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危ない「自分探し」

目次 


   第1章    「自分探し」は生きるための「場所探し」

第2章  
 アナウンス効果による「自分探し」

第3章   「大人」の退行現象としての自分探し

まえがき

危機の時代には自分というものの「あいまいさ」「不透明さ」というものが不安になってきます。

ましてマスコミによって「現代はこころの時代」だと

それこそ選挙活動のように何回も何回も刷り込みをされると

いつのまにか「自分ってなんだろう」と思えてくるのも自然の成り行きです。


「人生、こう生きるべきだ」という規範が崩壊しつつある社会においては、

自分の越し方、内面を振り返ろうとするのもそれこそ人間らしい無意識の反応かもしれません。


「自分探し」という言葉はもともと大学のキャンパスにおいて学生が用いるようになった言葉です。

しかし、現在においては大学生以上の年齢の全ての世代に広がっているように見えます。

この本においてはこのような社会現象としての「自分探し」を取り上げその功罪について語りたいと思います。

第1章 「自分探し」は生きるための「場所探し」

個々の人々が用いている「自分探し」という言葉は

ある種の雰囲気は伝えながら言葉自体の届く射程距離は千差満別です。

ある種の「ムード」は伝えるが実体的にさしているものは実にあいまいとしています。

このような「自分探し」というある意味で無定義な用語を

あえて種類分けしあえて定義すると以下のようになると思われます。

 @    未来の職業選択のための自分探し

これは最も狭い意味で用いられていた「自分探し」の原型でしょう。

この不況下でキャンパスの大学生たちが将来の就職に対して持つ

「漠然たる不安」が招いた素朴な疑問です。

「かくある自分」対「かくありたい自分」または「かくあるべき自分」との

相克・矛盾が導き出したものです。


A    過去の自己史の中に埋まった自分探し

自費出版が流行しています。

200ページ前後の本を自費出版すると一般的には150万円近い費用がかかるでしょう。

新車一台分くらいの出費で本を出版できるならばと思えるほど日本は豊かになったのでしょう。

そして自費出版の多くが定年を迎えた、また迎えつつあるサラリーマンの過去に対する個人的回想です。

その中で自分の過去を記録し、愛惜し、また意味付けをしようとしているのです。

これは「自分がやってきたことは一体何だったのだろう」という

ある意味での人生の区切りをつけるための「自分探し」です。

「かくあった自分」対「かくありたかった自分」または「かくあるべきだった自分」との

相克・矛盾を確認しようとする潜在意識が生み出したものです。

B 自分の「ルーツ」はどこにあるのかという自分探し

もう少し広い歴史的過程の中で自己の存在を考える「自分探し」です。

これは常に「現代」という時代の先端を生き続ける現代人にとっては無意識の希求になっています。

特に敗戦後58年過ぎたアジアの島国である日本に生きる自分というものを世界史的・国際的に

跡付けしたいという願望から始まる自分探しです。

C 「正常」と「異常」のはざまでの自分探し

 これが最も現代的な「自分探し」かもしれません。

「正常」と「異常」の区別がひどく難しくなった時代に

心的に自分にも異常なところがあるのかなあ、とか、

もしかしたら自分は多重人格ではという不安と憧れ(?)から生まれてきた自分探しです。


以上の四種類に分けてみましたが、「自分探し」は基本的にはこのカテゴリーの中のどれかには入るでしょう。

しかし、これらの「自分探し」が流行しているのはどういうことなのでしょうか。

やはり社会規範の崩壊というものが最大の不安を掻き立てているものと思えます。

それは次のような具体的現象がこの事態を暗示していると思えます。


@  大人自体が生きることに自信がない。

A  大人が親として子どもに接する自信がない。

B  現在の大人がめざした世界が今の事態を呼び寄せている。

以上のように言うことができると思います。

例えば私の世代はいわゆる団塊の世代、または全共闘世代と呼ばれています。

この世代の人間なら誰もが覚えているスローガンに「造反有理」という言葉がありました。

この政治的意味合いは別にしてこの言葉の言わんとしていることは

「大人にはいくら反抗してもそれは正しいのだ」

という考えだと思えます。


このような若者が親になった時に親としての権威も否定するのが論理的に正しいことになります。

そしてこれを「子育て」の信念として生きて来た方もおいでになるでしょう。

この「造反有理」を子育てに適応すると子どもが言うことは正しいのだ、ということになります。


簡単に言ってしまえばこの路線で終始「子育て」を語っているのは評論家の芹沢俊介氏です。

私はこの評論家の子育ての本を読みながらいつも「全然違うぜ」と思っています。


それは主義心情の問題というより、何か、頭で作られた子育ての本を読まされているようで

どうしても否定的になってしまうのです。

芹沢俊介氏の理論を適応すれば親は子どもの前では

「すべての子どもの欲望」を肯定するという路線が登場します。

親はそれを無限に受け入れる器という図式が成立します。

ここには確かに孫悟空に対する釈迦の如き「慈悲」というものが感じられなくはありません。

親は「観音大菩薩」状態です。


これは全共闘世代の他者を強烈に否定してきたことに対する反動のように私には思えて仕方がありません。

自分で作ったイデオロギーに対して自分で対抗イデオロギーを作っているようにしか私には思えません。


それに当時「自己否定」という言葉がよく学生の間で使われていました。

これはそれこそイデオロギー的に言えば「学生という特権的存在である自己を否定すること」でしたが、

芹沢氏はこの熱烈な信奉者であり「親であることの自己否定」に辿りついたのでありましょうか。

2章 アナウンス効果による「自分探し」

アナウンス効果とは

「ある現象が新聞・テレビ・雑誌などのマスメディアにより何度も報じられることにより

その現象がいっそう頻発しかつ拡大化していく」


ことをさします。

典型的な例は新聞で連続的に報じられている複数の男女による集団自殺です。

これはインターネットで知り合った自殺願望の男女がメールでお互いに連絡を取り合い

ある日突然自動車に眼張りをして練炭を燃やし一酸化炭素中毒によって死に至るという事件です。


この半年間に6件の事件が報じられています。これは典型的なアナウンス効果というものでしょう。

自殺の方法が6件ともまったく同じというのはやはり異常です。

後から自殺する者が前者の例をコピーしたとしか判断しようがありません。


新聞が客観的報道の役割を果たすのは当然ですが、

それ以上に記者の主観は別にして新聞が自殺方法を示唆していると思う人もいるのでしょう。

しかし、集団自殺した人々を非難するようで心苦しいことですが何という金太郎飴的自殺方法。

独創性はどこにもありません。自殺の方法までも画一化されています。

今の世の中は生き方が管理化されていると識者という連中がよく批判しています。

しかし、そんな言説を飛び越えて今の世の中自殺の仕方までも

管理化されているようで怖い気持ちがします。

これこそ自殺の体制翼賛化と言えばいいのでしょうか。

つまり自殺にさえがトレンドになっているのです。

まして「自分探し」がトレンドになっても不思議はないでしょう。


これを一昔前の言葉で言えば「自己のアイデンティティを求めて」という言葉になるのでしょう。

アイデンティティというものは運動することによってしか確立できないものではないのでしょうか。


この場合、運動とは実に素朴な意味で使っています。

つまり体を動かし外に出て様々な人々と出会いそこから自分の相対的な存在を気付ことです。


この相対性の中にありながら自分固有の確固として動かないもの、

これが「アイデンティティ」という奴であり「自分」という奴ではないでしょうか。

そういう観点からインターネットのホームページの掲示板を見ていますと

実に自己愛に溢れた言葉が掲載されています。

その上、困ったことにその言葉がすべてストレオタイプ化された言葉で表現されていることです。

またそのような自分の苦しみを訴えている文章に対して

励ましの言葉で応じている人々の投稿がどうみてもおざなりで軽い文章のように思えて仕方がありません。

もしかしたら、この人たちは苦しいと言いながら

実はその自分が作り上げた苦しさを楽しんでいるのではと疑いを持ってしまいます。


そしてその「生きるのは苦しい」「生きるのに疲れた」という実に曖昧模糊とした気分の下で

一種の擬似連帯感を弄んでいるようにも思えてきます。


もしそうであればそれはそれきりで終わりです。

どちらにしても「それはみんな間違いだよ」とどうして大人は声を大にして言ってやらないのでしょうか。

それどころか「若い時には悩むのは当然だ」、また「自分探しはいいことなのだ」

というある一面から見るとまったくの正しさを仮装しながら

実はこのような若者に媚びているのではないでしょうか。


しかし本当に「自分探し」に苦しんでいるとすればそれは

「過剰な自己愛による自己に対する盲目化」であり

「自分は何者でもない、しかし生きていく資格はあるんだ」

という人間としての逞しさに欠如しているだけなのでしょう。

しかしどうしてこういう風に言える大人がいなくなったのでしょうか。

もちろんそれはバブル崩壊によるこの「失われた十年」の間に

大人がまったく自信を無くしてきたという事実が大きいのでしょう。

しかしそれよりもなによりもその大人自身が若い頃、学生の頃に、幼児化を

脱皮してこなかったことが大きいのではないでしょうか。

つまり今の日本の家庭は

「幼児化を脱皮できないままの親と幼児そのものの子ども」

の集団に成り下がっているのかも知れません。

親が子どもを駄目にし子どもが親を駄目にし両方の力で家庭を駄目にしていっているのです。

お互いが負の影響を及ぼすことによってお互いを駄目にしていっているのです。

これは自民党が民主党を駄目にし民主党が自民党を駄目にし、

議会政治が駄目になっていくという構図に瓜二つです。

土台、家庭の中で

「俺ってこの家庭の中で何なのだろう」

と父親が考え

「私ってこの家庭の中で何なのだろう」

なんて母親が考え

「ぼくってこの家庭の中で何なのだろう」

なんて子供が考えている。

こんな家庭を想像しただけでゾッとするものがあります。

この段階で家庭は崩壊しているのです。

社会的に言えば「高学歴化による人間の幼児化」なんて言えばいいのでしょうか。

高学歴化すれば人間は偉大になるというのは幻想だったのでしょうか。

高学歴化すればするほど「自分探し」が流行していくというのは矛盾ではないでしょうか。

いやそうではない、高学歴化したということは社会が豊かになり

それだけものを考える能力も備わりまた考える時間も増えてきたことを意味する

という意見に私も反対ではありません。

それこそ積極的に賛成したい気もしてまいりますが、

しかし、誰もが何かが違うと考えているのではないでしょうか。


この何かが違うという場合に一体何が違うのでしょうか。

これはこの10年真面目に生きることが何処かで否定されてきたことに関係があるのだと思います。

「真面目であること」が最大の徳目だった筈なのに何処かでこの流れが裁たれた時があったのです。

それはきっとバブルの時代なのでしょう。

バブルの頃をマスコミは日本人は浮かれ踊っていたなんて批判していますが、

当時の新聞を細かく読めばよくわかりますが、

新聞は一般の人々の利殖についての特集などを何度も組んで

額に汗せずに儲ける方法を一生懸命紹介していました。


そのことが人々の生き方に真面目に生きるのが

バカらしいという意識を植え付けたことは何人も否定できないでしょう。


そういう意味においては「自分探し」をしている人々はある意味で真面目な人々かもしれません。

しかし、「その真面目さ」はもう昔の真面目さとは違っているのです。

それは昔の肉体化された無意識の真面目さではなく内向的な自我肥大化した真面目さなのです。

「真面目さ」さえが演技になっているのです。

そこが昔と決定的に違うところです。

それだけ私たちが醒めた意識で生きているということかもしれません。

正確には醒めた意識で生きていくしかないということかもしれません。

私たちはこのような「真面目さ」と「演技としての真面目さ」の間で懸垂状態になっているのです。

どこかで「ひたむきにならないと」と思いつつ「そのひたむきさ」を

「ださい」とか「うざったい」という言葉で笑ってしうまいたい衝動に駆られてしまうのです。

この病気はポストバブル時代の最大の特徴ではないでしょうか。

このように真面目に生きることを笑ってしまうということは日本においては始めてのことではありません。

1945年の敗戦の後のもありました。

それまでの日本の支配体制が音立てて崩れ去った時代です。

今まで真剣に生きてきた徳目がすべて否定されたと言っても過言ではありません。

すべてが変革の坩堝に中に叩き込まれたのです。

真面目であることがどういうことなのか。

自分の生と死をかけて誰もが生きてきたことが何だったのか、

誰もが考えざるを得ませんでした。

しかし当時の人々の記録を読んでも不思議になるのは誰もが底なしに明るい点です。

日常生活が完全に破壊されるという無の中から全てを再建していかなくてはならないという

大変厳しい事態の中でこの明るさは不思議です。


東京では食糧不足のために餓死者が出ていた時代です。

その時代と現代を比べてどうして現代の方が暗いのか。


これこそが不思議です。

いくら「豊かな社会がもたらす必然的な結果」と言われてもどうも納得できかねるところがあります。

これは我々の心の閉塞性がもたらすものでしょうか。

現段階においてこれからの日本の将来を明るく描くことができる人はいないでしょう。

もしいたとしてもそれは昔のジャパンアズナンバーワン的な発想をもっているいいかげんな評論家くらいでしょう。


このような国家自体が「自分探し」をしているのが現在の日本の置かれた厳しい状況かもしれません。


第3章「大人」の退行現象としての自分探し

生理的年齢と同じプロセスを辿って「大人」になることが出来たのはもはや過去の話となりました。

例えば「アドルト・チルドレン」という言葉がありますが

これは心理学用語としては「アルコール依存症の父を持つ子ども」という意味で使われるのが

正しい意味内容でありますが

今では「大人でありながら子どものように成熟していない人」をさすようになりました。


今の日本にはこういう大人が溢れているのかもしれない。

成熟しきった社会に未成熟な大人が溢れているというのが現在の日本の特徴です。

そういう視点から現代の日本を見てみると


@  大人が若い者の真似をしようとする。

A  若者に迎合しようとすること。

B  大人文化の崩壊。

などということが頭の中に浮んでくるかもしれない。

これを角度を変えてみれば

「いつまでも結婚しない、または結婚できない」

例え結婚したとしても親として自信がないので

「子供を産まない、また子どもを作らない」

という心的な傾向を生んでいるのかもしれません。

ここではもともと子どもというものは親の経済的状態を越えた

神からの授かり者であるという一種敬虔な想いは跡形もなくなっています。


昭和初期の貧しい労働者のために産児制限運動というものが全世界的に発生しましたが、

そういう事態とはまったく関係のないただ自分のエゴから生じた少子化時代にしか過ぎません。


中国の産児制限がある意味の国家的エゴの産物だとすれば日本の少子化は個人エゴの産物なのである。

もちろん、結婚する、子どもを育てるということは

大人になるための必要条件でもなければ十分条件でもありません。


当然、そういう風になっても子どもを育てることができない親が存在します。

親としての動物的な子どもを想う心さえ退化しながら自分探しをしてもそれは無駄というものでしょう。


もしかすると日本の親は永遠に終らぬ「子供時代」を生きているのかもしれません。

これは既にモラトリアムという言葉ではすまない状況です。


子どもを折檻して餓死させる、子どもをアパートのベランダから放り投げて死なせる、

などという行動はこれが実の子どもに対する仕打ちであろうかと

他人を慄然とさせるものがあります。


いつの世にもこういう親はいたという人がいるかもしれませんが

あきらかにその質は変わってきているように思えます。


どこで親としての「タガ」が緩んでしまったのか。

このことといつまでも「自分探し」をしている大人という現象には当然相似関係があるはずです。


どちらもまったく成熟していないというところで一致しているのでしょう。

前者がある意味で確信犯的であるとすれば

後者はただ懐疑的であるという差に過ぎないように思えます。


こういう風に書いてくると昔の「父親」とか「母親」とかが

立派であったという別な虚偽の世界にはまっていってしまう恐れがあります。


当然のことであるが、昔から駄目な大人はいたし、駄目な父親も駄目な母親もいました。

それは間違いのない事実でしょう。


しかし、昔の大人や親はそのことを自覚していたのではないでしょうか。

「私はバカな大人でです」「私はバカな親です」

と語る時にはある種の恥かしさを持って語っていたような気がしてきます。


そこには子どもに申し訳ないとか、どこか自分に対するケジメのようなものがあった気がします。

ところが今はそれさえもない現象が起こっています。


例えば自分の一人息子に「悪魔」君という名前をつけた親がその典型でしょう。

言論の自由もあれば名前を親が勝手につける自由もあるでしょう。

しかし、それには許容範囲というものがあります。

境界線というものがあります。

現代はこの境界線が当人である親には見えない、

またはいとも簡単に打ち破ることのできるものに成り下がっているのでしょう。

                              ・・・未完・・・

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