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親十戒
第九戒 汝、わが子を子どもと思うなかれ
親から見ると子どもはあくまで子どもです。
例え、20歳になろうと40歳になろうと60歳になろうと自分の子どもはやはり子どものままでしょう子どもを子ども時代から大人として認めてやるという視点も大切です。
子どもを「小さな紳士」として扱ってやることは子どもの独立心を促すことになるでしょう。
しかし、先刻も述べましたようにこれは親と子どもが平等であるという意味ではけっしてありません。
子どもを盲愛することは危険です
親が自分自身の成長過程を抜きにして自分の子どもを見ることは危険です。
そういうふうにしてしまうのは何かと考えるとやはり親の子どもに対する「盲愛」に行き着きます。
子どもを自分の分身と勝手に思うが故に「盲愛」が生じてしまいます。
子どもに対する「盲愛」は両刃の刃です。
今現在、日本の家族制度が危機に瀕しているとよく言われます。
親子の絆が弱まっているのは間違いのない事実でしょう。
しかし、だからと言って「盲愛」は褒められるわけではありません。
「盲愛」はしばしば子どもを「わがまま」な人間にしてしまいます
。私の言葉によれば子どもの後ろにいつも守護霊のように父親・母親がいて背後からマインドコントロールしているような子どもは決して自立した大人にはなれないでしょう。
子どもを愛情を持って育てることは実に大切なことです。
しかし、同じように子どもを自分とは関係のない一個の自立した「生き物」として見る視点も実に大切なのです。
容貌も性格も思想も親と子どもは違うのです。
生きた時代・環境も違うかもしれません。
そういう状況で子どもに自分のクローン人間のようなことを強いても無駄というものです。
子どもは会社ゴッコが好きなのだ
子どもが純粋だと思っている方が沢山おいでになると思いますがこれも違います。
子どもは社会の動向に実に敏感です。
子どもは社会を映す鏡なのです。必ず心の中に時代の刻印を受けているのです。
私が子どもの時代で言えばやはり「原水爆の恐怖」というものがありました。
水爆実験によって南太平洋の海の底から蘇ってきた映画「ゴジラ」でさえある種のリアリティーをもって見ていたのです。
これが私の子どもの時代になると「会社ごっこ」が流行しました。
私の次男は小学校の時にクラスの仲間と会社を起業しました(?)。
次男の肩書きは「社長室室長補佐」という素晴らしい(?)役職でした。
私はこの話を次男から聞いた時、思わず笑ってしまいましたが、「馬鹿なことはやめろ」なんて一言も文句を言いませんでした。
子どもはそういう世界で自分たちなりに愉しんでいるのでしょう。
これこそ子どもが大人の世界にどれほど敏感なのか証明しています。
子どもをあまりに子ども扱いをすると精神が成長しなくなります。
ある時は厳しくしつけながらある時は立派な大人として扱ってやるという柔軟な姿勢が大切でしょう。
自分の子どもは複眼的に見なくてはなりません
「贔屓の引き倒し」という言葉があります。親は自分の子どもをどうしても客観的に見ることができません。第三者から見ればたいしたこともないものが拡大され美化されまたは嫌悪の対象にされてしまいます。それが親の愛情というものなのでしょうが、例えば父親であるならば次のことを常に頭に入れておく必要があります。
@
この子は母親からはどう見られているのだろう。
A
兄弟にはこの子はどういう子として映っているのか。
B
この子の友だちはどう見ているのか。
学校の先生はこの子をどう見ているのか。
こういう人たちの子どもに対する評価を頭の隅に入れておく必要があります。
もちろん自分の確固した子どもに対する評価もあるでしょう。
また他人の評価もそれほど変わらないかもしれません。
しかし、自分が子どものことを欠点だらけだと思っていたとしても意外と他人から見ると、
@
しっかりした考えを持っている。
A
決断力がある。
B
他人にやさしい。
などの肯定的評価をしているかもわかりません。
こういう他人の評価と親としての自分の評価にズレが生じる時があります。
これはきっと親の愛情過多のためです。
また、自分の子どもに対する入れ込みのために生じているのです。
このことをことをキチンと認識しながら子どもに対応することが大切なのです。
盲目的愛情に基づいた子どもに対する対応は対応を誤ると子どもに重荷となります。
またいらぬ反撥を招くだけなのです。
「子離れ」も「親離れ」も必要です
人間は矛盾した考えを同時に持てるという不思議な動物です。
「自分は親のような大人になりたい」という気持ちと「自分は親のような大人になりたくない」という気持ちが子どもの心の中ではせめぎあっているのです。
そのことを理解してあげなくて「自分の子どもだから」という論理は間違っているのです。
人間は自分の経験の範囲の中でしか物事を見ることができません。
しかしそうだからと言って子どもを自分に引き寄せて考えすぎると必ず子どもとの間に不必要な軋轢が生まれてくるでしょう。
自分の子どもを突き放して見ることが絶対に必要になります。
そういう修練を積んで親が子どもに接触するようにしなくてはそれこそ子どもはいつまでも精神的に親にパラサイトするようになります。
「引きこもり」の反対は「家出」なのです
現在、「引きこもり」の人々は10万人近くになるということですが、「引きこもりに」の反対概念は何でしょうか。
私はそれは「家出」だと思っています。
「引きこもり」と「家出」を対照的に考えると物事の本質が見えてきます。
つまり、「家出」は家族よりも社会を選択したことを意味します。
しかし、「引きこもり」は社会より家族を選択したということです。
どちらが社会的にしっかり生きていけるかは難しいことですが、私はやはり「家出」の方だと答えざるを得ません。
私は別に「家出」を勧めているわけではありません。
しかし、「家出」は親の愛情に絶望した故に自分ひとりで生きていくというそれはそれなりに悲愴な決意が見えてきます。
子どもが親の庇護を抜け出して自分ひとりに生きていこうとするのです。
その年齢にもよりますが考えようによってはその行動自体はともかく自立した大人になろうとする緊急避難的行動とは言えるでしょう。
しかし、「引きこもり」はやはり雛が親鳥の巣に帰るような消極的な面があることを否定できません。
「引きこもり」の人は親とも口を利かないこともあるでしょう。
これはこれで文字通り親に対する「無言の甘え」なのです。
念のために申しておきますが、私は「引きこもり」が悪いと言っているのでもありません。
子どもは可能性を秘めた存在ですからゆえに「引きこもり」というものはどんな子どもにもそういう萌芽はあります。
どんな子どもにも悩みがあり苦しみがあり、社会から疎外されている、社会が恐ろしいという意識が「引きこもり」という行動を取らせるのでしょう
。一番簡単な例は小学校や中学校を3日間欠席して自宅に引きこもっているくらいのことでしょう。
こんなことは誰にでもあります。
しかし、これが1年、2年と長く続くと親にとっても辛い問題になってしまうでしょう。
私も自殺を考えていた
子供の心の奥底に広がる深淵ははかりしれない深さをもっています。
私はこの話しを一度も父にも母にもしたことがありませんが、小学校高学年から中学生にかけて何度も自殺しようかと考えたことがあります。
どうしてそう考えたのか自分で現在の時点から振り返って整理してみると
@ 家庭が経済的に貧しかった。
A 体力にまったく自信がなかった。
B 家族に愛されているという意識をどうしても自分が持てなかった。
C 何かいつも暗いことを考えていた。
私は小学校・中学校でいじめにあった経験はありません。
こう並べてみると切迫したそれほどの事情も思い浮かびはしません。
ただ自分で自分の運命を切り開くなどという考え方ができなかったために死の方向へ向かおうとしたのかと思うだけです。
しかし、その時の台所の出刃包丁を見ながらどこを切れば自分は死ねるのかとか柱の鴨居から紐をつって首吊り自殺をしたら何分くらいで死ねるのかとかそういうことを子供心に考えていた自分が恐ろしくなってきます。
今現在問題となっている「リストカッター」という自分の手首を剃刀で斬って自殺をはかったり自殺の真似事をする若い人の気持ちもわからないではありません。
僕は植物になりたい
こういう考えを多少なりとももったことのある人間が実際に親になって子供が「自分は植物になりたい」と小学校の時に言われると衝撃的なものがあります。
もっと細かく書いておきます。
長男は小学校の遊び時間に突然行方不明になり先生が一生懸命さがしてみると、雨の中、小学校の近くの公園で一人しょんぼりと座っていたそうです。
この時の長男の気持ちの奥深くまでどうしても私は入り込むことができません。
長女は小学校でいじめにあいました。
また、次男が小学校五年生の頃に居間で母親(私の妻)と話している時に、狭い庭に咲いているアジサイの花を見ながら、突然、
「ぼくは人間ではなくて植物になりたい」
と言ったのです。
その夜、心配した妻が私にその事実を告げたのです。
私は自分と同じことが次男にも起こっているのではないかと思いました。
子どもが言うにはあまりに厭世的な言葉です。
その夜は私はまんじりともせず眠れませんでした。
その日以降、子供たちに対して私は細かく観察するようになりました。
同じ屋根の下に住みながらどうして自分は子供のことをわかっていなかったのだろうとも思いました。
次男がいじめを受けているのではないかというこも心配しましたが、そういう事実はありませんでした。その次の日から私は以前にもまして子供といろいろなおしゃべりをするようになりました。
私は歳月が過ぎて何度か次男とこの言葉について語り合いました。次男が言うのには
@
そう言ったのは確かに事実であり自分も覚えている。
A
その時、庭にアジサイの花が咲いていたこともよく覚えている。
B
しかし、どうしてそんなことを言ったのかその理由は記憶がない。
ということでした。
私は子ども3人を育てながら、環境も時代も全然違うのに私自身が小学生から中学生の頃に自殺しようといつも考えていたことを思い出しました。
私は自分の子供たちの行動から自分が自殺しようと考えていたことはどんな子どもも持っている心性だと気づきました。
その時になって初めて私は子どもというものがどういうものなのかわかった気持ちがしました。
子どもははかなくてさみしい存在なのです。
いつも漠然とした生と死の狭間に生きているのです。
何の理論づけも本人にはないのですが自分の存在がどういうものなのか漠然とした感じを持っているのです。
そう考えただけで私は子育てがどんなに恐ろしいものか気づいた次第です。
親は子どもを持つことによって実に大切な一個の命を守り育むというある意味で思い使命を持ってしまうのです。
そのことに常に自覚的であることが必要なのです。
これこそが今日家庭において忘れがちなことだと思えて仕方がありません。
私が特殊でもなく私の子どもたちが特殊なのでもありません。
こういう子どもの話は、どこの家庭にも最低一度はあるエピソードです
。私は自分自身が自殺しようと考えていた少年でありながら、いざ、子どものこういう言葉に接した瞬間に肝をつぶしました。
皆さんもまだまだ子供だからと自分の息子や娘のことを甘く考えていると危険です。
子供の心の底の深淵には大人の考えもつかない怪物が住み着いているかもしれないのです。