしながら大輝は北の実子ではなく実は辛亥革命において斃れた中国人革命家の遺児であり、北が養子として引き取ったのでした。北は最後まで自分の実子として大輝を育て真実を打ち明けなかったそうです。代々木の銃殺場で同じく首魁として銃殺された弟子の西田税から「天皇陛下万歳を三唱しましょうかと」と問われ「私はやめておきます」と応えたと言われていますが、この一輝と大輝との間にはどのような親子の相克があったのでしょうか。昔、読んだ本であり題名も忘れ記憶が曖昧ですが、息子の大輝は父親が刑死した後に初めて自分の真実の父が誰か聞かされたそうです。そして、大学に進学しながらも性格がねじくれて終戦直前〈直後?)に中国の上海で窮死したそうです。北一輝自身が二・二六事件の実行犯グループである青年将校たちと面識はあってもまったく事件の謀議にも参画していなかったわけですから、もし生きていれば大輝も違う人生のコースが歩めたかも知れないがような気がしてまいるから不思議ですその三
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父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
円谷幸吉
「感想」
陸上自衛隊の円谷幸吉三等陸尉は東京オリンピックにおいてマラソン第3位となり銅メダルを獲得した。それから4年後昭和43年1月9日、彼は2通の遺書を残し、右頚動脈を切って自殺した。一通は体育学校関係者への謝罪、もう一通は両親にあてたものだった。享年二十七。この遺書は両親宛ての遺書である。この遺書を読んでも何故円谷幸吉が自殺せざるを得なかったのか誰にもわからないであろう。ただこの手紙を読むたびに円谷幸吉の近親者に対する深い愛情に感銘を受けざるをえない。彼が自殺した1968年(昭和43年)はまさに日本が高度経済成長のさなかにあった年である、この年を境にして日本はゲマインシャフト(血縁共同体)が崩壊していったのかと思わせるインパクトがこの遺書には秘められている。故郷・親族・血族・父・母・兄・姉などという言葉が濃密な意味合いを持っていた時代の挽歌のようにも思えてくるから不思議である。「ぬくみのある家庭」というものの実在をこの遺書は逆説的に我々の眼前に提示してくれるのである。まるである時代の崩壊を告げる白鳥の歌のごとき美しい遺書である。なお、今も彼の故郷の福島県須賀川市においては「円谷メモリアルマラソン大会」が開催されているという。
おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ
木村久夫
木村久夫。一九四六年五月二十三日、シンガポールのチャンギー刑務所にて戦犯刑死。京都大学経済学部卒。木村陸軍上等兵が処刑半時間前に書き残した遺書。享年二十八。木村久夫は冤罪であることは間違いありませんでした。この遺書は太平洋戦争中に学徒出陣した大学生・専門学校生が残した遺書の中では一番有名ではないかと思います。この短歌形式の中に残された言葉のもつ意味は何に憤怒を訴えるでもなく何の不満を呈するでもなく淡々とした死の境地に赴くある種の日本人の諦観の如きものが溢れ出ています。そして赴くところはやはり国家でもなく宗教でもなく同胞でもなくただひたすら母であるところに万人の涙を誘うものがあります。このような世界観の元に多くの若者がほんの60年前に死んでいったのです。平和を享受することに倦むなということです。