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ジンタとは何か
私は昔からずっと「天然の美」という曲の別称だと思っていた。
それが正しいのかどうか私は未だによくわからない。
広辞苑にも「ジンタ」の項は残念ながらないのである。
しかし,ジンタも天然の美も思い出の深い曲である。
「天然の美」は私が幼い頃夕陽の射す部屋で何故か父親が一人で唄ってこの歌を私に覚えさせようとしたと記憶している。
この記憶が定かかどうかさせ自信がないがこの歌詞よりも哀愁を帯びたメロデーィが何か自分のその後の人生を規定しているような気もしてくるのである。
曖昧とした記憶の断片から蘇ってくるのは取りとめもない思い出であり思い出というものは何故か哀しくそこはかとない甘さを漂わしているのである。
隣の市に木下大サーカスまたは木暮大サーカスが来て父に連れられてっそれを見に言ったときに青空に様々な風船が飛び交いその夢のような雰囲気の中をクラリネットが吹く哀愁を帯びたメロディーが流れていたような気がする。
すべての白く光るミルク色に輝く思い出のようでこう書きながらなぜか涙腺が緩んでくるのが50台を過ぎていこうとしている証拠なのか。
近頃は21世紀になっているというのに、40数年近く前、本当に3歳か4歳の頃、誰か近所の子どもと近くの畑に生き畑の人参を抜いてそれを生のまま齧ったという記憶が蘇ってくる。
どうしてそんなことをしたのかどうしても理由がわからないのである。
すべてが自分の儚い記憶のせいなのか、または映画で見た1シーンを思い出して書いているのか正直まったく自信がないのである。
人はどうしてこのようなつまらぬことを憶えているのか。
「ジンタ」を聞くたびに流離の運命というものを感じてしまうのである。
2001年10月5日
海の匂い
私は瀬戸内海の港町で少年時代を過しました。
小学生の頃はよく仲のよい友だちと小さな港へ自転車で遊びに行ったものです。
港は内海航路の定期船が行き来していました。
定期船は小さな浮き桟橋に停泊しています。
そしてその浮き桟橋を囲むように堤防が左右に湾曲して延びておりその先の外海に出る先端に白い灯台と赤い灯台がありました。
今思い出しても何か映画の一画面をみているような風景でした。
浮き桟橋に立つと、いつも定期船のペンキの匂いや漁船の魚の匂い、潮の香りがしていました。
私はその浮き桟橋にある船の錨や綱を掛ける背の低い鉄柱に腰掛け海を見ていました。
きっと海の向こうには自分の安住の地があると文字通り子どもの夢を描いていたのです、小さな定期船が出航する時には合図の銅鑼がなり「蛍の光」のメロディーが流れてきました。
私は哀愁を帯びたそのメロディーにいつも心を奪われていたのです。
海は私の閉ざされた心を見知らぬ土地に誘う唯一の回路だったのです。
ベタ凪に脱出したしこの港町
きっと私は無意識のうちにそういう気持ちでいたのです。
少年の頃に胸に描いた甘美な夢は実現しました。
しかし、今は海のない町に住みいつも海がある町に住めば多少は心も安らぐのにと思っている次第です。
2001年9月29日
初原の記憶
人間の初源の記憶というのはいったい何なのでしょうか。
自分にとってもっとも旧い記憶は道路がありその端に3本の幹の高いポプラの木がありその下をバスが走っているという光景です。
バスはボンネットが前にせり出ている旧式のバスですがこれが坂を登って行くのです。
この光景が先日書きましたピオネールの少年たちと何か因果関係があるのかどうかよくわかりません。
人は永遠の心の故郷を求めて世界を放浪するそうですが、私にとって、この3本の幹の高いポプラが立っている場所が私の心の故郷なのでしょうか。
そう書きながら少し思い出してきました。
近くに川があってその上に鉄道の鉄橋がかかっていてその上を父と歩いた記憶が蘇ってきました。
しかし、その記憶とポプラの記憶がまた同じ土地なのかどうかも定かではありません。
昔,家族に冗談でお前は橋の下で拾われてきた子どもだとよく言われました。
冗談だと書いていますが、私には今でもそのことが心の奥底に致命的なトラウマとなって残っている気もしてきます。
ただ、そのことさえも夢のように思えてくるようになりました。
15歳頃から30歳直前まで眠っているとよく「金縛り」にあい、体が動かず、窒息しそうになって、自分の叫び声で目覚めました。
どうして30歳を過ぎて「金縛り」が消えてなくなったのかよくわかりません。
それにこのことが先刻の件と何か関係があるのかどうかもわかりません。
人生は謎の如きものに溢れているとしか思えません。
2000年11月5日
遠い大地
思い出というものはいい加減なものです。
原寸大に過去を語る芸当なんて到底できるものではありません。
どこかに他者に対する詐術があり、困ったことに自己に対する無意識の詐術まであるのです。
そのような美化された過去の代表として私の中にあるのは、白樺の並木道をトボトボと歩いていると向こうからやって来たピオネールの少年たちが私に向って手を振り、その赤いネッカチーフがやたら眩しく秋の陽に輝いていたという光景です。
もちろん私は一度もピオネールの少年と出会ったことはありません。
しかし,その光景だけは私の頭の片隅に強固に残っています。
もしかしたら、幼い頃の映画か小説の中で見たり読んだりしたのかもしれません。
または,夢の中で見たのか定かではありません。
まさか、私が旧ソビエトの賛美者だとお思いの方はおいでにならないとは思いますが、いつも不思議なほどこの光景が脳裏に蘇ってきます。
一度も行ったこともない見たこともない光景を生き生きと思い出すというのも考えようによっては何か気持ちの悪いところがあります。
また、その光景がまるでソビエトのプロパガンダ映画のような光景であることも自分で不思議に思います。
別にこの場でソビエトを賛美したり非難したりするつもりはありません。
しかし、心のどこかに何か郷愁の如きものを感じさせるものがその光景には確実に存在しているような気もいたします。
小学生の低学年の頃、川に近所のガキ連中と蟹を取りに行き、バケツに蟹を沢山取ってきた日に近所のおっさんに「そんな殺生したら蟹が化けて出るよ」と冗談半分に言われましたが,その夜、私は家の二階の屋根に巨大な蟹が両手の挟みを広げながらゴジラのように吠えている夢を見ました。
また、母親に連れて行かれた映画館で「化け猫映画」を観た夜、自分が連絡船の後部デッキに立って船のスクリューが立てる波しぶきを眺めていると船の後ろから猫が泳ぎながら追いかけてくる夢をみました。いつも微熱で体が熱くなっている線の細い少年でしたが、この二つの夢とピオネールの少年の夢はまったく異質です。
それが不思議なのです。
この夢と関係があるのかないのか,自分自身、わかりませんが、いつの日か、時間と金があれば、ハルピンや大連に行きたいと思っています。
2000年10月28日
赤色エレジー
人生はなんでこんなに重いのだいと思っていたのが十代の頃、自分はなんて不幸なのだろうと思っていたのも十代の頃、シベリア帰りの三波春夫の「ちゃんちきおけさ」が流行したのは、私がまだ十代になる前だったのか。
ラジオから流れる「ちゃんちきおけさ」を聴きながら我が貧しさを嘆く少年だった。
「月がわびしい路地裏の屋台の酒のほろ苦さ」という歌詞を口ずさむとあのころは日本中が路地裏だったような気がしてくるから不思議なのだ。
日本の近代最後のゲマインシャフト的関係性がまだ人々の間に存在していた頃なのか。
田舎の映画館は芝居小屋の名残があったし、家の前には喜捨を乞う虚無僧が立ち、夏の夜には近所の家の前の道路に縁台が持ち出されガキ達が将棋の指導を大人たちから受けていたりした。
近所には「乞食」という仇名の「おっちゃん」が住んでいた。
奥さんには、どういうわけか逃げられ廃品回収をしながらのその日暮し。
その廃屋のような家には厚い眼鏡をかけた息子が一人いた。
私よりよほど年上だったが、夜、私がその家の前を通ると破れ障子の内側から聞きなれないラジオ放送が聞こえて来た。
その息子が英語の放送を聞いていたのである。
貧乏から脱出する為の手段としての英語なのだ!
ある日、近所のガキ達と一緒に遊んでいると叫び声のようなものがするのでみんなで駆けつけてみると、その息子が廃品だらけの庭に仁王立ちとなり長い青竹で、身をかがめた「おっちゃん」の背中を、思い切りしばいているのである。
「お前はそれで俺の親父か」と何度も叫びながら、青竹がしなって「おっちゃん」の背中を打つ。ガキ達は全員凍りついたようになってしまった。
あれから40数年たつ。
あの息子は今どうしているのだろうか。
「貧しさ」から脱出したのだろうか。
もしかしたら、どこかの町の路地裏の屋台で一人「ちゃんちきおけさ」でも口ずさんでいるのか、それとも、アメリカあたりで生きているのだろうか。
あの時のあの息子の憤怒は何なのだったのと今は考えてしまう。
現在、自分は豊かなのか貧しいのか多くの人が自問自答する時代となったが、絶対にあのような貧しさに戻ってはならないと思う。
昔はよかった式の発言をしている奴は人生が成功したとてめえで思っている連中にしか過ぎない。
そのことを忘れて何か偉そうに言っている連中はみんな間違いなくペケなのだ。
先日、会社の同僚に誘われ久しぶりに酒を飲みカラオケに行った。
そこで久しぶりに懐かしい歌を唄った。
誰も自分の下手な歌を聞いていなかったけれど。
「愛は愛とてなんになる、男一郎まこととて。幸子の幸はどこにある。男一郎ままよとて・・・」
この歌が自分の現在の感性に一番あっている気がするのだ。
いつの日にか確実に来る自分の葬式の時にはあがた森魚「赤色エレジー」でも流そうかという与太話で今日はおしまい。
「赤色エレジー」歌詞の最後は「お涙ちょうだいありがとう」
2000年10月16日