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親十戒
第二戒 汝、わが子を愚か者と呼ぶなかれ
世の中においては多くの人々が「子供は天才である」という言葉を好みます。
特に教育関係の仕事に従事している人がよくこの言葉を好んで使います。
昔読んだ新聞記事ですのでうろ覚えで引用に間違いがあるかもわかりませんが、ある小学校で、低学年の生徒に「氷が溶けると何になるかなあ」という質問を先生がしたそうです。
もちろん先生は「水になる」という答えを得たかったのでしょう。
しかし、生徒の一人が「春になる」と答えたそうです。
このエピソードを知った教育評論家が「子どもは天才だ」と言ったという記事です。
またはもしかするとその評論家の言葉を批判した記事だったかもしれません。
しかし、私は確かにその記事には驚きました。
「子どもに媚びるのはやめたほうがいいよ」
というのが私のその記事を読んだ率直な感想でした。
「天才」をこんなレベルで使われたのでは天才が怒るでしょう。
しかし「子どもは天才である」という言葉は誰が聞いても口当たりのいい言葉です。
また、なぜか大人を気持ちよくさせる言葉です。
きっとこの言葉には親の夢が隠されているからでしょう。
自分の子どもがもしかしたら天才なのかと思うことは楽しいことではあるでしょう。
しかしよく考えてみると、私には違うように聞こえてきます。
子どもは天才でも愚か者でもありません
この言葉は、私には、
「誰でも子供の頃は天才である可能性はあった」
という意味において、大人が自分の帰らぬ昔を振り返りながら「なりえなかった者」への愛惜の念から語っている言葉としか思えません。
もし、「子どもは天才である」という言葉が真実なら、私たち大人はほとんど誰もが全員天才のなれの果てということになってしまいます。
誰が考えてもそれはどこかおかしいことです。もし
「子供は未来の可能性を含んでいる大人の卵である」
という定義なら正しいかもしれません。
可能性なら何とでも言えるでしょう。
私たち大人は自分が持っていた可能性を一歩一歩自分で潰してきたのかもしれません。
しかし、このようなこととは全く逆に生まれてきた自分の子どもを見た瞬間に
「この子は愚か者だ」
と直感的に感じるような父親も母親も世の中にいるはずはありません。
何故なら子どもが生まれてきた時にその子が天才なのか愚か者なのか何の判断基準もないからです。
もし父親・母親の中にそのどちらかに考える親がいたとしてもそれは勝手な妄想というものにしかすぎません。
しかし、いつから親は子どもを「バカ呼ばわり」するのでしょうか。
私がかねがね不思議に思っていたことは以下のことです。
誰もがこういう矛盾した考えを平気でしているのです。
@ 新聞や雑誌を読みながら一般論としては「子どもは天才である」という言葉を首肯する。
A ところが個別的には自分の子どもを見ながら「この子は愚か者だ」と思ってしまう。
一体どうしてこんなことが可能なのでしょうか。
こういう判断基準というのは実に非科学的なのです。
例を上げるとすぐにわかります。
@ 「ハイハイ」するのが他の子どもより遅い。
A 歩くようになるのが他の子どもより遅い。
B おむつが必要なくなる時が他の子どもより遅い。
C 言葉の覚え方が遅い。
D 小学校の成績が悪い。
等など、こういう風に具体的に書くと実にバカバカしい理由です。
恐ろしいのはこういう風に書くとそれは単なる個体の発達のスピードの違いにしか過ぎないことだと誰にでもわかることが、何故か親には信じるべきことに思われてしまうことです。
私はこのようなデータ・資料は持っていませんし、調査をしたこともありませんが、直感的にわかることで言えば全国の小学生の中には結構「おねしょ」をしている子どもはいるのではないでしょうか。
どうしてそう考えるかというと、私自身、小学生の頃、何度か「おねしょ」をした記憶がありますし、私の子どもたち3人とも小学生の頃、時々「おねしょ」をしたからです。
こんなことで子どもを愚か者だと考えている親がいれば、私には迷信を信じている未開人のように思えてきます。
こういうことは子どもの「愚かさ」とは何の関係もないはずです。
学校は競争の場・家庭は憩いの場です
これはただ、大人、厳密には親が子どもを見るのに「競争原理」という視点から見ているに過ぎないとしか思えません。
@ 兄より弟の方が「おむつ」がとれるのが早かった。
それがどうしたのというのでしょうか。
A だから兄より弟の方が頭がいい!
なんて結論が出るのでしょうか。誤解する人がいるといけませんのであえて一言述べておきますが、世の中は競争原理で成立しています。それを否定することはできません。ですから私は小学校などで
@ 運動会で、「かけっこ」などは1位、2位が決まるのでやめましょう。
A 勉強の成績を競争的に評価するのはやめましょう。
とかいう考えに出逢うといつも
「何を考えているのですか、それは偽善というものですよ」
と思ってしまいます。
もちろん、一人が50メートルを走り一人が25メートルを走りそれでタイムを比較したりするとこれはどんな子どもにもわかるインチキというものでしょう。
まったく不平等です。
しかし、かけっこで言えば、
「誰もが同じ距離を同じ条件で自分の脚力で走る」
このどこか問題なのでしょうか。
「かけっこ」をしている子どもを親が助けて早く走れるのでしょうか。
これこそ本当の平等というものです。
それに誰もが走る機会を与えられているのです。
そのどこが問題なのでしょうか。
付け足して言っておきますと、私は小学校の頃から鈍足でした。
小学校の運動会は苦痛そのものでした。
しかし、だからと言って、「かけっこ」なんてやめましょう、優勝とか一等とか序列をつけて表彰するのを止めましょうという偽善にはまったくついていけません。
何故なら、まず、
@ 子どもは脚の早い子に憧れと尊敬心を持ちます。
A 自分もがんばろうという気持ちになるかもわかりません。
B また、子どもはそういう敗北から自分にも弱点があるのだとか、
C 上には上がいるのだとか、
この世を生きていくのに必要な何かを学んでいくのです。
ある意味で植物を栽培するのに純粋培養するように競争のない温室で育てると子どもは免疫力のないか弱い植物になってしまいます。
自分の弱さ、駄目さを学校が認識させてくれるのです。
それが学校とか世間というものの正しい役割だと私は思っています。
しかし、家庭はまったく別な世界です。私の言葉で言えば
「家庭は子どもにとっては母親の子宮のような世界」
であるべきです。
そこでいればゆっくりと眠ることができる、ゆっくりとまどろむことができる。
それが子どもにとっての理想の家庭ではないでしょうか。
運動会のかけっこの問題に私があえてこだわって言えば、
@ 例えば自分の息子が「かけっこ」でビリになった。
A 本人がそのことを非常に気にしていることに親が気づいた。
B そういう時には、息子がビリになったという事実より親がどう対応するかが問題なのです。
例えばこういう場合に
@ 父さんも小学校の時に「かけっこ」はビリだったけれど中学では部活でがんばったら脚が早くなったよ。
A よし、父さんと今度の日曜日、「かけっこ」の練習でもやるか。
B アントニオ猪木はあれで子どもの頃全然運動ができなかったのだよ。
というくらいのことを言ってやるのが本当に立派な親というものです。
この父親、母親の一言が傷ついた子どもの心を癒すのです。
そういうケアをろくにせずに
ただ「かけっこ」はやめろなんて要求はどう考えても本末転倒な考えなのです。
「お前はバカだなあ」と呼ぶのは愚かな親なのです
家庭で親に「バカ呼ばわり」されては子どもの精神的逃げ場がありません。
これは子どもを甘やかす、子どもに媚びるのとはまた別な次元の問題です。
土台、自分の子どもを「愚か者」呼ばわりする親が、どの程度、愚かでない人生を生きてきたのか自問自答する必要があるのではないでしょうか。
親にだって親と呼ばれる資格が必要だと思います。
それは学歴の問題ではありません。
経済力の問題でもありません。
残念ながら高学歴の親で愚かな親は腐るほどこの世にはいます。
また金持ちで愚かな人も同様です。
自分が、勉強ができたから子どもの勉強の出来なさを見て「お前は愚か者だ」と思っている親がいれば、
「自分の基準で勝手に子どものことを語るな」
と説教するしかありません。
こういう親はなるほど学校の成績はよかったかもしれません。しかし、
「自分は親としては全然駄目な親だ」
という正しい認識がない親です。
こんな親の下ではどんな子どもだって駄目にされてしまいます。
子どもをバカ呼ばりする前に自分の愚かさを自分に問うという手続が大切なのです。
子どもは生まれつき愚かでも賢明でもありません。
親が愚直に生きること自体が子どもを育てているのです。
子どもが大きくなって愚かになるか賢明になるかはかかって親次第なのです。
次のことが大切です。
@ 本気で「お前は愚かだ」と子どもに放言している親がいる。
A こういう親は間違いなく自分の子供を精神的に殺しています。
B また、殺すに至らなくても親に対する必要のない屈折した反抗心・反発心を自ら培養してやっているのです。
C 自分で自分の敵を作り家庭が健全に機能しないようにしているのです。
こういう親こそが真の愚か者であることは誰でもわかることです。
それに、万一、子どもが
「わかったよ。どうせ、俺は、馬鹿なんだから」
と開き直った時、こういう親はいったい子どもに対しどう対応するのでしょうか。
残念ながらその時には親子関係の修復はほとんど不可能になってしまっています。
そこから親子関係を再度構築しようとしてもこれは至難の業となります。