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親十戒

第一戒 汝 子どもの躾を放棄するなかれ

赤ん坊は生まれてきた時は単なる動物にしか過ぎません。
呼吸をし、母乳を飲み、排泄行為をし、泣くだけです。
しかし、まず、母乳を飲みながら自分を守ってくれる人がわかります。
つまり、母親の如き者、がいるということを本能的に悟っていきます。
次にただ芋虫のように這うしか出来なかった赤ん坊が、だんだん直立して歩くようになっていきます。
しかし、これは生物的な進歩であり精神的な進歩とは違います。
物心つく頃から、例え、言葉はわからなくとも、父親・母親が愛情を持って躾をしていかなくてはなりません。
私たちの廻りの大人の世界にも年齢の割に実に我儘な鼻つまみ者という人がいます.
これは、私の考えでは幼い頃に親からの躾をまったく受けなかった人としか思えません。

親も自分の行動から見直しましょう

ところが問題なのは今の世代の親は自分の父親や母親から厳しい躾を受けなかった人が多いのではないかということです。
躾を受けたことのない子どもが今度は親になって子どもを躾ることはかなり自分でも意識的になさねばなりません。
いっとき、「ニューファミリー」という言葉が消費文化の定着とともに流行しました。
私の解釈によればこの言葉が内包している意味は以下の通りです。


@        みんな仲良くやっていこう。

A        家族は父親も母親も子どももみんな平等だ。

B        家族の誰もが自由に生きることが大切なのだ。

C        親の子どもに対する体罰も暴力も否定する。

こういう言葉は常に美しい響きを持っています。私もこのような主張をする親に出会うと

「こういう考えの父親・母親に育てられるときっといい子どもになるだろう」

と思ってしまうかもしれません。土台、こういう考えを頭から嫌う人はいないでしょう。
しかし残念ながら、躾という一点から考えてもこういう家庭は非常に問題があると思います。
親も子も平等であるという発想は、誰が聞いても正しいように聞こえます。これは

「教室では先生も生徒も平等である」

という考え方とそっくりな考えです。
こういう俗耳に入りやすい言葉が一番危ういのです。
こういうことを主張する人は「権威」というものをよく理解していない人々なのです。
学級崩壊も家庭崩壊も同じ根っこから出発しています。
人間が平等であるという考えが間違っているのではありません。
人間が平等であるという考えをあらゆる局面に適応しようというその機械的思考が間違っているのです。

もし、こういう考えが現実の教室や家庭に適応されたりすると、ただわけのわからぬ無定形の関係に依拠した教室や家庭が出来上がります。
「権威」のないところに正しい秩序は存在しません。
親と子は平等であるという考え方からはすぐに「怠惰」「家庭内暴力」「非行」などが起こりやすい家庭が生まれます。
なぜなら家庭を統治する人がいないからです。
行動・言葉の理非曲直を子どもに教える人がいないからです。
具体的に書けばすぐわかります。

父親 「お前、そんなことをしていいのか」
子ども「ぼくはぼくの考えでやっているのだよ。父さんとぼくは平等なんだからぼくがすることを否定する権利は父さんにはないはずだよ」
これで終わりです。
後はどうするのですか?

子どもを躾るときにどうしても必要なことは親の「権威」というものです。
念のた
めに申しておきますがこれは親の「権力」ではありません。
まず親の権威でもっ
て子どもを躾なくてはなりません。
また次のように言う親もいるかもしれません。

「私は子どもを対してきちんと躾をしなかったが、それでも子どもはキチンと礼儀正しい大人になりました」

こういう親には私は次のように申します。

「それはあなたが親として家庭の中でキチンと行動していたからです。子どもがあなたの行動を知らず知らずのうちに真似てキチンとした行動をするようになっただけですよ。私はそれを親の権威と呼んでいるのです」

と。親のキチンとした行動が無意識のうちに子どもに「刷り込まれて」いったのです。
しかし、率直に言ってこのようなことは既に日本の家庭においては稀有な例になっていることは間違いありません。
残念ながら、現代のような忙しくて疲れやすい世の中にこのよう立派な父親・母親はなかなか存在しません。
このような家庭は私に言わせると残念ながら少数派になっているのです。
これは子どもを育てた経験のある方にはすぐわかりますが、子どもの天才的なところは次の三点です。


@        親の行動・言語を実にうまく真似する。

A        親の会話を聞いていないふりをしながらしっかり盗み聞きしている。
B        親の金をこっそりとくすねる。

オーバーに書いているのではないかという人は子供というものをよくわかっていない人だと私には思えます。
そういう人は「世間知らず」という言葉と「純真」という言葉を混同しています。
子どもは「世間知らず」かもしれませんがそのことが子どもが純真であるということを証明してはいません。
「世間知らず」であるからこそある意味で立派な小犯罪者の萌芽を十分持っているのです。
まだ社会的善悪の判断がつかない幼児のころは特にそうです。
このことに関しては子どもの天才性はもしかするとニュートンやアインシュタインを超えているかもわかりません。
「水低きに流れる」と申します。
もし親が人間としてどうしようもなく恥ずかしい行動をしていると子どもはその行動を無意識のうちに「刷り込まれて」いくのです。
これほど恐ろしいことはありません。
「子は親に似る」という言葉があります。
これはけっしてDNAのことだけを言っているのではありません。
日常の「刷り込み」的行動を指し示しているのです。
それゆえ自分が家庭でチャランポランな行動をしながら子どもにはキチンとしろというのは身勝手なことですし無理なことです。
親が親らしい毅然とした言動をすることが必要です。
親は真の親となっていき、子どもは人間らしくなっていくのです。
ですから私は親の権力ではなく親の権威で躾をしなさいと言っているのです。

自由と躾の相違について

「子どもは自由にのびのびと育てなければならない」

とよく言われます。
これは言葉として聞くだけでは美しく聞こえる言葉です。
しかし、実際に多少なりとも子育てを経験した親であればこれは嘘だとすぐ分かる代物です。

「子どもは野生児のように逞しく育って欲しい」

と思う親も多いと思います。
しかし、この時に用いられている野生児という言葉で表現される子どもとは、その言葉のもつ修辞的・比喩的含意を抜き去った後はいったいどういう子どものことを指すのでしょうか。
私の定義によると以下のようになります。

@        人間としての言語を喋れない。〓 発語能力の機能不全

A        食事を手でわしづかみにして食べる。〓 文化・礼儀作法の欠如

B        他人に対してやたら攻撃的である。〓 社会的協調性の欠如

C        言語を知らないゆえに考えるということができない。〓 思考能力の欠如

これはまるで猿と同じ状態です。
猿でさえ群れ社会の中では仲間との協調の必要を無意識に知っていますから猿以下と書くほうが正確かもしれません。
子どもが猿のように育つことを願う親がこの世にいるのでしょうか。
子どもが幼児の頃から何の躾もされずにのびのびと自由に育つと動物と同じになるか、または動物以下になるのはこう書けば誰でもわかることです。
しかし、言葉の呪縛というものには我々が考える以上に恐ろしいものがあります。
「自由=善 VS 躾=悪」という胡散臭い公式を誰もが無前提に信じてしまいそうになるところが恐ろしいのです。
これは一昔前の「社会主義=善 VS 資本主義=悪」という実に素朴な妄想と完全なパラレルになっています。
そして素朴であればあるほど恐ろしいほどの真実性を持って見えるのです。

「大衆は小さな嘘には騙されないが大きな嘘には騙される」

というヒトラーの言葉はこういう時にこそ検討されるべき言葉なのです。
繰り返しますが幼児は躾をされることによって人間らしくなっていくのです。
次のことを認識していただければよくわかると思います。


@        人間は人間に生まれついたから人間になるのではありません。

A        同じように、赤ん坊を産んだから母親になれるのでもありません。

B        赤ん坊を産みながら赤ん坊を遺棄してしまう母親を正しく母親と呼べるでしょうか。

C        人間は自然(無意識)過程で人間になるのでもなければ自然(無意識)過程で父親・母親になるのでもありません。

こう書くと誤解する方がおいでになると困りますのであえて一言述べておきます。
躾と自由は必ず両立します。
躾を厳しくされることによってこそ本当の自由のありがたみというのがわかるのです。
例えて言えば今の若い人よりも私たちの世代の方がまだ平和を希求する気持ちは間違いなく強いでしょう。
何故なら私たちの世代は直接戦争の体験はなくとも戦後の貧しい世界というものを多少は体験的に知っているからです。
また、躾と自由をこういう風に並列して書くこと自体が間違っている可能性もあります。
もっと厳密に言えば、

躾とは人間が人間らしく生きるための必要条件であり自由とは人間が人間として生きるための十分条件

だからです。
口を酸っぱくして言うようですがこの関係性を誤解する親は必ず子どもが成長する過程において躾をしっかりした親よりも苦しむでしょう。

躾は交通ルールと同じです

子育ての問題は常に「治療よりも予防」が大切です。
「躾一秒効果一生」なのです。幼児の頃ほど躾を厳しくするのがベストなのです。
わかりやすく言うと、


@        小学生・中学生の頃までは躾はきちんとする。

A        高校生からはそれこそ自由にのびのびと育てる。

こうすることがベストなのです。
こう書きますとまた誤解する人がいます。

「躾」と「体罰」と「折檻」と「暴力」を混同する親が必ずいます。
私の定義によるとこの四者の関係は以下のようになります。


@        躾→ 子どもが世の中を生きていくための最低限のルールを教えること

A        体罰→ 子どもを躾る為に最低限は必要なニュートラルな技術

B        折檻→ 親の思いやりの無さと子育ての技術の無さをごまかす為のいじめ

C        暴力→ 親の子どもに対する感情的な嫌悪感の噴出。または世の中に対する自分の不満・鬱屈を子ど      もにぶつける行為  

子どもを躾るときに親としての「折檻」や「暴力」はまったく必要ありません。
問題は体罰が残るだけです。
「体罰」は、多分の留保はつけなければなりませんが、必要になるかもしれません。
しかし、武道の達人が必殺技を最後の最後まで使わないように親の「体罰」というものは最後の最後まで親がとっておくべき最終秘密兵器なのです。
発動する場合は自分の親としての全存在を賭けなくてはならない核兵器、生物兵器の類なのです。
時期・タイミングを逸すると子どもを精神的に傷つけ、二度と立ち直れなくする可能性があります。
その上、自分も親として精神的に傷つく恐れさえあるのです。
まして、自分の感情にまかせて子供を殴ったり、酒を飲んで子供を殴るなんて折檻や暴力は論外も論外です。

「三つ子の魂百までも」ということわざがあります。
幼稚園から小学生のころまでに身につけた躾というものは生涯有効なのです。
まず幼児の頃なら次のようなことをしっかり守らせることが必要です。


@        自分で一定の時間に朝起きる。

A        自分でトイレにいける。

B       スプーンと箸を用いてキチンと食事ができる

大人なら誰もがやっていることです。
しかし、幼児にとってはコロンブスがアメリカを発見するような大難事かもしれません。
しかしこの大難事を通過して初めてまず幼児は動物の域を越えるのです。
次に、人間生活の基本の基本である挨拶をおうちの中できちんとやらせましょう。
強制してはならないなどという評論家もいますが、こういう評論家に限って自由とか平等とかという言葉で子育てを語るのです。こういう評論家を相手にしてはなりません。
こういう話は次の例を考えればおわかりいただけるでしょう。


@        子どもが外に出るときには交通ルールを絶対に守らせなくてはなりません。

A        もし、子どもが左側通行をしているのにほっておく親がいたりしたらこれは親ではありません。

B        もし、交通量の多い道路を信号を無視し歩いている自分の子どもを放置している親がいればこれはほとんどもう犯罪です。

子どもの命が守りたければ強制であろうとなんであろうと交通ルールを守らせることが大切です。
そこには自由も考え方もイデオロギーも家風も何もありません。
こういう生きるための基本的ルールが躾なのです。

まずは挨拶からきちんとさせましょう

しかし、こういう例を上げればすぐわかることがいざ精神的なことになるとよく理解できなくなるのです。
私は別に難しいことを言っているわけではありません。

「おはようございます。」

2「いただきます。」

3「ごちそうさまでした。」

4「行ってきます」

5「ただいま」

6「おやすみなさい。」

7「ごめんなさい」

8「ありがとうございます」 

などの基本的な挨拶をちゃんとさせることを言っているだけです。
こういうことこそが「人生の右側通行」なのです。
よく学校の近くに地域のPTAが掲げた標語がステッカーで張ってあります。
次のような標語はその典型的なものでしょう。

「いつも明るい挨拶で楽しい一日」

私はこういう標語に出会うたびにいつも不思議に思っています。

「この種の標語を掲げることに何か意味があるのだろうか」

と。私はこの種の標語は父親や母親が家庭がなすべきことを放棄している象徴だと思っています。
根本の考え方が違うのです。
そういう挨拶は学校や地域が指導するのではありません。
これこそ家庭で身につけさせるものなのです。そうでなければ、

「動物の家庭」で育った子どもが「人間の学校」に来ている状態になります。

そこのところが完全に倒錯しているのです。
ですから親までが学校に躾を期待してしまうのです。
こう書くと皆さんもよくおわかりいただけると思いますが、世の中には「ごめんなさい」も「ありがとうございます」も言えない大人が多いのです。
サラリーマン社会においては自分の過ちを過ちとして認めないサラリーマンに溢れています。
仕事を手伝っても感謝もしない大人は沢山いるのです。
こういうことは技術ではなく習慣の問題であり情操の問題です。
子どもの頃から躾をしないとこういう大人になってしまうのです。
それに家庭の躾には文部科学省も日教組も学校も塾も地域社会も全然関係ありません。
これは形から入っていく教育の代表です。
親にさえ挨拶できない子供が近所の人々や学校の先生に挨拶できるわけがないでしょう。

学校は躾をしてくれる場所ではありません

今書きましたように、母親が持つ最も大きな誤解は小学校が躾をしてくれる場所だと信じていることです。
このようなひどい誤解は現在もしかすると若い母親に蔓延しているのかもしれません。


@        学校はものを学ぶところである。

A        当然子どもの躾も教えてくれる

B        子どもの成績が悪いのは学校の先生の教え方が悪い。

C        子どもがわがままなのは学校の先生が躾をしないからだ。

D        自分は一生懸命子どもを育てているのに。

これはほとんど鉄壁の論理です。
しかし残念ながら論理の前提がまったく違います。
人間よくあることですが同じ土俵で話しているつもりでまったく違うことが多々あります。
これではどうしようもありません。
はっきり書いておきますが、担当の先生が一人々々の子どもの躾をしてくれることはありえません。
その先生がいい先生なのか悪い先生なのかは何の関係もないのです。
そこのところを誤解するとメチャクチャなことになります。小
学校の先生方を悩ましているどうしようもない親の多くがこういう風に考えている親なのです。
こういう風な親に出逢った時、学校の先生が考えているのは以下の通りです。


@        この母親はどこかで子育てを誤解している。

A        誤解しているわりにはこの自信にあふれた学校に対する文句の言い方は一体何なんだ。

B        小学校を託児所と間違っているのか。

C        躾一つせず家庭でせずに何が成績なのかね。

D        これでは子どもがほんとうにかわいそうになってくるなあ。

学校の先生を最も悩ましているのはきっとこういう親です。
これは自分の親としての責任を放棄した考えです。
親には親の役割があり先生には先生の役割があります。
わかりやすい例をあげればある母親が夫とうまくいっていないことを小学校の担任に相談し指導など仰ぐでしょうか。
子どもの躾を学校に任せる、依存するということは夫婦の悩みや揉め事を先生に相談していることとまったく同じことです。
先生が親代わりになれる筈がありません。
家庭でやるべきことと学校で学ぶことはまったく別のことです。

小学校は社会的生活に慣れる訓練をする場です

小学校は勉強するところだという定義は別にして、やはり子育ての観点からすると小学校は、自分の知らない子どもたちと一緒に同じ空間で同じ時間を過す社会的訓練をする場なのです。

@        子ども同士にお互いの好悪があります。

A        お互いに考え方も感受性もそれぞれ違います。

B        勉強のレベルも違うかもしれません。

C        運動の能力も異なっているでしょう。

小学校とはそういう多様な子供たちが一緒にすごすことによって社会とは何かという考えを無意識の内に養成していく場なのです。
そういう中で子どもは子どもなりに様々な悩みや葛藤を抱えながらも逞しく生きていくようになるのです。
しかし、これにも大前提があります。
すなわち、家庭において正しい躾をチャンと受けているということです。


@        まず家庭があって学校があるのです。

A        学校があって家庭があるのではけっしてありません。

その前提を抜きにして小学校の役割なんていくら力説しても無駄というものです。このことだけはしっかり理解していただかないと小学校に通い出してから子ども自身が困ってしまうことになります。

時間とお金の大切さを徹底的に教えることが必要です

「時は金なり」という格言を皆さんがどれほど理解しているのか私にはわかりませんが「三つ子の魂百までも」とも申します。
まず時間を守ることの大切さを教えていかなくてはなりません。
私が見てきた様々な職場においても時間にルーズな人はもうこの一点だけで確実に会社や人付き合いから疎外されます。
それ以前に小学校において完全な不適応症状を起こしてしまいます。
なぜ、時間にこだわるかと申しますと、


@        時間というものは学校や社会においては他人と共有しているものです。

A        社会において他者と共有しているものに道徳とか規則とか法とかがあります。
  それ以前にまず時間というものがあります。


B        時間を守らない人間をはっきり言って「時間泥棒」なのです。

C        他人の「時間」を無駄に費やさせるのは既に犯罪です。

D        他人のお金を盗めば刑法的には「窃盗罪」が成立します。
   他人の時間を盗めば同じく「窃盗罪」が成立するはずです。

日本の交通機関のダイヤは世界一正確だと言われていますが、個々の人間はいい加減な大人が多すぎるのです。
家庭においてはお互い時間を守り、子どもには時間を守る躾を徹底させることが大切です。
時間を守らない人にわがままな人が多いのはこれは引力の法則のようなものです。
特殊な例かもしれませんが私が心の底から私の娘に時間を守らないがために悪いことをしたと思った時があります。

それは先ほども書きましたように私の父が亡くなる前後の話しです。
その日は土曜日でしたが、私の妻と長男・次男は町田の入院している妻の父を見舞いに出掛けていきました。
そして私は仕事に出掛け、月曜日から試験があるという長女が一人で留守番をしていたのです。
私は長女に午後
7時には帰るからそれから一緒に外で食事でもしようと約束をしていたのです。
長女はその時うれしそうな顔をしていました。
ところが私は職場で仕事に意外と時間がかかり帰宅が1時間遅くなったのです。
事前に電話していればよかったのですが、それもせずに、私は
1時間遅れであわててアパートに車で帰ったのです。
アパートに到着すると暗い駐車場に娘がションボリ立っていまいた。
私はその姿を見ただけで胸が締め付けられ本当に悪いことをしたなあと思いました。
私が車を降りて謝ろうとすると娘が私の方に駆けてきて叫びました。

「四国のおじいちゃんが危篤なので早く帰ってきてくれとおばあちゃんから電話があったのよ」

と泣きながら言ったのです。
私は長女の言葉を理解した瞬間、父親のことより眼の前の長女のことを考えてしまいました。
夜、アパートで一人で留守番をしながら父が帰ってくるのを待っている中学生に、突然、おじいちゃんの危篤を知らせる電話が入る。
その時の気持ちを忖度すると本当に可愛そうに思えたのです。
そして駐車場で一人父の帰りを待つ心細さを考えると私が約束通りの時間に帰っていれば私が電話をとり直接長女が強い衝撃波を受けることはなかったのにと後悔ばかりしてしまいました。
娘のことを考えるたびにあの時の儚くて寂しそうな長女の表情が浮んでまいります。
時間は守ることは本当に大切です。

次にお金です。
先刻も書きましたが、子どもは家の金をくすねる名人です。
自分の恥を書きます.
私は小学生の頃にあまりにひもじい思いがして共稼ぎの父親・母親が留守の間に家にあった金をくすねて近所の駄菓子屋で飴やお菓子を買ったものでした。
しかし、ある時、このことが発覚、職人だった父に死ぬかと思うくらい殴られました。
今の言葉で言えば「体罰」でしょう。
その「体罰」のお陰で、その後、私はぴったりそういうことをしなくなりました。
私は酒に酔って理不尽にも私を殴った父の「暴力」にはまったく否定的です。
しかし、この時、父に「体罰」を受けたことについては全面的に肯定しています。
父は私に愛情があるゆえに私に「体罰」を与えたのでしょう。
オーバーかも知れませんが、私が犯罪者にならなかったのはあの時の父の「体罰」のお陰だったかもしれません。
話がそれてしまいましたが、時間の大切さとお金の大切さは家庭でおしえるべき躾です。
そのことを忘れないで欲しいと思います。

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