頽れる総悟の身を片腕で抱きとめた男は、たっぷりと薬を染み込ませてあった白い布を無造作に捨て、空いた方の手で、総悟の腰から鞘を引き抜くと、これも同じく放り投げた。
軽い音を立て、地面に転がった鞘の向こうには、敵味方入り混じった男達が倒れている。
「敵方」は眠らせただけだが、「味方」が息を吹き返す事は二度と無い。
庇われたとは言え、確かに催眠弾の影響を受けていたこの少年は、ふらつきながらも五人の「味方」を斬り倒した。
軽く肩を竦めた男は、総悟を軽々と肩に担ぎ上げ、静かに去ってゆく。
暮れかけた夏の陽が、二人の影を細く伸ばした。
――真選組屯所に第一報が入ったのは、その20分後だった。
銀朱孤蝶
―― 蘇芳(の章 ――
01
真選組に、最初の報せが届いたほぼ同時刻、総悟を担いだ男は、小さな廃寺の崩れかけた門を潜った。
不気味に静まる建物に、人の気配は感じられない。
腐りかけた根太板を踏み抜かぬよう、慎重に堂奥へ進めば、闇の中、細い白煙が微かにたゆたうのが見える。
男は、小さく吐息を漏らした。
深い闇の中で一人、壊れかけた小窓から表の暗がりを見つめていた人待ちの男は、ゆったりと煙管を燻らせていた。
女物と見紛う派手な着物を纏い、左目を包帯で覆った異形の男。
攘夷浪士の中でも特に過激な武闘派として知られる鬼兵隊。その武闘集団が頭に戴く、凶獣、高杉晋助である。
高杉は、無言で姿を現した、鬼兵隊きっての剣豪、河上万斉を振り返った。
「・・・ひでえな。ボロボロじゃねーか」
高杉は、カツンと灰を落とすと、万斉の肩に担がれた少年に、酷薄な笑みを浮かべた。
土埃に塗れ、ピクリとも動かぬ総悟は、ドサリと古畳に下ろされる。
ゆっくりと近付いた高杉は、固く目を閉ざした面を覗き込んだ。
極上の絹を思わせる白い頬に、返り血とは別に、僅かに血が滲んでいた。
掠り傷を言うには大きなそれを、親指の腹でなぞる。
「俺ァ、傷は付けるなと、言ったはずだが?」
「それは拙者の与り知らぬもの。大方、「仕事」で付けたのでござろう。他に怪我はさせていない、それ位は許せ」
悠然と答える万斉も、古畳の上の総悟と同じく、土埃に汚れ、頬には薄い刀傷がある。
「大人しくは、捕まらなかったようだな」
「大人しく・・・?」
万斉は、苦笑した。
「大人しいどころか、主(ぬし)が所望の沖田総悟。この子一人で、連れて行った五人全員を斃しましたよ」
「六人だろう?」
高杉は、頬の傷を顎で指した。
「お前に手傷(て)を負わせるとは、どうやら噂通りのようだな」
「致し方なく、薬を直接嗅がせて眠らせた」
「・・・使った薬ってのは、「春雨」が寄越した奴か?」
「無傷で捕らえろとの所望に答えた結果でござるよ。連れの男二人にも手負いは無いはずでござる」
言外に含まれた非難を感じ、高杉は嗤った。
「万斉」
「・・・・・・」
「伊東の一件の時、俺の言う通りに真選組を潰しておけば、こんな手間は要らなかったんだぜ。コイツも――」
と、汚れた頬を撫でる。
「・・・コイツも、帰る巣(ばしょ)が無ければ、ここまで手こずらせねーだろ」
万斉は、軽く肩を竦めた。
「あの時は、思いも寄らぬ事でござったが、白夜叉も居た。土方も戻った。あの場で奪取しようとすれば、こちらが完全に潰されましたよ。真選組が、一筋縄で行くような組織ではないと知れただけでも、収穫でしたよ」
一筋縄では行かない喰えぬ男は、しらりと告げる。
高杉は、横たえられた少年を改めて見つめた。
薄汚れてはいても、その肌の白さ、繊細さは際立っている。
煙るような長い睫毛は、今はその顔に濃い影を落としているが、瞬けばさぞ美しく面を飾るだろう。
伸ばした手が、白い頬に触れるか触れないかの瞬間、高杉の目前を鋭い風が呻った。
刹那、風を掴むと、突き立てられた二本の指が、前髪を掠め、目の前数ミリの位置で止まる。
「危ねぇなァ・・・」
恐ろしく的確な攻撃に、高杉は僅かに口の端を持ち上げた。
掴んだ細い手首をギリギリと捩り上げると、意識の無い喉から、短い呻き声が漏れた。
「流石は真選組の斬り込み隊長。この状態でも狙いを外さねぇとは、たいした腕だ」
感嘆混じりの声音に、万斉は苦笑した。
「反射だけで、その腕でござるよ。尋常な立ち合いをすれば、主(ぬし)も拙者も、相打ちで済むかどうか分からぬ」
「俺もお前も、子供(ガキ)に不覚を取る程、人生経験浅かねえだろ?」
高杉は、手首をグイと引き上げた。
体を引き上げ、目の高さを合わせて覗き込むが、総悟は依然目を閉じたままである。
触れれば見た目よりも更に細い腕には、しかし、上質の筋肉がついていた。
血の流れを断たれた指先が、白から紫に色を変え、拮抗していた力が、緩やかに崩れた。
「・・・う・・・」
小さく漏れた呻き声を機(しお)に、掴んだ手首を緩めると、華奢な体は抵抗なく高杉の胸に崩れ込んだ。
その軽さにも、高杉は瞠目する。
今度こそ、総悟は動かなくなった。
高杉は、ぐらつく頭を胸に添わせ、隊服のスカーフをスルリと抜き取った。
露わになった細い首と、透けるような肌の白さが闇にも映える。
再び古畳に横たえ、襟元をくつろげた高杉は、スッと目を細めた。
真っ白な肌の、鎖骨のすぐ下に、血の色の印が刻んであった。
やや不自然さを感じる、生々しい強い吸い痕は、さり気なくも雄弁に男の存在を誇示している。
高杉は、口元を歪めた。
「・・・土方」
その後の動きは淀みが無かった。
隊服のポケットを探り、財布、警察手帳、携帯――所持品の全てを掴み出す。
「万斉」
電源の入ったままの携帯を片手で弄びながら、高杉はゆるりと振り返った。
「刀はどうした?」
「現場に捨てて来た」
「ほお?」
高杉は、低く笑った。
隻眼に、不穏な光が宿る。
隊服の何処かしらに発信機が装備されている可能性は高いが、何より、携帯には確実にGPSが付いているだろう。
「刀は捨てて来たのに、携帯(こいつ)は持って来たのか?」
「GPSでも追跡は間に合うまい。問題は無いでござるよ」
「・・・・・・」
「『鬼』の一人勝ちもいいが、追われてやるのも醍醐味でござろう」
「フン」
携帯がミシリと音を立て、そのまま片手で砕かれる。
手の中の残骸が、バラバラと古びた畳に落ちた。
それから、衣服を全て剥(は)いでゆく。
裸に剥(む)かれた総悟は、湿った古畳の冷たさにも反応しない。
この夏の陽射しを知らぬような肌は青みが目立ち、細い腕にはいくつもの点滴の痕が惨いように残っていた。
伊東の一件の後、暫く入院していたのは把握している。
そして、素肌に剥いた体に、艶めいた痕は他の何処にも見当たらなかった。
「・・・わざとらしい虫除けだぜ」
高杉は、警察手帳を開いた。
この年頃の少年にしては意外な事に、手帳の中に余計なものは何一つ挟んでいなかった。
ID写真は、意識の無い主に代わるように、強く真っ直ぐな瞳で高杉を射抜く。
携帯の残骸と脱がせた衣服の上に、財布、手帳を放った高杉は、肩から落とした絽羽織で総悟を包むと、横抱きに立ち上がった。
黒地に金で若笹文様を染め抜いた絽が、白い裸体を透かせて、なんとも艶めいて見える。
「処分しておけ。・・・今度こそちゃんと、な」
2008.01.31
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