多摩川を渡った田園都市線は高架橋のまま溝の口駅へ滑り込む。かつて田園都市線が大井町線と名乗っていた頃の終着駅である。当時のホームは地平にあり南武線の線路に妨げられるように止まっていた。「もはや戦後ではない」という掛け声とともに幕を開けた昭和30年代。人々は「所得倍増計画」をスローガンに「新三種の神器」のある家庭生活を夢みて働いた。そして経済大国ニッポンへの成長は右肩上がりに止まるところを知らないように思えるほどの伸びを示した。
昭和40年代に入ると、経済発展優先のほころびが社会のあちらこちらで見られるようになった。サリドマイド事件、砒素ミルク事件、服飾決算、大型倒産などなどである。しかし庶民は「3C」生活の夢に惑わされ、尚も経済発展第一主義の御旗を立てた企業進軍に手を貸していく。みんなで渡れば怖くないニッポン人の悲しき性である。
元旦に「ウルトラQ」の放映が始まった1966(昭和41)年の4月1日、南武線の線路を高架橋で飛び越して新しい鉄路が多摩丘陵の雑木林を切り開いて造られた。溝の口から長津田まで延長開業した大井町線は、この日から田園都市線と名乗りを変えた。
東急が多摩田園都市の開発構想を初めて持ったのは戦後すぐのことであった。もともと東急は土地開発会社と電鉄会社が基礎となって発展したという社史を持つ企業体なので、鉄道利用性という需要に対して鉄道敷設をという供給をおこなうのではなく、供給ラインを整備してからより確実な需要を喚起するという、いわば逆説的アプローチを企業文化として体得していた。この例は同社発祥路線の東横線や目蒲線(現:目黒線・多摩川線)において顕著であ
る。ひとつは何もない荒野に線路を引き駅を造り駅前を整備して住宅地として分譲する。これにより所定の輸送力の範囲内での旅客賃金が計算できる。もうひとつは住宅地から都心方向への通勤輸送だけでは片道にばかり旅客が偏ってしまい、下り電車の乗客が減ってしまって効率的ではない。そこで沿線に高校や大学などを誘致して、通勤旅客とは反対方向の流れを持つ通学旅客の需要を創出したのだった。大岡山の東京工業大学、日吉の慶応大学、
尾山台の武蔵工業大学と東横短期大学(これらは東急が経営母体)、今は駅名だけが残る学芸大学、都立大学などである。
田園都市線のほぼ中央に位置する街は、特に多摩田園都市の象徴としてデザインされ、アメリカの平均的な田園都市を規範に置いた街並み造りが実施された。人車が完全に分離した並木の美しい街路が整備されて、その名も「美しが丘」と命名された。ニュータウン恥ずかし地名の嚆矢といえる。
さて東急サイドも美しい街並みだけでは飛躍的な人口増は期待しえないし、乗客数にも限度があることから場所を区切って集団住宅群も併せて招致して人口増を狙った。こうして整備されたのが日本住宅公団(当時)の「たまプラーザ団地」だったのである。「たまプラーザ団地」は47棟から成るファミリータイプの3DKや3LDKが中心の総戸数1254戸のマンモス団地で、地元では「たま団」と呼ばれている。セブン放映の1968(昭和43)年に分譲が開始され入居が始まった。したがって#43「第四惑星の悪夢」や#47
「あなたはだぁれ?」のロケが行われたころは、画面からも見られるようにできたてのホヤホヤで、木々も植栽されたばかりで腰ほどの高さもなく、畑にただ鉄筋コンクリートの巨大マッチ箱が建ち並んでいるような光景であった。しかし35年という歳月は木々を樹木に変貌させた。5階建ての半分以上の高さにまで背を伸ばした樹木は、うっそうと緑をたたえていて、思いのほかしっとりと馴染んでいる。長い年月が鉄筋コンクリートの無機質感を樹木の生命感に一体化させたのであろうか…。何にせよ、白いマッチ箱に反射した陽光が木立のフィルターを通すと、妙に心地いいことを発見したのである。「たまプラーザ団地」は駅前の東急ショッピングセンターの裏手にあたる。東急ショッピングセンターから延びる陸橋を歩けばすぐにその敷地に入る。「あなたはだぁれ?」の舞台となった5−1棟は敷地内二つ目の四つ角を左折してロータリー状の広場の横。この広場あたりではタクシーを降りるサトウさんや派出所のカットが撮影されたと思われる。
「たまプラーザ団地」をあとに駅の方向へ戻る。駅前の電車と平行する道を東急ショッピングセンターを背に左方向に進路をとる。やがて右に湾曲しながらの上り坂となる。坂に差し掛かる信号には「たまプラーザ団地入口」の地名表示があるが、これは先ほどの「たま団」とは別で、信号から左に入る社宅群として分譲された一画の名称である。上り坂はかなりキツイ。「たま団」の周囲もキツかったが、多摩丘陵の険しい山坂がこのあたりのアップダウンの原因だ。坂を登りきると自動車の走行音と風切り音が鼓膜を刺激する。東名高速道路を跨ぐ陸橋だ。橋の名は「境橋」。その名の通り川崎市宮前区と横浜市緑区の境界にあたる。
「境橋」では、#43「第四惑星の悪夢」のラスト、ダンとソガが下駄天気予報をするシーンが撮影された。今歩いてきた方向からダンとソガもやってきたのだ。その二人の背景を彩った目を見張るほどの緑は、今はもうない。その代わり色とりどりのタイルや石材などで化粧されたマンションの林を見ることができる。自然を犠牲に発展した我々は、第四惑星に近づいてしまったのだろうか。それともすでに……。
「境橋」をそのまま進もう。道は左へカーブしたかと思うと急激な角度を持った下り坂になる。今しがたのカーブの下をトンネルでくぐりぬけた田園都市線がみるみる高架になってゆく。しかし正面を見据えると谷の部分でわき道と十字交差した後に同じくらいの角度を持った上り坂が行く手を阻んでいる。緑を根こそぎ奪い取っても自然の脅威はアップダウンとして我々の体力に挑んでくるのだ。やっとの思いで坂を登りきると左手が鷺沼駅である。
鷺沼といえば東急沿線で子供時代を過ごした方には忘れられないのが「鷺沼プール」であろう。川崎市営の公営プールながら波のプールやガーデンプールがあり、その奥には小学生以下お断りという公営プールとしては画期的ともいえる大人のプール、通称「六角プール」があった。その通り名は六角形が二つ重なったようなプール形状によられる。ふつう大人専用といってもなんだかんだでガキどもが入り込んでくるものだが、このプールの真骨頂はその深さにあった。なんと水深160CM!並みの身長の男でも爪先立ちでやっと口が水面より上に出る深さなのである。まかり間違って小学生がおぼれようものなら文字通り「必死」である。かような理由から鷺沼プールへ行こうとする小学生や小柄な婦女子は六角プールには近づかないようにきつく云われていたものである。
鷺沼駅から田園都市線に乗車して上り方面へ向かう。溝の口駅で下車して南武線に乗り換える。この駅、東急では「溝の口」、JRは「武蔵溝口」であり微妙に異なる駅名を名乗っている。そのせいか乗り換えも多少歩く。それでも再開発によってかつての不便さも少しは解消されたものの、折角南武線の真上を田園都市線の高架が直交しているのだからもっと便利な乗り換えは可能だと思う。
南武線で立川方面へ向かい登戸駅で下車する。次の目的地は小田急線の向ヶ丘遊園駅である。登戸からひと駅、歩いても500メートルほどの距離だ。登戸駅には文字通り猫の額ほどの広場があり、時が止まったようなたたずまいを残している。ここを抜けると線増工事の進む小田急線の線路沿いの道である。線路に沿って向ヶ丘遊園駅へぶらぶらと向かうことにする。道路が線路と離れて左へカーブを描くと貧相な高架橋が目の前を横切っている。2001年春に廃止となったモノレールの鉄路である。鉄路下を右に向かうとすぐに向ヶ丘遊園駅の駅前ロータリーである。
ここでは#08「狙われた街」のロケが行われた。駅出入り口付近には赤い結晶体入りのタバコを売る自動販売機が置かれ、駅に向かって左手の自転車置き場のあるあたりにあったビル2階のスナック「キャンパス」では、駅前を見張るダンとアンヌが撮影された。また、先ほどのモノレール鉄路下の道路だが、タバコを補充したVW製ワゴン車をダンとアンヌがタクシーで追跡するシーンで、2台とも水溜りの泥を跳ね飛ばしながら高架橋の橋脚らしきコンクリート
柱の横を走りぬけている。おそらくこの場所で撮られたものと推測される。
モノレールは向ヶ丘遊園駅と向ヶ丘遊園地を結ぶために建設された。向ヶ丘遊園地は当初生田緑地のあたりに計画されたが用地買収が難航して現在地に落ち着いたが、駅からは離れてしまったために来園者の便宜を図るため、駅前から遊園地入口まで豆蒸気を走らせたのだ。昭和40年代になって豆蒸気はモノレールに変貌を遂げたのだった。
向ヶ丘遊園地はウルトラシリーズロケ地の宝庫である。花の大階段やバラ園、園内遊具などが、シリーズの幾つかの作品に再三に渡って登場しているが、2002年3月での廃業が決定しているので、訪れるラストチャンスである。
向ヶ丘遊園駅から成城学園前駅へ向かう。多摩川を渡ると部分的に高架複々線化工事が完了した区間を快走する。成城学園前駅では南口へ降りて、二子玉川行きのバスに乗る。世田谷篇でも紹介したが、鵠沼から小田急線で美センへ通っていたダンの通勤ルートだ。バスは、ダンの乗降した東宝前を過ぎ、多摩堤通りに入る。「喜多見橋」停留所で下車して少し二子玉川よりへ進むと左右からの直線道路と交わる。水道道路である。
水道道路は、環状七号線高円寺陸橋にほど近い妙法寺(杉並区堀の内)の辺りからずっと直線で伸びてきている道路である。その名の通り道路下には水道管が埋設されていて、そのため路上は大型車が通行できないようにいたるところに関門がつくられているので、普通乗用車でギリギリ一杯の横幅しか通行ができない。そのため徐行を強いられる箇所がとても多く、ウラ道としての利用価値も低いので車ではあまり通りたくない道である。その水道道路が多摩川にほど近い砧浄水場まで一直線に伸びている。
多摩堤通りを横断して水道道路を多摩川方面に向かう。するとだんだんと道幅が狭くなってきた。右手に知行院という寺院があり、その先の交差点を右に曲がる。木立の多い交差路は狭い農道が交わっているかのような雰囲気だ。角にひっそりと構える商店もアイスキャンディが5円で買えそうな店構えである。レトロというか、セブンの頃にタイムスリップしてしまったかのようなデジャ・ヴーに襲われる。そう時間が止まっているような感覚なのだ。右折して200メートルほど進むとクランク状の交差に出る。左に折れてまた200メートル弱。右手に忽然と寺院が現われた。入口はこじんまりとしているが奥の方へ敷地は広がっている。アンヌの叔父が航空機事故を起こして亡くなり、その葬儀が営われた寺院である。ダンが弔問客の噂話を歩きながら聞いていたのが山門に至る道で、本堂では喪服姿のアンヌが叔母を慰めるシーンが撮影された。
慶元寺。江戸の地名を最初に称した桓武平氏の流れをくむ名門江戸氏の菩提所である。山門は1755(宝暦5)年の建立、本堂は1716(享保元)年の造建で、世田谷区内最古を誇るの建造物なのである。山門右手には源頼朝に仕えて名を挙げた江戸氏二代:江戸太郎重長の坐像が安置されている。戦前までの歴代東京市長は就任挨拶のためにここを訪問していたそうだ。
慶元寺前の道を尚も先に進む。道路自体が突き当たる喜多見中学校を迂回する形で回りこみ、やがて喜多見住宅の前に達する。この目の前を横切る道路もずっと直線だ。砧浄水場からの水道管が埋まっているのだろう。右へ曲がって歩くこと20分強、和泉多摩川にたどり着いた。
小田急線多摩川鉄橋の少し下流側。フクシン君が少年に夢を語った河原である。画面の背景には鉄橋を渡る小田急線が写っている。主にシルエットだが旧型車両であることは一目瞭然で、まさに隔世の感である。1974(昭和49)年の多摩川水害で、この辺りは撮影された当時とは随分と変わってしまった。二度とあの悲劇を繰り返さないために堰は巨大なものに改築され護岸も補強された。しかし休日ともなれば、釣竿を片手に川と対峙する人や水際で
はしゃぐ子供たちなど、撮影当時と変わらない風景がごく当たり前に続いている。土手の道を多摩川沿いに上流方向へ向かう。土手道を踏み切りで通過する小田急線も高架複々線工事の真っ最中だ。また並行する世田谷通りも長年の工事を終えて新しい橋梁に架け替えられた。
しかし世田谷通りを越すと、セブンの画面とそう変わらない風景が眼前に広がる。彼方にはあのコンクリート製の宇宙ロケットのような建築物がいくつも目に
入る。フクシン君と少年の背景に写っていたあの形状である。はやる気持ちを抑えつつ歩を前に進める。宇宙ロケットはだんだんと大きくなってくる。すると左手の河原に形の良い松が数本植わって、憩い処となっている場所がある。通称「多摩川五本松」、東京百景にも選ばれている風光明媚な場所で、なかでも夕景の雅さは群を抜く。フクシン君が少年と別れて夕陽の中でシルエットになる辺りである。
五本松を過ぎると宇宙ロケットはもう間近だ。無機質なコンクリート製ながらウエスト部分がキュッとタイトに絞り込まれたポストモダン形状の円柱が何本も突っ立っている。それも不規則に。整然と立ち並ぶ無機質なコンクリート製巨大マッチ箱と不規則な並びのオブジェ円柱との奇妙に合致したコントラストは、商店街と路地と木造住宅という下町系環境で育った人間にとって無性な空恐ろしさを感じさせるに十分な情景である。気分はまさに第四惑星に迷い
込んだ地球人であった。円柱の正体は多摩川住宅の各棟の水道水を確保する給水塔であるが、いかにもタンク然とした鉄製容器が塔の上に鎮座する、見慣れた給水施設に比べるときわめてシュールな建築物と思わざるを得ない。もっとも実相寺監督もその辺に目をつけたのだろうが…。
多摩川住宅は東京でオリンピックが開催された1964(昭和39)年から、セブンが放映された1968(昭和43)年にかけて、3期にわたって入居された東京都住宅公社のマンモス団地である。かつて千町耕地と呼ばれていた広大な田園地帯は、分譲2048戸に賃貸1826戸の合計3874世帯が生活する巨大マッチ箱とポストモダンな給水塔の林に変貌を遂げたのである。
多摩川住宅の敷地の中央辺りにひときわ大きい12建てのビルがある。クイーンズシェフ伊勢丹をはじめ、物販・飲食店舗も軒を連ねる団地の商店街である。このランドマーク的なビルの上部はやはり団地として使われており、多摩川住宅開発の終了を飾る意味から最後に建設された。そしてそのこけら落としの祭典には皇太子時代の現天皇陛下がみえられたそうだ。
このビルのすぐ横のマッチ箱群のなかに公園がある。団地内の他の公園と異なり、最近改装されたような園内には赤い汽車の遊具と木製のテーブルが配置されて子供連れの母親たちがゆったりとコミュニケーションをとれるように配慮されている。これも時代の趨勢というものなのだろうか…。実はこの公園もセブンロケ地のひとつなのであるが、あまりにも変わってしまっているので、そのことだけを記すことにしよう。
12建ての正面に「多摩川住宅」停留所がある。京王線調布駅行きのバスが頻繁に発着している。これほどの大規模集合住宅だとバスの本数も並みではない。この路線は京王バスと小田急バスの共同運行路線であるのでどちらに乗っても問題はない。バスにゆられること20分ほどで京王線調布駅の南口広場に到着する。調布駅南口は広いロータリーになっていて、噴水を取り囲んでベンチなどが配置されている。最近では街頭ライブも盛んのようだ。それでは私は北口の銀座通りに用事があるので、ここで失礼することにする。調布駅北口の銀座通りでは、極上の台湾料理が私を待っているのだ。
ショートカット案内
(ア) 慶元寺→和泉多摩川駅
喜多見住宅の横の公園に「喜多見住宅」停留所があります。ここから和泉多摩川駅まで路線バスがあります。この辺の水道道路は2車線の立派な道路ですが、大型車両は締め切られていますので、歩いているうちに通るだろうという甘い考えは捨てましょう。待てど暮らせどバスは通りません。もっと狭い道を走っているようです。
(イ) あざみ野駅→向ヶ丘遊園地
鷺沼駅から田園都市線を下り方向へ2駅目。横浜市営地下鉄と連絡するあざみ野駅から小田急バスが向ヶ丘遊園地を通って向ヶ丘遊園駅まで走っています。1時間に4〜5本の路線ですのであまり推奨いたしません。とりあえずご案内まで。
終点近くのお勧め処
ありませんって、何にも…。早く電車に乗りましょう!
京王線は早くて便利ですよぉ、新宿・渋谷へ20分足らず…。さっ早く、早く!
東急田園都市線たまプラーザ駅→たまプラーザ団地→境橋→小田急線向ヶ丘遊園駅→向ヶ丘遊園地→小田急線成城学園前駅→慶元寺→和泉多摩川→五本松河原→多摩川住宅→京王線調布駅