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逝きし昭和の言葉(戦前編)
最初に
昭和が終って十四年が過ぎました。
現代のあわただしい生活は平成の時代の出来事さえも遠い過去の世界に追いやっていきます。
そして私達は今、日本の進路がわからないままにこの時代をまさに漂流しています。
このような時に昭和の時代をふりかえってみることは決して無駄ではないと思います。
昭和という時代に懐かしいノスタルジーを覚える方もおいでになるでしょう。
また昭和の時代を体感していない若い方もおいでになるかもしれません。
私は特に今の若い皆さんに読んでいただきたいと思い編集しました。
若い人たちが本を読まなくなったと言われています。
また難しい本を読まなくなったとも言われます。
しかし、誰もが過去には興味があるものです。
まして、昭和という時代は激動の時代でした。
この時代を父親・母親・祖父・祖母が生きたのです。
その一
君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。
芥川龍之介 「或旧友へ送る手記」
『私の想うこと』
芥川龍之介は昭和2年7月24日に自殺した。
彼が残した「ばくぜんたる不安」という言葉は言霊のように昭和の時代を覆っていったのである。
当時芥川を撮影したフィルムが残っている。
場所は芥川の自宅である。
子どもを前にして針金のように痩せ細った芥川が庭の木に登っていくのである。
このフィルムにはどこか鬼気迫るものがあった。
彼の自殺の原因は彼の家系が持つ病に対する恐怖なのか、女性関係の問題なのか、彼の繊細で理知的な頭脳の中に「プロレタリア階級」という実態ではなく観念が化け物のように肥大化していったせいなのかはっきりしていない。
その二
訴状
乍恐及訴候。
一、
隊内に於ける我等部落民に対する賤視差別は封建制度化に於ける如く峻烈にして、差別争議続発しその解決に当たる当局の態度は、被差別者に対して些少誠意も無く、寧ろ弾圧的である。
一、
全国各連隊内に於ける該問題に対する当局の態度は一律不変であるが、陸軍当局の無い訓的指示と視る事が至当である。
一、
歩兵第二十四連隊内に惹起せし差別争議の為、被差別部落側の数名は警官の巧みなる犯罪捏造により牢獄に送られんとしている。
右の情状御聖察の上、御聖示を度賜及訴願候。
歩兵第六十八連隊第五中隊 陸軍歩兵二等卒 北原泰作
昭和二年一一月一九日
『私の想うこと』
その三
妻木「そりゃあ、ない者からはとれませんや。ですからね、はいる家の主人の顔を見るということ、それが一番大事なんです。ところが、やたらに見られないでしょう。だから主人を見るまで、その山はよくさぐらなくてはいけないというわけです。そりゃあね、いろいろのがいますよ。これは、満鉄理事の安藤って人が、下落合で立派な邸宅にはいっていてね、さすがに泥棒と満鉄理事では人間的なひらきもあるし、頭の程度もちがうわけだ。ぐっとね、先方がひとにらみにらんだらね、こちらはたじたじですよ。おもしろいものですよ。闇のなかで働いている人間にも、向こうのえらさというものが、大きくひびいてくる。こっちがおどかしながらしっぽをまいてるんです。向こうは有るからもってけっていう調子です。奥、カネだしてやれ、お客さんだからっていうんです。けっして泥棒なんていいません。言葉はきれいですよ。熊さん、八っさんとはちがうんだから。そうするとこっちはなおさらたじたじです。
『私の想うこと』
1929年(昭和4年)2月23日、説教強盗妻木松吉は警視庁に逮捕された。
強盗28件・窃盗29件の容疑である。
押し入った屋敷で相手に怪我をさせることなく「戸締りをもっときちんとしろ」とか「用心に犬を飼え」と説教をして金品を盗むことを繰り返す。
大正末年から昭和4年にかけて帝都を荒らしまわったおかげで警視庁がやっきとなって後を追跡していたのである。
ある意味においてこれほど国民的人気を得た犯罪者はお芝居・講談・小説を別にすれば珍しい。
富裕な階級のみを狙う姿勢が不況に喘ぐ下層階級や細民の支持を得ていたことは否定できない。
その四
満洲在住三千万人をして、自由投票を行わしめたら、その大多数は満州国に反対するだろう。また、日本の武力および財力の援助がなければ、満州国は恐らくは数ヶ月を待たずして倒潰するであろう。・・・果たして然らば満州国は、世間に一般に認定するが如く,日本の傀儡でこそあれ決して独立の国家ではない。これを締結したる条約をもって国際的価値あるものとなすは、結局不可能の徒労に過ぎない。この見地に立って、世界列国と対抗するは、既に失墜したる国際的審議を殆ど皆無ならしむるに終るだろう。況や満州国の要人なるものは、少数の除外例はあるべきも、大体において利のために国を売るところの不良人物に過ぎない。この売国的人物の集合体たる満州国を援けて、これと心中するよりも死心地がよかろうではあるまいか。
住む民の望みに依りて自決しなど
ハイカラめける仮声はよせ
帝国政府は一方において思想善導なぞと云うかと思えば,他方においては売国的行為を推賛奨励する。
国を売るやからを援けて国を建つ忠義の道を如何に説くらん
『私の想うこと』
「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の書いた現在からすると常識的な満州国建国反対論である。
常識は決して歴史をつくらない。
しかし、常識は歴史は作らないけれども、歴史の未来を見つめることが出来るのかもしれない。
「日本の武力および財力の援助がなければ、満州国は恐らくは数ヶ月を待たずして倒潰するであろう・・・」という尾崎行雄の予言は13年にして的中したのである。
遠因をたどれば、軍律を守らず、張作霖爆殺などという陰謀に加わった軍人が退役処分などという軽い刑罰を受けただけだったということがこのような関東軍の独走を引き起こしたのである。
その立役者であった関東軍高級参謀石原莞爾が日中戦争において不拡大派であったにもかかわらず、「私たちは板垣さん、石原さんの真似をしているだけですよ」と言われて阻止できなかったということは歴史の皮肉と言わざるを得ない。
その五
雨にもまけず 風にもまけず 雪にも夏の暑さにもまけぬ 丈夫なからだをもち慾はなく 決していからず いつもしずかにわらっている一日二玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べあらゆることを じぶんをかんじょうに入れずに よくみききしわかり そしてわすれず野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて東に病気のこどもあれば 行って看病してやり西につかれた母あれば 行ってその稲を負ひ南に死にさうな人あれば 行ってこはがらなくてもいいといひ北にけんかやそしょうがあれば つまらないからやめろといひひでりのときはなみだをながし さむさのなつはおろおろあるき みんなにでくのぼーとよばれ ほめられもせず くにもされずさういうものに わたしはなりたい
宮沢賢治1931年11月3日
『私の想うこと』
これほど人々に愛された詩は日本では珍しいのではないか。
またこれほど天皇制思想からも西洋思想からも切れた思想も稀有である。
この宮沢賢治の詩には日本を突き抜けてアジアの基層に訴える何かがあるような気持ちが戦後世代の私にさえしてしまう。
また、この年は北海道・東北地方で冷害・凶作のため、餓死者や娘の身売りが増加した。
このような出来事がこの詩の裏にも隠されているような気持ちがしてしまうのである。
その六
陛下に伝奏せし処、陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく、かくのごときものに勅使など以ての外なりと仰せられ、又師団長が積極的に能はずとするは(積極的に行動にでないのは)自らの責任を解せざるものなりと、未だもって拝せざる御気色にて厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命を蒙る。 昭和11年2月28日朝 「本庄日記」
『私の想うこと』
当時、侍従武官長であった本庄繁大将の日記より引用した。
西南戦争を除けば、二・二六事件は、明治以降最大のクーデータ―事件である。
また、西南戦争後の竹橋事件は刑死者五十数を出しながらも恩賞に対する兵士の不満が爆発したものに過ぎなかった。
しかし、この事件は参加した青年将校の真意はともかく体制転覆の可能性は多少なりとも存在したことは否定できない。
ただ彼等の失敗は宮城を占拠し玉(天皇)を自分の側につけなかったという技術的なことではなく、ただ、「変革のシンボル」として盲目的に崇拝していた天皇が「体制護持のシンボル」として登場してきたことにある。
ゆえにこの事件は彼等青年将校が純粋無垢な「童話」を信じていたがゆえに起こった「悲劇」としか捉えざるを得ないのである。
そして昭和天皇のこの一言によって二・二六事件の趨勢は決定したのである。
またこれ以前の昭和7年時の犬養毅首相を暗殺した五・一五事件の海軍将校に対しては満天下の同情が集まり多くの減刑嘆願書が提出されたにもかかわらず、この事件に関しては大衆は実に冷淡であった。
しかし、現代の歴史書は二・二六事件以後の軍ファシズムの横暴を招いたというが果たしてそうか。
囹圄の身となった北一輝は面会者に「今に日本は戦争を始めますよ」と言ったそうである。
その七
一切の悩は消えて極楽の夢
昭和11年7月12日朝 安藤輝三
『私の想うこと』
麻布歩兵第三連隊第六中隊長安藤輝三は早くから国家革新思想を抱いていたが最後の最後まで二・二六の決起には反対していた。
そして遂に国を思い兵を思い農民を思うがゆえに決起したのである。
しかし、ことは失敗に終わり、特設軍法会議において事件の首魁として死刑判決を受けたのである。
部下からもっとも信頼を受けていた将校としても有名である。
その八
問 どうして吉蔵を殺す気になったか。
答 私はあの人が好きでたまらず自分で独占したいと思い詰めた末、あの人は私と夫婦でないからあの人が生きていれば外の女に触れることになるでせう。殺してしまえば外の女が指一本触れなくなりますから殺してしまったのです。
阿部定 尋問調書
『私の想うこと』
昭和11年5月18日、愛人である中野区の料理屋主人、石田吉蔵を元女中の阿部定が殺害した事件。
事件が様々に話題となりまた映画化されたりした理由はただひとえに吉蔵を絞殺した阿部定が死体から性器を切り取って半紙で包めそれを所持していたという猟奇性にあった。
事件発生が二・二六事件の後、わずか数ヶ月であることも影響している。
この事件には戦争に向うのではないかという不安を持つ大衆の琴線に訴えかける何かがあった。
その意味でまったくパーソナルな情痴事件が時代の象徴となった稀有な事件である。
簡潔に言えば阿部定の吉蔵に対する業の深さが時代を震撼させたと言える。
その九
「遺書」
大輝よ、此の経典は汝の知る如く父の刑死する迄、読誦せるものなり。汝の生るると符節を合する如く、突然として父は霊魂を見、神仏を見、此の法華経を誦持するに至れるなり。即ち汝の生るるとより、父の臨終まで読誦せられたる至重至尊の経典なり。父は只此法華経をのみ汝に残す。父の想ひ出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷へる時、怨み怒り悩む時、又楽しき嬉しき時、此の経典を前にして南無妙法蓮華経と唱へ、念ぜよ。然らば神霊の父直ちに汝の為に諸神諸仏に祈願して、汝の求むる所を満足せしむべし。経典を読誦し解脱するを得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、誦住三昧を以て生活の根本義とせよ。即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、而して諸神諸仏の加護、指導の下に在るを得べし、父は汝に何物をも残さず、而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり 昭和12年8月18日
父 一輝
『私の想うこと』
二・二六事件の民間側首謀者として特設軍事法廷で死刑判決を受けた北一輝が処刑前日に我が子大輝あてに書き残した遺書。
大川周明により「魔王」と仇名された革命家というより父親としての心情が溢れ出ている名文である。
また、この大輝が北の実施ではなく辛亥革命の時に亡くなった革命家の遺児であることを思うといっそう哀しさが漂う。
刑場で銃殺される前に、隣の西田税が「天皇陛下万歳三唱をしましょうか」と問うたところ「私はやめておきましょう」と言い残した話は有名。
北一輝は天皇制思想をコミンテルン側からではなくもっと違うナショナルな面から突き抜けていたのである。
その十
オカサン、オテガイアリガトウ、
ナガクナガク、シツレイ、イタシマシタ、オユルシクダサイ。キヨミハ、ハヅメテ、タマノナカヲ、クグリマシタ、タマハ一ツモアタリマセンデシタ、マタ、アシニマメモデキマセンデイタ。ミナ、オカサンノオイノリト、フカク、カンシャイタシテオリマス。カイッテ、キタ、トコロガ、イモンガキテオリマシタ、キヨミハ、ナイテ、ヨロコビマシタ、タカキノ、ヒトカラ、カネヲ、モライマシタ、オカサンカラダニ、ジュウブン、キヲツケテネ、オクラシ、クダサイ、ソレカラカミマイリヲ、イタシテクダサイ。オカサンゲンキデ。
キヨミ
「戦没農民兵士の手紙」佐々木清美 中国戦線。
『私の想うこと』
日本の貧しい農村出身の兵士が中国で同じように貧しい農民・兵士・労働者などと戦争をするのである。このどこに民衆の幸せがあるのか。
かつ、農村の場合は多くの働き手を戦争に奪われたのである。
このような現実に眼を向けない歴史家・批評家・文学者などは何を揚言しようと私達は信じてはならないのである。
一将成って万骨枯るという言葉があるが、今は一将のつもりの歴史家・批評家・文学者が多すぎるのである。
このような哀切な文章はあらゆる国家においてこれからも読み続かれていかねばならないと思う。
その十一
ソ連最高裁郡司法廷は三九年九月二十七日、被告杉本良吉(本名・吉田好正)に対する審理を非公開で行った。裁判と裁判に先立つ審理の結果、杉本は三十年以降日本警察の工作員として活動、三十五年、ソ連でスパイ、テロ、破壊活動を行うために参謀本部に参画。三十八年一月、ソ連共産党指導部と政府要人に対するテロの組織とスパイ活動のため。同じく警察と参謀本部のスパイである岡田嘉子とともに、サハリン国境を越境したことが確認された。これは、ロシア共和国刑法五十八条第六項(スパイ罪)、第八項(テロ罪)、八十四条(越境罪)に該当する。法廷は被告・杉本に最高刑―――銃殺を宣告する。判決は最終的であり,控訴は認められない。
一九三九年九月二十七日 ソ連最高軍事法廷(カンドイビン裁判長)
名越健郎 「クレムリン秘密文書は語る」闇の日ソ関係史 中央公論社
『私の想うこと』
昭和13年(1938年)1月3日、新劇女優の岡田嘉子と演出家の杉本良吉は国境慰問に名を借りて樺太(現サハリン)を越えてソ連に亡命した。
この愛の亡命は岡田嘉子があまりに有名な女優であったため日本国内に大きな衝撃を与えた。
杉本良吉には病弱な妻がいた。
ロシア演劇を研究していた杉本良吉は治安維持法による逮捕歴もあり、左翼演劇が弾圧される中、労働者の祖国であるソ連に対し大いなる夢を抱いたのであろう。
しかし、労働者の祖国が実はスターリンの独裁国家であると気づいた時には死刑判決が待っていたのである。
杉本良吉はソ連に対していかなる罪も犯していない筈である。
杉本は最後の最後まで自分の運命を信じられなかったのではないだろうか。
生き残った岡田嘉子は流刑にされたがモスクワにおいて演劇を勉強することを許され、戦後は日本に里帰りもし、最後はモスクワのアパートで没した。
その十二
♪ お国の為とは云いながら
人の嫌がる軍隊へ
志願で出てくる
馬鹿もいる
可愛いスーチャンと泣き別れ
『私の想うこと』
軍歌・軍国歌謡のように社会の表面には現われず大衆の間でそれこそ小声で歌われ続けてきた歌である。ここには「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の・・・・」という歌詞で有名な「戦友」の重い感傷・悲壮感もなければ、「若き血潮の予科連の腕はくろがね桜に錨・・・・」という「若鷲の歌」のような若い昂揚感もない。
ただ運命に流されていく日本人的な厭世気分とあきらめがあるだけである。
しかし、この中にこそ日本の兵士の本音があった。
「聖戦」といい「大東亜共栄圏」というも兵士の心情からは程遠いものがあった。
その十三
大阪のカレドーニアによく行きし友の二人は戦死し果てぬ
『私の想うこと』
大西巨人 春秋の花 (光文社文庫・一九九九年)から引用させていただいた。
大西巨人氏はこの短歌の作者を「失名氏」としている。
戦争中に新聞の短歌欄で発見したが作者の名前を覚えていないそうである。
大西氏はこの歌の「カレドーニア」とは喫茶店か何かではと推定されている。
私にとってこの歌は不思議でならない。
この歌の持つ哀しさは何だろうかと思ってしまったからである。
「厭戦」的でもなく「反戦」的でもなく「非戦」的でもない。
それでいて何か友を失った者の哀しみが滲みでているのである。
仲のよかった仲間なのだろう。
いや、喧嘩ばかりしていたかもしれない。
しかし、その関係性は永遠に失われたのである。
気取りも作為もイデオロギーもなく淡々と詠まれていることがいっそうの哀しみを誘うのである。
その十四
一九四二年(昭和十七年)五月十六日、司法省より事件発表。各新聞は、国際諜報団云々のセンセイショナルな見出しで、ゾルゲ・尾崎事件を報道―――
郷里から兄が商用を兼ねて上京して来た。東京の新聞を眺め、にがりきった表情で沈黙をつづけていたが、
「この近所の人は、ゾルゲさんとお前のことを知っているのか?」
「いいえ、だれも知りません。ゾルゲはわたしの病気のとき、二、三度見舞いに来ただけで―――知っているのは憲兵と警察です」
「そうか、お前もう東京を引きあげたらどうだ。そのほうが安全だと思うが・・・・郷里では、父はお前のことを知らないし、だれにもわからない」
「いいえ、帰りません。東京を離れることは出来ません」
「そうか。尾崎秀実ほどの人物でも、共産主義の人には、こうしたことはあることで、善い悪いは見る人の見解によって相違するが、お前尾崎さんを知っているか?」
「会ったことはないと思いますけど、ゾルゲはわたしと尾崎さんと結婚させようと考えたのです。尾崎さんが結婚していたことは、去年の六、七月ごろもでゾルゲは知らなかったのです。もし尾崎さんが殺されればゾルゲは泣きます。ゾルゲは自分だけが死ぬ覚悟でしたし、わたしもそれを覚悟させようとしました。ゾルゲは日本人を愛しています。あの人は人間の可哀そうなのをじっと見ていられないのです。そういう人なのです」
「お前が尊敬し、愛した男だから。世間がどんな目で見ようと、今後また、お前にどんな障りが起きようと、お前はいったんこうと思い込んだら、だれの言うことも聞く人間ではないから、わたしはもう何も言わないが、母は気を落としてしまっている。事件を理解したのではなく、お前が可愛いから、ゾルゲさんもいたわしく思うのだ。自分の寿命はもうないから、ゾルゲさんを生かしてくれと、神様に祈っている。母と子の無条件な愛情だ。お前が田舎へ帰らぬかぎり、母もお前のそばを離れないだろう」
兄は三、四日滞在して帰って行った。そのある日、
「お前、少し、仏教の本を読みなさい。私は今、いろいろ日本的なものを読んでいるし、寺へも行って坊主とも話している」
「兄さんは社会主義者でクリスチャンでしょう。もうよしたの?」
「だんだん思想が変って来た。日本は神国だ。われわれは皆神さまの子だ。神さまの子が戦って負けるということはない。お前も日本に生まれたことを有難いと思わなければいけないよ」
「日本だけが神さまの国で、日本人だけが神さまの子、それは変ですよ、兄さん」
「お前は外人と暮らしたからわからないんだ。今に見ていてごらん。神風が吹いて、アメリカなんか負けてしまうから―――物質文明の崩壊だ」
「そうですか、わたし生きられるだけ、生きてよく見ます。ゾルゲを殺すであろうわたしの国の野蛮人どもが勝つか、物質文明を誇るアメリカが勝つか、また戦争がどれだけ、日本国を偉大にし、国民を幸せにしてくれるものか、何もかも見とどけるのです。戦争がどんな状態になっても、わたしだけは東京を離れません。少しでもあの人に近い場祖に生きていたいのです。あの人が殺されれば、何かをわたしに感じられないことはないでしょう」
「刑死者と自殺者の魂には、安住の地はないというから・・・・」
「あの人の魂は東京の空の下をさまようでしょう。わたし一生東京を離れません!」
『私の想うこと』
愛のすべてを <人間ゾルゲ> 石井花子 鱒書房 より引用した。
リアルト・ゾルゲはソ連赤軍諜報部のスパイ。
上海でイギリスのジャーナリスト、アグネス・スメドレーの紹介で、朝日新聞記者尾崎秀実と知り合う。その後、ドイツのナチ党籍を得て新聞特派員として来日。
諜報団を組織。
ソ連に日本の政治・軍事情勢を無線でクレムリンに報告していた。
石井花子は銀座にあったビヤホール「ラインゴールド」でゾルゲ知り合い、お互いに愛し合うようになる。そしてゾルゲの諜報団は逮捕され、ゾルゲと尾崎秀実は治安維持法・国防法違反で処刑された。
しかし、彼等の活動は全て合法的なものであり、むしろ、得た情報の分析力において優れていたことのほうが注目されている。
ゾルゲは最後まで日本とソ連の捕虜交換で自分は救出されると信じていた。
上記、石井花子の文章で私が考えさせられるは、人間、何を信じるかではなく、どのように信じるかということなのかということであると思えてくるのである。
石井花子の兄はクリスチャンでありまた社会主義も信じていたのであろうが、歴史に流されていくさまがよくわかる。
しかし、石井花子は違う。
兄の「日本は神国なのである」という無内容な言葉は信じない。
もっとリアリストなのである。
兄よりも戦争の趨勢が見えていたのかもしれない。
石井花子は戦後も生き延び放置されていたゾルゲの遺骨を探しお墓を立てたのである。
その十五
一九四二年七月一一〇大隊ハ莱蕪県九頂山デ瓦斯弾ヲ以テ平和人民老幼農民十五名ヲ殺害シ、一九四五年六月一一一大隊ハ海陽県索格荘デ農民三十四名ヲ初年兵刺突教育ヲナシ虐殺シマシタ。
作戦進行中主食ノ不足及ビ副食物ヲ掠奪シ、根拠地討伐ノトキ私ハ軍民遮断ノ目的ヲ以テ覆滅ノ命令ヲ下シタコトガアリマス。ソレ故殺害、放火、掠奪、拷問等ノ罪行ガ尚更惨酷ニナリマシタ。人民暴行、中国婦人侮辱等モ多クアリマシタ。一九四五年五月所謂秀山領一号作戦ノトキ沂水県東西依蚊ブン荘デ只一回ダケデ民房四〇〇余間ヲ焼却破壊シマシタ。
長島勤(1955年5月30日記)撫順
『私の想うこと』
1956年に中国において戦犯として逮捕拘禁され戦争裁判で有罪とされた日本人四十五人のうちの一人の自筆供述書。
1949年に成立した中国共産党政権は日本人戦犯を撫順に戦犯管理所に集めた。
そして、彼等に自発的に自分の罪を認めさせるように教育したのである。
供述書を書いた先般の中には張作霖爆殺の首謀者であった河本大作を始め「満州国」高級官僚・司法官・将軍・将校・憲兵・兵士が含まれている.
もともと日本軍は外征軍として、アジア・太平洋地域において食糧などを現地調達するという現地の人々にとっては最悪の方針を貫いたのである。
これで現地の人々を「宣撫工作」が出来るわけがないのである。
その上、占領地は点しか確保できず、線にも面にもならないとなれば、ゲリラ戦への恐怖・中国人への蔑視なども加わり、「奪い尽くし、殺し尽くし、焼きつくす」という「三光政策」を取らざるを得なかったのである。
また、特筆すべきは軍中央の意図を越えた残虐さを持っていたことである。
どんな兵士であれ、食糧自給が出来ず、敵地の点しか確保できず、四方を敵に包囲されている状態ではこうなってしまうであろう。
そのことを右自供書は簡潔に語っている。
その十六
「明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競い、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。本日、この思い出多き地に於いて、近く入隊の栄を担い、戦線に赴くべき生等のため、かくも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示忝(かたじけな)くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等(せいら)の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措(お)く能はざるところなり。思うに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃壤払拭(ふっしょく)し、その東亜侵略を拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確固として磐石の如き基礎の上に着々として進捗(しんちょく)せり。
然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は日を追って、熾烈(しれつ)の度を加え、事態益々重大なるものあり。
時なるや、学徒出陣の勅令公布せらる。予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外に優渥(ゆうあく)なる趣旨を奉体して、近く勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。また奮起せざらんや。生等(せいら)今や、見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精神研鑚を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を帰せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍(しかばね)を乗り越え乗り越え、邁往(まいおう)敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳(ふがく)の寿(やす)きに置かざるべからず。かくの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。生等謹んで宣戦の大召を奉戴(ほうたい)し、益々、必勝の信念に透徹(とうてつ)し、愈々不撓不屈(ふとうふくつ)の闘魂を堅待して決戦場裡(じょうり)に突進し、誓って皇国の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。
決意の一端を開陳し、以て答辞となす」
出陣学徒代表・江橋慎四郎
『私の想うこと』
1943年10月21日、徴兵猶予が停止された法文化系大学生の壮行会が明治神宮外苑競技場で出陣学生他在学生5万人を集めて雨天決行された。
雨の中東条英機首相の燗高い声の訓示が響き渡るにニュースフィルムを御覧になった方も多いであろう。フィルムを見ている限り「悲愴美の極致」と言えるかもしれない。
また、1941年12月8日の開戦の日の湧き上がるような感激から見ると、数年にして戦況は暗転。
この学徒壮行会も日本的なあまりに日本的な光景のように思えてくる。
出陣学徒代表として答辞を述べた江橋慎四郎東京大学文学部在学中。
戦争を生き延びて戦後東京大学教授になった。
しかし、この学徒壮行会についてはほとんど何も語らなかったと言われている。
その十七
正憲 紀代子へ
父ハスガtコソミエザルモイツデモオマエタチヲ見テイル、ヨクオカアサンオイイツケヲマモッテオカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ、オッシテオオキクナッタナレバジブンノスキナミチニススミリッパナニッポンジンニナルコトデス、ヒトノオトオサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。「マサノリ」「キヨコ」ノオトオサンハカミサマニナッテフタリヲジット見テイマス。フタリハカヨクベンキョウヲシテオカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトオサンハ「マサノリ」「ノリコ」ノオウマニハナレセンケドモフタリナカヨクシナサイヨ。オトオサンハオホキナジユウバクニノッテテキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。オトオサンニマケナイヒトニナッテオトオサンノカタキヲウッテクダサイ。 父ヨリ
マサノリ キヨコ フタリヘ
『私の想うこと』
これは久野正信中尉の5才の長男と2才の長女に宛てた遺書である。
子ども達が手紙を早く読めるように、カタカナで書かれている。
久野中尉は、昭和20年5月24日「義烈空挺隊」の飛行隊(第3独立飛行隊)の特攻として沖縄にて戦死。
享年二十九。
戦死後三階級特進して中佐。
戦後、多くの学生・知識人・軍人・労働者・農民・若者などの戦争中の遺書・手紙などが編集されて本になってきた。
しかし、時代が過ぎていくにつれて政治的な観点から、大東亜戦争は正しかったのだ、とか、日本はアジアの独立を助けたのであるとか声高に叫ばれるようになった。
しかし、このような遺書・手紙の類の書物の多くは、現在は、町や村の公共図書館の中に誇りをかむって静かに眠っているだけかもしれない。
この久野中尉の子供宛ての手紙を読んで愛惜を感じない人はいないであろう。
このような子どもを思う気持ちやまた肉親を思う気持ちを書いた遺書・手紙の類を静かに読んでみる必要が今こそあるのではないかとつくづく思う。
その十八
遠き日の石に刻み
砂影おち
崩れ墜つ
天地のまなか
一輪の花の幻
『私の想うこと』
原民喜が、妻・貞恵さんの1回忌を直前にした1945年8月6日に、基町の自宅で被爆して生き残ったのは、運命の皮肉でした。
原爆死をまぬがれた彼は、「今、ふと己れが生きていること、その意味」にハッとはじかれ、「このことを書き残さねばならない」と思いました。
その体験を記録的な小説に書いたのが「夏の花」です。
その後彼は、数編の小説を書きましたが、
朝鮮戦争がはじまった翌年の1951年3月13日、歴史の暗い未来を予感して、東京で鉄道自殺をとげたのでした。
この詩碑は、1951年11月、彼の友人たちの手で、広島城跡に建てられました。
その十九
八月十五日
警報。情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。
天皇陛下御自ら御放送をなさるという。
かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。
「何事だろう」明日、戦争終結について発表があるといったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜るのだろうか。
それとも、−−或いはその逆か。敵機来襲が変だった。
休戦ならもう来ないだろうに・・・・・・。
「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」
と妻が言った。私もその気持ちだった。
ドタン場になってお言葉を賜わるくらいなら、どうしてもっと前にお言葉をくださらなかったのだろう。
そうも思った。十二時近くなった。ラジオの前に行った。(中略)
十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であった。
君ガ代奏楽。つづいて内閣告諭。経過の発表。
−−遂に負けたのだ。戦いに破れたのだ。
夏の太陽がカッカと燃えている。
眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。
蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。
『私の想うこと』
文学者高見順の「敗戦日記」から引用した。
終戦の8月15日を迎えた知識人の典型的反応である。
多くの人々の反応は開放感と虚脱感の入り混じった複雑なものであった。
昭和の長い第一幕は終わりを告げたのである。
これからまた長い第二幕が始まるのである。
その二十
これからは皆さんがこの会社の代表となって働かなければなりません。しっかり頑張ってください。いろいろお世話になりました。これからこの撮影所が中国共産党のものになるにしろ国民党のものになるにしろ、ここで働いていた中国人が中心になるべきであり、そのためにも機材をしっかり確保することが必要です。
辞世の句
大ばくち もともこもなく すってんてん
甘粕正彦
『私の想うこと』
終戦の8月20日に甘粕正彦は青酸カリを仰いで自決した。
上の言葉は理事長をしていた満州映画の中国人従業員に語った言葉である。
関東大震災において社会主義者の大杉栄、その妻の伊藤野枝、その甥の橘宗一を憲兵司令部に拉致・殺害した下手人として有罪判決を受けた甘粕は出獄後、満州に渡り満州の夜の支配者として恐れられた。
しかし、満映運営にあたっては出来る限り国策的映画を排し、中国人にも対等に接しようとしたそうである。
その二十一
・・・・略・・・・・。
ある小さな分遣隊の話しである。敗戦の報がもたらされたとき(たぶん十五日より数日おくれていたろう)隊員全部が号泣したそうである。それから寝てしまった。翌日、眼がさめると、彼らは一斉に帰国準備の身支度に取りかかった。報道斑に属していた民間人通訳が一人いて、彼の体験はこうであった。彼は中国人のなかにいって、純中国的に暮らしていた。敗戦の報をきいたとき、彼は、これでもう太陽がふたたび上がることはあるまい、と思ったそうである。そして寝た。翌日、目がさめてみると、太陽はまたも上がっているではないか。この話は、彼が報道斑へ来たとき、笑いながら私たちに語ってくれた事実談である。私も笑いながらきいたがだんだん笑えなくなった。侵略者に自由はない、ということをこれほど痛切に私に教えてくれたものはなかった。彼は純情な青年で,日本の国策便乗型の専門学校を出ていたのである。中国人のコドモを自分の子のようにかわいがっていた。将校ともよくケンカをした逸話の持ち主である。終戦後、間もなく、私は営内の医務室へいった。いつものように、患者がむらがっていた。若い幹候あがりの軍医が、突然どなった――おまえたちのような弱い軍隊がいるから、戦争に負けるのだ。その声はどなったというより、うめき声に近かった。「敗戦」というコトバをそのとき、軍隊ではじめて、私はきいた。軍医は、ひとりでどなっているが、兵隊は黙々としている。軍医の孤独の心が私にしみていった。兵隊たちにもしみていったにちがいないが,兵隊は無表情であった。しかし、将校の中には、もっと上わ手がいた。これは私の元の中隊長である。私と前後して、大隊本部付きとなり、さらに旅団の参謀になった。東京近郊の有名な神社の神官の息子で、大学を出ている。私はこの男から、入隊早々に,帯剣でなぐられ、土手の上からつきおとされた。中隊長が直接兵隊に手を加えるなど、普通はないことだが、この男は横紙やぶりのところがあって、それを平気でやった。その横紙やぶりのところが私はすきだった。しかし、偏執狂的で残忍なところはきらいだった。彼は、二等兵の私を作戦のときいきなり命令受領に任命した。終戦後も,軍隊の規律は急にはくずれない。ある朝の点呼のとき、彼が当番仕官であった。彼はマントをはおって(夏だからマントはおかしいが、私の記憶ではそうなっている)整列の前にあらわれた。そして例によって軍人勅諭の斎蒋になると、彼は異例なよみ方をした。
「我国の稜威振(みいづ)はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ」
これは私にショックだった。何げなくよみ過していた勅諭に、この緊迫した表現がふくまれていたことを知って、明治の精神をあらためて見なおした気がした。しかし、この将校が私にこっそり「民主主義とは何か」とたずねたときは、私はユカイになった。私は「五ヶ条の御誓文」を引用して、自分でも不確かな民主主義の定義をせつめいしてやった。 竹内好 「屈辱の事件」
『私の想うこと』
中国文学者の竹内好が書いた敗戦に関する簡にして要を得たエピソードである。
敗戦を知り号泣した兵士たちが翌日は帰国の支度を一斉に始めているのである。
この当たりの心の有り様というものが一般的なものなのかまたは日本人独特のものなのかが理解しがたいところがある。
また中隊長が「民主主義とは何か」と聞き出すと著者の竹内好が「五ヶ条の御誓文」を思い出して教えるところなどはユーモアがある。
しかし、竹内好は天皇側近が考えていた民主主義の精神は「五ヶ条の御誓文」に書かれていると考えているところが鋭い。