『極月』――ごくげつ――
「ごちそうさまでした」コトリと、小さな手が箸を置いた。
まるで、ひと仕事終えたかのような表情(かお)をした宗次郎は、小さな溜息を一つ吐く。
その様子に、近藤と井上は、困ったように貌を見合わせた。
師走も半ばの、江戸、牛込柳町甲良屋敷にある試衛館道場である。
「・・それで終いか?」「はい」
「・・・」
箱膳の、小さな茶碗と汁椀は、揃って綺麗になっている。
行儀良く座る宗次郎の両脇で、近藤、井上は、難しく口を引き結んだ。
無言のままの二人に、宗次郎は、困惑したように首を傾げた。
「残していないよ?」
近藤も、困ったように問い掛ける。
「・・もう、喰わないのか?」
「はい」
「お代わりは?」
続く井上の問いに、首を振る。
「お腹一杯だよ?」
兄弟子二人は、揃って大きな溜息を吐いた。
食事の後の、いつもの問答である。
今日は、朝稽古が有り、寺子屋へも行った。宗次郎が、必死の体(てい)で食べた量は、同じ年頃の子供ならば、到底足りるものではない。
それなのに、この小さな弟弟子ときたら、声を掛けねば、何も口にしなくとも平気な貌をしている。
試衛館に内弟子に入った頃は、あまりの食の細さに驚いたものだが、共暮らしもそろそろ一年、苦行を思わせる宗次郎の食事風景は、見慣れたものとなった。
瞬きもせず、見上げる宗次郎に、近藤、井上は揃って苦笑した。「・・まあ、仕方ないな」
「せめて、飯を一膳は喰えるようにしような?」
「はい」
神妙な応えを返す宗次郎に、近藤は笑んだ。
この小さな弟弟子は、体調を崩しやすい。
大人達が、その食の細さに右往左往する分には、余程、良いのやも知れぬ。
井上は、茶碗に温めの白湯を注いでやる。「寺子屋は、楽しかったかい?」
「はい。今日はね、琴乃先生でした」
「何を習ったんだ?」
「算術と、手習いです」
小さな両の手で茶碗を持ち上げ、ゆっくりと飲む。
近藤も、井上の淹れた茶を、ぐいっと飲み干した。
「午(ひる)からの稽古は休みだ。一緒に、道庵先生の処へ行こう」宗次郎は、驚いたように近藤を見上げた。
「どこも、悪くないです」
蚊の鳴くような声に、近藤は吹き出しそうになる。
「師走だからな、挨拶に行くんだ」
「挨拶・・?」
警戒を隠さぬ宗次郎の、小さな頭をそっと撫でる。
「梅雨の頃から、ずっとお世話になったからな。その礼と・・」
近藤は、言葉を止めた。
『来年も』、との挨拶は、縁起を担ぐ上でも、医者に向けてするようなものでも無いだろう。しかし、医師道庵は、この大切な弟弟子を、身内のように扱ってくれる人物である。
「来年も、宜しくとの挨拶だよ」
明るく言葉を継いだ近藤に、宗次郎もつられるように笑んだ。
井上も、にこやかに頷く。
「良い医師と縁を結べて、本当に良かった」
宗次郎は、おずおずと若い師匠を見上げた。
「・・挨拶だけですか?」
「何だ?診て欲しいのか?」
宗次郎は、大きく首を振った。
瞬間――。
「うわあっ」
井上の悲鳴が、部屋に響き渡った。
乾いた風が、往来に土埃を巻き上げる。行商の荷を負い、試衛館への道を早足で歩いていた土方は、一つ先の小路から出て来た、親友の姿を認めた。
声を掛けるにはやや離れた距離に、追い付こうとして、ピタリと立ち止まる。
近藤は、宗次郎を背負っていた。
負われた小さな躰は、ぐったりとその身を預けている。
その上、この寒いのに、何も羽織らせていない。
小路の奥には、道庵の診療所がある。
「チビ・・」
土方は、地を蹴った。
「勝っちゃんっ」土方の声に、近藤は躰ごと振り向いた。
「歳、久しぶりだな」
背の宗次郎は、薄闇色の大きな瞳に、一杯の涙を浮かべていた。
その貌を覗き込み、眉根を寄せる。
「チビの具合、悪いのか?」
「いや、大丈夫だ」
「なら、なんで泣いているっ?」
声を荒げた土方に、近藤は苦笑した。
「これは、嘔吐(えず)いただけだ。心配ない」
「嘔吐いた・・?」
涙目の宗次郎が、小さく頷いた。
「あのね、ゲってなったの」
土方は、益々厳しい表情になった。
「何かに中(あた)ったのか?」
「いや・・、そうではなくて・・」
「嘔吐くなぞ、普通じゃねぇだろう」
再び、宗次郎を覗き込んだ土方は、仰天した。小さな口元から一筋の血が流れ、顎まで伝っている。
「血が出ているぞっ」
悲鳴のような土方の声に、近藤は慌てた。
「また出たか、宗次郎、弄っては駄目だぞ?」
「何もしていません」
元気な応えに、近藤は苦笑した。
土方は、驚きのあまり二の句が告げない。
「大丈夫だ、歳。歯で口の中を切ったんだよ」
「歯・・?」
近藤が頷いた。
「生え変わりの、抜けそうな奥歯が、口の内側を傷付けたんだ」
「・・こんなに、血が出るものなのか?」
土方の声が、驚きに掠れている。
「お陰で、源さんも腰を抜かした」
近藤は、力無く笑った。
小さな口から、血が滴るのを見つけた井上は、卒倒してひっくり返った。その時の様子を聞き、土方は、大きな溜息を吐いた。
「・・それで、歯は抜けたのか?」
「いや、駄目だった。・・今にも抜けそうなんだがな」
「じゃあ、抜きゃあいいだろう?指で摘むか、糸を掛けるか・・」
近藤は、慌てたように首を振った。
「糸は駄目だ。無理に抜くのは良くないと、道庵先生が仰っていた。それで、指で抜こうとしたんだがな」
「・・が?」
「宗次郎の口は、小さいからな。指が入らなかった」
土方は、貌を顰めた。
「熊の太い指が、こんな小さな口に入る訳ねぇだろうよ」
「いや、俺のも、徳治さんのも無理だった」
「・・で、嘔吐いたのか?」
師弟が共に、コクリと頷く。
よくよく見れば、宗次郎は履物すら履いていない。
今でこそ笑っているが、近藤の慌てぶりも相当だったようだ。
土方は、宗次郎を覗き込んだ。「チビ助、寒くねぇのか?」
「平気」
宗次郎は、元気に応える。
土方は、渋面のまま、腰の竹筒を取り上げると、指先を水で洗い、丁寧に手拭で拭った。
警戒して見つめていた宗次郎は、近藤の肩をぎゅっと掴む。
「チビ、口開けろ」
「やっ」
土方の声に、大きく首を振る。
その勢いに、薄闇色の瞳に溜まっていた涙が、一滴(ひとしずく)零れ落ちた。
それを指先で拭うと、土方は、優しく笑んで見せた。
「・・具合を見て、血を拭うだけだ。」
「・・痛い?」
「痛くない」
「本当?」
「いいから開けろ。無理矢理は抜かねぇから」
おずおずと開かれた口を、土方はゆっくりと覗き込んだ。右上の奥歯が一本、ぐらついている。
傷付いた頬の内側から、血が滲んでいるのも見えた。
(抜けそうだな)
宗次郎が恐がらないよう、そっと指を差し入れる。
「チビ、痛いか?」
宗次郎が、小さく首を振ったのを確認し、土方は、二本の指の先で、ぐらついた歯を摘んだ。
そのまま、呼吸を詰めて一気に抜く。
宗次郎は、口中の衝撃に驚き、目を丸くした。
「痛くなかったろ?」
土方の声に、小さく頷く。
近藤が、驚いたように首を反った。
「抜けたのか?よく指が入ったな」
「熊の指と、一緒にするな」
少し血が出たが、懐紙を裂いて拭い取った。ぽかりと開いた穴の奥に、白い歯が覗いている。
「大人の歯が生え始めている。ちゃんと生えるまで、あまり甘いものを喰うなよ?」
土方は、抜いたばかりの小さな歯を、宗次郎と近藤に見せた。
「小さいなぁ・・」
感心したような近藤に、土方は、渋い貌をした。
「もっと喰って、大人の歯はでかくしろよ?」
「歳三さん、昼餉は、ちゃんと食べたよ?」
「どうせ、飯は半膳しか喰ってねぇんだろ?一膳喰えるようになれ」
「・・はい」
宗次郎の食の細さには、皆が同じ思考に立つ。
背中の遣り取りに、近藤は笑いを堪えた。
門前に、井上と共に、武家の妻女が立っていた。此方に背を向け、俯きがちに佇む姿は、何とも華奢で頼り無い。
艶やかな丸髷が、白く細い首を際立たせている。
「源さんの、知り合いかな?」
首を傾げた近藤とは別に、土方は口元を引いた。
「あの佇まいは別嬪だな。源さんの知り合いとも思えねぇがな」
しらりとした親友の応えに、近藤は苦笑した。
近藤の背の宗次郎は、はっとしたように、その姿を見つめた。その張り詰めた様子に、土方は切れ長の目を細め、宗次郎を見つめた。
近藤は、やや首を傾げる。
「あれは・・」
井上に促され、振り向いた妻女が、三人を見つめた。
「きん殿・・」
近藤の声が、掠れた。
三根山藩士、中野伝之丞に嫁いだ、宗次郎のすぐ上の姉、きんだった。
此方に向かい、深々と頭を下げ、にこりと笑う。
丸髷にはなったが、相変わらず、おきゃんな雰囲気のまま、漆黒の瞳をきらきらと輝かせている。
「・・きぃちゃん・・?」
宗次郎は、戸惑うように呟いた。
「宗ちゃん」きんの呼び掛けに、薄闇色の瞳を大きく見開く。
「・・・っ」
今にも飛び出そうとする小さな躰を、土方が慌てて押さえつけた。
「待て、裸足だっ。我慢しろ」
薄闇色の瞳は、きんを見つめたまま、大きく見開かれている。
小走りで近付き、覗き込む姉を、宗次郎は黙って見つめた。
「宗ちゃん、具合はどうなの?」
「大丈夫です。抜けかけの歯が、口を切っただけでした」
安堵の息を吐いたきんは、懐かしげに近藤を見上げた。
「きん殿、何故此処に・・?」きんは、にこりと笑った。
「此方にお世話になって、もうすぐ一年でしょう?ご挨拶に参りました」
「生憎と、養父(ちち)は不在ですが・・」
「はい。源三郎様に伺いました」
きんは、微笑んだ。
「勝太様にご挨拶出来れば、同じ事です」
きんは、宗次郎を覗き込み、漆黒の瞳を優しく細めた。
「宗ちゃん、大きくなったわね」
「きぃちゃん・・」
きんは、小さな弟の頭をそっと撫でた。
「躰も、随分しっかりして、安堵しました」
宗次郎は、明るい笑顔を見せた。
「きぃちゃんは、元気?」
「私は、いつも元気」
きんは、悪戯気に笑った。
「歳三様も、お元気そうで何よりです」きんは、近藤、土方を交互に見上げた。
「・・お二人共、相変わらずの御様子ですね」
にこりと微笑むきんに、二人は、貌を見合わせた。
「きん殿は、綺麗になられた」
「相変わらず、色気は足りねぇがな」
「歳っ」
きんは、笑い出した。
「本当に、お変わりありませんね」
「宗ちゃん、嫌いは直った?」きんの問いに、宗次郎は曖昧に首を振った。
きんは、厳しい貌をして見せる。
「男の子は、嫌いはいけませんよ?」
宗次郎は、頬を膨らませた。
「残していないよ?」
「御飯は、一膳頂けるようになりましたか?」
きんの問いに、薄闇色の瞳が、視線を泳がせた。
きんは、小さく溜息を吐く。
「宗ちゃんが、そうやって目を泳がせるのは、ちゃんと頂けていない証拠ですよ?」
「・・あのね、きぃちゃん。お腹一杯食べているよ?」
「困った子」
近藤は、とうとう吹き出した。
「勝太様?」
不思議そうなきんに、近藤は、慌てて頭(かぶり)を振った。
「でも・・、そんな事だと思いました」きんは、くすりと笑った。
「宗ちゃん、少しじっとしていてね?」
きんは、手早く、背負われた宗次郎の身丈を手計(てばか)りした。
それから、同じ作業を肩、裄等で繰り返す。
一通りの作業を終え、小さく頷いた。
「これなら、大丈夫」
そして、抱えていた風呂敷包みを、宗次郎に差し出した。
「お正月の仕度です。綿入れと、着物を縫いました」
「着物・・?」
小さな手が、おずおずと包みを受け取る。
「そう、正月におろしなさい。・・袖は少し長いけれど、すぐに合いますからね」
きんは、にこりと笑んだ。
「生計(たつき)の助けに、お仕立の仕事をしているのですが、宗ちゃんと同じ年頃の、女の子の着物を縫ったので、それを目安にしてみました」女の子と聞いて、宗次郎が警戒した。
「・・女の子の?」
「ちゃんと、宗ちゃんに似合う着物です」
きんの応えに、薄闇色の瞳が益々警戒する。
「きぃちゃんは、女の子の格好をさせるよ?」
「たった一度だけでしょう?」
悪戯気に笑ったきんに、土方と井上は、訳がわからず貌を見合わせた。
近藤だけが、笑いを堪えている。
「そろそろ、お暇致します」きんの声に、近藤の背中がピクリと揺れた。
「・・きぃちゃん、帰る?」
きんは、優しく笑む。
「また、会いに来ます」
「本当?」
「本当」
きんは、小さな弟の柔らかな頬を突っついた。
「いい子でね、宗ちゃん」
「駕籠を呼びましょう」
近藤の声に、きんは美しい面輪を大きく顰めた。
「駕籠は嫌いです。道は覚えましたので、歩いて帰ります」
坂を下りてゆく華奢な背を、四人で見送った。近藤は、背の宗次郎に声を掛ける。
「宗次郎、姉さんに会えて良かったな」
「はい」
宗次郎は、風呂敷包みを抱き締めた。
「・・若先生」
遠慮がちな背中の声に、近藤は首を反った。
「どうした?」
「『姉上』って言うの、忘れました」
気まずげな宗次郎に、隣の土方が笑った。
「あの姉さんは、『きぃちゃん』でいいさ」
「本当?」
兄弟子三人は、笑って頷いた。
坂の途中で、きんは、振り向いて大きく手を振った。「宗ちゃん、またねっ」
了
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