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「耳をすませば」を見て

・・・崩壊せしものへの郷愁・・・

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まえがき 

このHPの「たそがれ日記」200424日(つまり昨日)をお読みいただいた方は私がテレビ会社から依頼された仕事でアニメ映画「耳をすませば」を二度ビデオで見たことはご存知だと思います。

アニメ映画を見るのは私としては何十年ぶり(?)のことです。

覚えている限り小学生の頃からアニメ映画として見たことがあるのはウォルト・ディズニーの「ピノキオ」「白雪姫」「ダンボ」東映映画「白蛇伝」ATG作品「カムイ伝」(監督 大島渚)くらいです。

当然、過去三十年近く、春休みに上映された東映マンガ映画祭り(?)の諸作品も「鉄腕アトム」も「ガンダム」も宮崎駿の作品も見たことがありません。テレビアニメは何度かいい加減に流し見(?)したことはありますが。

そういう意味ではまったくの白紙で「耳をすませば」を見ました。見終わってある種の感動を覚えました。

この感動のよって来る由縁は何かをこれから語りたいと思います。その大前提として私はこの作品を他のアニメ作品と較べて論じるとかプロデューサ―である宮崎駿や私の知らないこの映画の監督を中心に論じることはできませんし、する意志もありません。そのことをまずご理解ください。

★ 「耳をすませば」は奇妙なほどにノスタルジックな映画です。

映画の途中まで見ながら私はある種の既視感(デジャヴュ)にとらわれました。それはこの映画がまったく時代・背景も違う筈なのに1950年代の家族や少年・少女を描いている感じがしたからです。主人公である高校受験を控えた月島雫の家族の姿を見ながら「つつましく、仲良く、ひたむきに生きている家族」というある意味で定型的、紋切り型の表現を思い出しました。

1960年代、1970代以前、つまり日本経済の高度成長以前には、こういう家族が私の周囲にも確かにいたのだとという想いが私にはしてきます。この映画を製作した人たちもそういう思いでこの「家族」を創り出したのかもしれません。

★ 「携帯電話」登場以前の「現代」も既にノスタルジックです。

携帯電話の登場が私たちの日常生活を変えました。「耳をすませば」には「携帯電話」もそれ以前の「ポケベル」も登場しません。登場人物の会話は正常に普通に行われます。この作品は1995年ですからかれこれ9年前になります。私のような年齢の者(現在56歳)でなくとも現代の小学生や中学生が「耳をすませば」を見てもある種のノスタルジーに襲われるのではないでしょうか。  

今日常生活において携帯電話を用いて生きている小学生や中学生が見ればこの映画はある意味で「かったるい」、ある意味で「携帯電話がない時代があったのだ」という意味において「ノスタルジック」な映画になるかもしれません。現代のマッハ的な(?)時が過ぎるスピードであれば充分ありうるのではないかと思います。

★ 親和力としての「聖家族」

主人公の月島雫は家族四人で狭い公団住宅(?)で生活しています。

父親は県立図書館か市立図書館の司書をしています。母親は以前に職についていたのか定かではありませんが、現在、大学院の修士課程に在学しています。姉は大学生で家を出て塾の家庭教師をしながら自活していこうと考えています。そして高校受験を控えた主人公の中学三年生の月島雫。

経済的な問題はほとんど画面に登場しませんが、父親一人の収入で生活しているわけですから階級的に言えば「中産階級の下」ということになるのでしょうか。それにしても経済的には実に厳しいものがありますが、これは月島雫が父親に図書館までお弁当を届けてあげている場面などで表現されているのかもしれません。

今度は学歴的に見てどうなのでしょうか。これは父親も母親も大学を卒業していることが何となく類推されます。

月島雫が小説を書くのに熱中して夕ご飯を食べなくなった時、父親が「夕ご飯くらいは一緒に食べよう。家族なんだから」と言う場面があります。

ここに現在という時代から見ると強烈な「家族の親和感」が表現されています。この家族には家族の間に必然的に起こる「精神的抑圧」というものが希薄です。

映画に登場する抑圧の場面をあえて指摘すると父親が食卓で煙草を吸おうとして母親の批難のまなざしによって静かに注意される程度です。この父親がベランダに出て「ほたる族」になるようなことは決してないでしょう。

同じようにこの家庭には「離婚」「家庭内別居」「家庭内暴力」「ひきこもり」などの現在問題とされているあらゆる問題が存在していません。それはきっと製作者の頭の中に「あるべき家族」の理想像というものがあってその鋳型に一人一人を放り込んだからかもしれません。それゆえ家族の関係性が実に無矛盾的であり、家族の登場する画面からはまるで静止画像を見ているような動的ではない「ほのぼのとした暖かさ」が漂ってきます。

その意味からも今様々な問題を抱えて悩んでいる具体的家族の一員(すなわちあなたや私などの観客)からするとこの映画は「失われた聖家族」を描いていて実にノスタルジックに見えるかもしれません。

       親和力としての「人間関係」

 団地の階段を月島雫やその家族が上がり降りする場面が数カットでてきます。この場面では必ず月島家の人々は階段で擦れ違った隣人に挨拶します。これを見ただけで私は旧きよき時代という想いを私は持ちます。

また中学校の教室における真面目に授業を受けている生徒の姿や数学の先生が「この問題は中間試験にだすからね」という言葉に「オー―」と抗議(?)の声を上げる生徒たち。

これもまた「かくあるべき学校」の姿というものを描いているのような気がします。

その決定的な場面が保健室(?)で女性の先生と月島雫の仲間たち四人が一緒にお弁当を食べて仲良く話をしている場面です。

私は現在の中学校を知りませんが、思わず「こんなのありかよ」と思ってしまいました。

ここには「学級崩壊」も「非行」も何もありはしません。こういう学校があれば親は喜んで入学させるのではないかと思えてしまいます。

ただしこの文章全般に言えることですが私は何も家族とか学校とかの暗い面を描けと言いたいのではありません。そういうことをやりだすと「耳をすませば」という映画はなくなってしまいます。
また現実とあまりに遊離・乖離しているところに観客はある種の感動を覚えているのかもしれません。

★ 「耳をすませば」における「受験」は刺し身のつま。

この映画では高校受験が主人公月島雫の大きな問題になっているかの如く描いていますが製作者はそれほどこの問題を大きく考えてはいません(?)。

これほど波風の立たない無矛盾的に仲のよい家庭においては問題があまりになさ過ぎます。月島雫と仲良しの原田夕子でさえ「そばかす」に悩んでいる! それで仕方なく外部的な問題として苦し紛れに高校受験を設定したように見えます(笑)。

月島雫は読書好きの少女です。偶然知り合ったボーイフレンドの天沢聖司がイタリアに留学してバイオリン職人になるのだという自分の夢を貫こうとしていることにある感銘を受けます。そして進路を決定できない自分はなんなのだろうかと悩みます。しかしこの悩みはどこか映画を見ているほうからは切迫感がありません。

母親が中学校に進路相談に行き担任の先生と面談します。そこでテストの成績が百番落ちていることを知り驚きます。家族会議(?)がもたれて物分りのよい父親と母親は娘が小説を書いていることもしらずに月島雫が「今やりたいことがあるのでやる」という宣言を認めます。

そして小説を書き終えて月島雫は母親に「ご迷惑をかけました。今から勉強に専念します」と告げます。月島雫は第一志望高校に合格したのでしょうか。

受験の結果は直接映画には出てきていませんがきっと合格したと私は思っています。

ただ映画の中で合格した場面が出たりするとあまりにご都合主義に見え、この映画がもっと軽いものに見える危険があり製作者が抑制したのかもしれません。また不合格だとするとこの映画自体がめざしたものと異なる重さが出てきてしまったので描かなかったのだと思います。

土台、「耳をすませば」においては高校受験はさしみのつまにしかすぎないのですからその結果自体が製作者には関係なかったのかもしれません。

月島雫が三年後に大学を受験したとして東京大学にも合格するでしょう。ほとんど寝ずに小説をかける少女が勉強に集中すれば高校入試でも大学入試でも第一志望に合格します。

映画の主題とは完全にそれるかもしれませんが、受験とは全然関係のないある方向にエネルギーを集中できる人間はエネルギーの総量を受験というベクトルに方向転換しさえすれば必ず成功します。このエネルギー、違う言葉で言えば何事に対してもポテンシャルがない人は何をしても成功しない恐れがあります。こういう人の態度を世間では「無気力」と呼びます。

★ 一点にだけ「現代」が露出している

月島雫と姉は団地が狭いせいで二段ベッドで寝ています。上が姉。下が妹。月島雫は自分がこれからどう生きていけばよいか考えながら上段で寝ている姉に尋ねます。

「姉さん、進路いつ決めたの」と。姉はその言葉を誤解して「あんたは★★高校に進学するんでしょう」と言います。

これに対し月島雫は「違う、違う、これから何をするかということよ」と再度尋ねます。これに対し姉は「それを探すために大学にいるのよ」と答えます。 

註:映画の科白からの引用はそのまま正確に再現していないかもしれません。そのことはご了承ください。)

ただ私はこの姉の言葉に唯一「現代」が露出しているのを感じました。姉の言葉は明治時代以来日本の若者にあった「俺は何をして生きていくのか」「俺は何のために存在しているのか」という哲学的・実存的煩悶の変形バージョンに過ぎないかもしれません。

わかりやすく言えば哲学的煩悶から華厳の瀧に身を投げて自殺した第一高等学校の学生藤村操から現代の尾崎豊にいたるまでを捉えた煩悶が「自分さがし」として存在しているということです。

この一点だけはこの夢のような映画が現実に侵蝕されているように思えました。

      
ニュートラルな性としての「恋愛映画」

 月島雫と天沢聖司はお互いを好きになります。恋をします。ネチネチした恋ではありません。さらりとした恋です。

つまりそこには「性」的なものが不在です。「性」はニュートラルなものとしてしか描かれていません。

一般的アニメ映画を見たことのない私としては「性」をニュートラルに描くのがアニメ映画の定跡がどうか判断する材料がありません。そう描くことによって恋愛が美しいものになると製作者は思ったのかもしれません。

ただそのせいで割を食ったのは野球部の好少年「杉村」君。私はこの映画を見ながら「杉村」君が登場するたびにハラハラしました。

月島雫の友人の原田夕子に好意をもっている野球部員がいます。この少年は画面には登場しません。この少年が原田夕子にラブレターを書きこれを原田夕子に手渡し返事を聞くのが「杉村」君の役。

実は原田夕子はその杉村君に好意をもっていますが打ち明けられません。原田夕子はその杉村君への好意を親友である月島雫に打ち明けます。

ある日、月島雫は学校の近くの神社で原田夕子の気持を杉村君に打ち明けます。ところが杉村君が実は好意を持っていたのは月島雫に対してだったのです。

この乱れた人間関係(笑)の中で割りを食ったのはかわいそうに杉村君。

神社の前で月島雫に自分はお前が好きだと告白し、杉村君は月島雫の細い腕をグッとつかんで迫ります。

しかし「杉村君のこと好きだけど、友だちだから」と拒絶されます。

この場面が唯一の身体的に異性同士が接触する場面です(?)。しかし、杉村君の迫力は実らず。この映画を見ていた男性は杉村君におおいに感情移入し、女性は原田夕子に感情移入するかもしれません。

土台、世の中に多いのは月島雫でも天沢聖司でもなく杉村君や原田夕子なのですから。

天沢聖司が月島雫の教室に訪ねて来るシーンでは同級生たちがひやかす場面で私は思わずしょんぼりとした顔をした杉村君の顔を見て「オーイ、杉村、元気を出せ、人生はこれからだ」とエールを送りたくなりました(笑)。

しかし、十年過ぎれば杉村君も月島雫に対して恋愛感情を持っていたことを忘れているかもしれません。こういう人間関係がさらりと描くことができるのもこの映画が「性」をニュートラルに描いているからでしょう。

 

★ 郷愁としての青春

月島雫のボーイフレンドの天沢聖司は天沢医院の末っ子です。母方の祖父がいます。この西司郎という老人は「地球屋」というアンチーク店(?)を営んでいます。

ドイツに在住していた時に知り合った女性と恋をしますが戦争のために再び逢うことはありませんでした。その話が劇中劇としてチラッと出てまいります。 

それは「男爵」と呼ばれる猫の置き人形の存在を明らかにする導入部にすぎません。

しかし、この老人の存在がこの映画をいっそうノスタルジックなものにしています。私はこの映画を見ながらふとこの映画のすべてはこの老人の視点から語られているのではないかというある意味での錯覚に陥りそうになりました。

戦争のために恋人と再会できなかったという悲劇をこの老人は歳月が過ぎていくうちに咀嚼し諦観し享受していきます。

そしてこの老人が淡々と思い出し淡々と月島雫に語ることによって私たちこの映画を見るものにとってその悲劇性がいっそう高められているように思えてきます。

青春という言葉はすべて「崩壊していったものへの郷愁」なのだということを私は強く感じました。

      才能というものの悲劇性

西司郎は月島雫が書いた小説を読んで「あなたの原石を見せてもらいました。これからあわてず時間を掛けてその原石をしっかり磨きましょう」と言います。これに対し月島雫は「自分は書きたいという希望だけは駄目でもっともっと勉強しないと」と答えます。

またバイオリン作りをめざす天沢聖司は月島雫に
「自分には才能があるのかどうかわからない」と言います。この謙虚さと不安が入り混じった言葉として「その程度なら他にもたくさんいるよ」という言葉が映画の中で繰り返されます。

ここにこの映画のメッセ―ジが集約されている感じがします。私はさきほど月島雫は東京大学程度なら合格すると書きましたが、彼女が本当に小説を書きつづけるのか、また天沢聖司が本当にバイオリン作りになれるのか全然見当もつきません。そこにはいわゆる「受験」でよくいい加減に使う「才能」というものとは全く異なる「才能」というものが必要なのでしょう。

この映画の中で最も苦い真実はここにあるのでしょうがもちろん映画の中ではこの問題には深入りせず巧みに回避されています。製作者としてはそう創るしかなかったのでしょう。

       比喩としての坂道,夢としての結婚

この映画の舞台は東京周辺の坂の多い街になっています。「坂の多い街」というのは設定自体が「人生」の比喩になっているのでしょうか。

ラストシーンで天沢聖司が自転車に月島雫を乗せて丘に向い急勾配の坂を登ります。この場面には二人が手を携えてこれからの人生をがんばるんだぞという製作者の主人公二人に対する応援のエールが聞こえてくるようです。

最後に天沢聖司が月島雫に結婚しようとプロポーズしますが、月島雫はそれに対し肯定的にうなずきます。

この場面では結婚という言葉はほとんどリアリティはなくただ二人の「夢」の比喩になっています。

これが「時代性」も男女の「性」も排除した青春映画の基本なのでしょう。

あとがき

見終わって猫の「ムーン」がキャラクターとしては面白かったとも言えると思います。小学生や中学生が親と一緒に見るのにはいい映画だと思います。ただ小学生や中学生が現在抱えている悩みの解決にはならないと思いますが。

私も昔の中学生の時代を思い出して懐かしくなりました。 私はアニメ映画をこの歳になってほんとに久しぶりに見てそれこそ感動しました。その想いをこの文章に書きました。

           200425日 管理人

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