『二星』――ふたつぼし――



試衛館への坂を上っていた土方は、途中、青竹屋に行き会った。

長い笹竹を荷(にな)い、調子を取るように撓(しな)らせながら、青竹屋は坂を下りてゆく。

その一足ごとに、青々とした笹の葉が、さらさらと、涼やかな葉擦れの音を立てた。

すれ違った時、少し歩みを緩めたが、そのまま遣り過ごした。


坂の途中から江戸の町を見下ろせば、家並に立てられた笹竹が、空を覆うばかりに広がり、色とりどりの飾りが、風にゆるく揺れている。

輝かんばかりの碧い空は、綺麗に晴れ渡っていた。

「明日も、晴れそうだな・・・」

このまま行けば、天の川も良く見えるだろう――。

江戸の町は、七月六日の宵ともなれば、七夕を祝う笹竹で溢れ返る。

武家、町屋、子の有る無しに関わらず、何処の家でも、工夫を凝らした飾り付けが、笹竹を彩る。

牽牛織女、二つの星を祝う祭りは明日である。


「歳さん、お帰り。暑かったろう」

声を掛けた兄弟子は、案の定、長い笹竹を担いでいた。

「やっぱり、買ったな」

井上は、にこやかに頷いた。

「去年までは、大人ばかりで味気なかったが、今年は宗次郎がいるからね」

その手には、五色(ごしき)の色紙(いろがみ)や短尺(たんざく)、紙製の飾り物まで下げられていた。

「・・・チビは?」

「寺子屋だよ。大清書(おおぜいしょ)があるからね」

「大清書か」

土方は、縁に行商の荷を下ろすと、大きく伸びをした。


寺子屋では、正月の書初めと七月の七夕、一年に二度、大清書(おおぜいしょ)と言われる試験に似たものがある。

正月の書初めは、半紙に書いたものを、寺子屋の鴨居(かもい)に貼り出したりするが、七夕のそれは、五色の短尺に書き、成績順に、上から笹竹に下げられる。

七夕の日、寺子屋は休みとなるので、大清書の本番は、前日の六日、即ち今日となる。

笹竹に下げられるのが成績順ともなれば、子供であっても、競争心や矜持を煽り立てられるものであるが――。


「・・チビの奴は、どうだろうな」

諸肌になり、水を汲みながら問う。

「手習いかい?よく出来る方だと思うけど、あの子は欲がないからね」

土方は、眉根を寄せた。

「喰うにも、競争にも淡いなんざ、褒められた事じゃねぇよ」

井上は、苦笑した。

「負けず嫌いな処も、ちゃんとあるさ」

「例えば?」

土方の問いに、井上は唸る。

「剣術とか、・・・水汲みとか・・・?」

何とも微妙な応えを、土方は一刀両断した。

「少なすぎる」


門前から、元気に駈け込む足音が聞こえた。

庭に回った宗次郎が、土方を見つけ、笑顔を見せた。

ずっと駈けて来たのか、息を弾ませている。

「歳三さん、お帰りなさいっ」

「お帰りは、お前の方だろう?」

土方は、笑って小さな躰を抱き上げた。

それから、汗ばむ額に、額を合わせ、熱を測る。

暇さえあれば熱を出すような宗次郎である、土方には、すっかり身に馴染んだ習慣となった。

熱の無いのを確かめて、土方は、小さな面を覗き込んだ。

「寺子屋から此処まで、走って帰ってきたのか?」

宗次郎は、首を横に振った。

「坂だけだよ」

「暑い時に、走るな」

「暑くないよ?」

土方は、宗次郎の額を突っついた。

「暑くない奴が、こんなに汗をかくかよ」


宗次郎は、井上の持つ笹竹に、薄闇色の大きな瞳を輝かせた。

「源さん、七夕の飾りを作るの?」

「作るよ。その前に、歳さんと宗次郎は水浴びと昼餉だ」

宗次郎は、唇を尖らせた。

「お腹、空いていないよ?」

「馬鹿、減らねぇ訳がねぇだろうが」

頭の上からの叱り声に、宗次郎は首を竦めた。

そろそろと見上げれば、仏頂面の土方が睨んでいる。

「ちゃんと喰わなきゃ、七夕は無しだ」

頬を膨らませた宗次郎は、「本当なのにな」と呟いた。

あまりの食の淡さに、井上、土方は溜息を吐く。


水を汲み上げながら、土方は訊いた。

「笹竹の頂上(てっぺん)を取ったのか?」

「てっぺん?」

宗次郎は、大きな瞳を見開いた。

土方を見つめ、長い睫毛が、ゆっくりと上下する。

「大清書があったんだろう?成績は?」

「一等はね、おみよちゃんだったよ」

「おみよってのは、何処の誰だ?」

「坂の下にある、水茶屋の娘だよ」

すかさず、井上が応えた。

井上は、縁に笹竹や飾りを並べている。

「道庵先生を教えてくれた水茶屋の女将が、おみよちゃんの母親だ」

「ああ」

土方は、何とも複雑な表情を浮かべた。


(せん)の梅雨の最中(さなか)、縁を結んだ巨体の熊医者。

腕の良い医者と縁を結べたのは僥倖だが、土方とは、何かと馬が合わない。

汲み上げた水を桶に移し、中に手拭を放る。

「じゃあ、何番だった?」

「笹竹のね、真ん中くらいだよ」

何ともあっさりした応えが戻る。

土方は、溜息を吐いた。

「少しは、悔しがれよ」

絞った手拭を、小さな手に渡す。

宗次郎は、首を傾げた。

「真ん中は、駄目?」

「駄目じゃねぇが・・、悔しくねぇのか?」

再び、首を傾げる。

「・・剣術で負けたら、悔しいよ?」

土方は、脱力した。

このチビ助は、欲の心を、何処に落として来たものか。



他出していた近藤が、裏庭を覗いた時、三人は、笹竹に飾り付けをしていた。

縁一杯に七夕飾りを広げ、楽しげな様子の宗次郎に、近藤は目を細めた。

「随分出来たな」

「勝っちゃんも手伝ってくれ。夕刻までに仕上げねぇとな」

「わかった」

井戸で汗を流した後、近藤は、紙製の西瓜飾りに手を伸ばした。

「そう言えば、宗次郎、大清書はどうだった?」

井上が、笑った。

「若先生も、歳さんも、父親(てておや)のようだね」

「せめて、兄と言ってくれ」

土方の渋い声が飛ぶ。

「真ん中くらいでした」

と、宗次郎。

先程の遣り取りのせいか、今度は、やや神妙な貌をしている。

「真ん中か。伸び伸びと書けたなら、それでいいさ」

「はいっ」

元気な応えに、父親並の甘さで、近藤が破顔した。

「・・・勝っちゃんの場合は、父親でも良さそうだな」

土方が、呆れた声を出した。


「試衛館(ここ)の笹竹の頂上(てっぺん)は、チビの短尺を飾ってやる」

墨を磨りながら、土方が言った。

「歌を書くの?」

大清書では、七夕にちなんだ和歌などを短尺に書く。

「願い事でいいさ」

「願い事・・・」

思案顔になった宗次郎に、井上と土方が茶々を入れた。

「飯をお代わりできますように」

「魚を喰えるようになりますように」

宗次郎は、目を丸くした。

「お願いすると、食べられるの?」

切実な様子の宗次郎に、三人は吹き出した。


近藤は、ふと思い出した。

以前、宗次郎が土方に和歌を贈ったと、次姉のきんから、聞いた事があった。

「歳」

宗次郎を抱き上げ、笹竹の上の飾り付けをさせていた土方は、首だけ振り返った。

「お前、宗次郎から恋の歌を貰ったんだろう?」

「なっ・・・」

土方は、あやうく宗次郎を落としそうになった。

「何で、勝っちゃんが知ってるんだよっ」

「俺は、何でも知っているんだ」

珍しくも慌てる親友に、近藤は悪戯気な笑みを浮かべた。

「歳さん、どんな歌を貰ったんだい?」

「もう忘れた」

土方は、そっぽを向いた。


しかし、応えは、意外にも土方の腕の中から返った。

「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」

「チビッ」

慌てて止めようとしたが、両の手で抱いていれば、口を塞ぐ手立てはない。

「崇徳院か。いい歌だ」

土方は、耳まで真っ赤になった。

「言っておくが、チビの場合は、恋心じゃねぇからな」

「歳、誰もそうは取らんぞ」

腕の宗次郎は、土方を見上げた。

「きぃちゃんが、大好きな人に贈る歌って、言っていたよ?」

「好きは好きでも、あれは恋の歌なんだよ」

顔色の戻らない土方を、大きな瞳がじっと見つめる。

「歳三さんの事、好きだよ?」

「好きの種類が違うっ」

近藤、井上は、目を合わせ、吹き出した。

色恋沙汰では、一切動揺を見せぬ土方が、ここまで狼狽(うろたえ)るのは見物(みもの)である。



天の川は、七夕の今宵も綺麗に流れた。

七夕の夜には、天の川に見立てた素麺を、供物としたり食したりする。

夕餉の素麺を、珍しくも残さず食べた宗次郎に、皆、目を丸くした。

「二星(ふたつぼし)の、ご利益かな」

井上は、上機嫌である。

井上の書いた短尺は、宗次郎の「食」に終始していた。

「それでも、並のガキ程には喰っていねぇ」

不満気な声を上げた土方だが、表情は明るい。

四人は裏庭に出て、天の川を見上げた。


宗次郎は、白地に藍で染められた、雪華模様の浴衣を着ている。

恐らくは、二人の姉さん達とお揃いなのだろう。

ひっくり返りそうになって、天を見上げる宗次郎を、土方は抱き上げた。

「歳三さん、どの星が牽牛と織女?」

土方は、天を指差した。

「天の川の、向こうとこっち。分かるか?」

腕の宗次郎は、コクリと頷いた。

天の川を、じっと眺めていた宗次郎は、小さく呟いた。

「ちゃんと、会えたかなぁ?」

土方は、微笑した。

「年に一度の逢瀬だ。会えたさ」


涼やかな風が、七夕飾りをゆるく揺らした。

秋の気配は、少しずつ近付いている。

「七夕が終われば、もう秋だな」

近藤が、感慨深げに言った。

四人の頭上で、笹竹が、さらさらと優しい音を立てる。

土方は、七夕飾りの頂上を見つめた。

『剣術が上達しますように』

そう記した宗次郎の短尺を、一番高い処に下げたはずだが――。


「・・・『剣術』の短尺、青色だったよな?」

三人が、土方を見つめた。

「てっぺんの短尺、白じゃねぇか、誰のだ?」

「宗次郎のだよ」

と、近藤。

「チビの? 取り替えたのか?」

腕の宗次郎が、コクリと頷いた。

「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」

可愛い声が紡ぐ歌に、土方は、あんぐりと口を開けた。

「勝っちゃんっ」

満天の星の下、土方の怒鳴り声が大きく響いた。





戻る