『法度』
「局中法度書?」
副長室へ上がり、そろそろ四半刻も経つだろうか。
書き物に没頭する広い背を見つめたまま、行儀良く待っていた総司に、一葉の書が渡された。
水茎の跡も乾かぬ、初めの文字がそれである。
「何でしょうか?」
土方は、口元を引く。
「草案だ。読んでみろ」
目顔で頷き、視線を落とす花の顔(かんばせ)を、土方は、少しの変化も逃さぬよう、じっと観察する。
暑い盛りと言うのに、汗一つ浮べぬ涼しげな総司を見ると、涼しげな風情を作る土方としては、何とも面白くないものがある。
副長助勤筆頭、一番隊隊長となった想い人は、不穏な王城にあっても、相も変わらず、いつもにこにこと過ごしている。
『鬼』と、恐れられ始めた自分にも、変わらぬ態度で接するのは、本来の総司の天分か、惚れたが故の諦観かは、どうにも微妙な処である。
惚れたは土方で、手放せぬも、余程に自分の方だろう。
一度(ひとたび)も表情を変えず、ゆっくりとした所作で書を膝の上に乗せると、総司は端整な貌を見上げた。
「五ヵ条と細則ですか?」
「そうだ」
「随分と、簡潔ですね」
「その方が、すんなりと頭に入る」
「・・少ないのでは?」
「全てを言い置いてある」
簡潔に戻る応えに、総司は暫し、端整な貌を見つめる。
薄闇色の瞳は、再び書へ視線を落とした。ゆっくりと読み、小さく頷く。
「士道ですか」
「そうだ」
「例外は?」
「認めぬ」
「・・・全く?」
「士道に、例外が必要(いる)か?」
薄闇色の瞳が細められ、やや蒼い光を湛える。花の容貌とは相容れぬ、油断のならぬ怜悧な光。
「厳しいと、思う者も多いでしょう」
「お前は?」
「私?」
総司は、首を傾げた。
「剣に生きる者なら、否やは無いでしょう?」
くすりと笑う。
「ただし、同じ考えの方が、どれ程いらっしゃるのか。それは、副長も御存知の通り」
土方は、鼻を鳴らした。
元々烏合の衆と、百も承知である。
金目当てで集まった者、武士の肩書きが欲しかった者、腕に覚えの暴れ者。
それらを全て纏める為、厳しい掟が必要となる。これで音(ね)を上げ、恐れるようなら、斬り合いにおいて、簡単に落命するであろう。
「箍(たが)は、締めてこそだ。違うか?」
「・・背けば、切腹ですか・・」
「嫌か?」
総司は、呆れたように土方を見上げた。
「切腹が、良いと言う人など居ませんよ」
「お前な、切腹は武士の名誉だぞ?」
「そんな痛い名誉など、私は要りません。せいぜい気をつけます」
笑い出した総司を見つめ、土方は嘆息した。
この想い人が、法度に触れることなどありはしまい。むしろ些末事で、あっさりと殉じられては堪ったものではない。
「せいぜい気をつけてくれ」
鸚鵡(おうむ)返しに戻った応えに、総司は、不思議そうに首を傾げた。
細い指が、書を戻す。
「近藤先生は、何とお仰せですか?」
「近藤さんには、これから見せる。・・・うるせぇ奴にもな」
総司が、愁眉を寄せた。
「うるさいって・・・山南さんの事でしょうか?」
「わかっているなら聞くな」
土方は、そっぽを向く。
「大人気ないなぁ。今から喧嘩腰では、纏まる話も纏まりませんよ?」
「纏まりゃぁしねぇ」
更に、大人気ない。
「仮令(たとえ)、先生の気に入る出来だとしても、絶対に諾とは言わねぇだろうよ。俺が作ったってだけでな。あの先生に、本当の意味はわからねぇさ」
「本当、ですか?」
薄闇色の瞳が、みるみる悪戯気な色を浮べる。
「土方副長?誰にもわかるような法度でなければ、いけませんよ?」
土方が睨みつけると、大きく溜息を吐いてみせる。
「この所、仲が良いと思っていたのに」
「目的が同じ内は、気も合うさ」
「目的?」
「近藤さんだ」
総司は、小さく笑った。
「私の事では、大喧嘩しましたものね」
「あれは、あいつが悪い」
「山南さんは、心配して下さったのですよ?」
土方は、総司の貌を覗き込む。
「心配に付き合えば、お前は、江戸で留守番だぞ?」
「・・・土方さんが、必ず連れてゆくと言ってくれたじゃないですか?」
屈託無く笑う想い人。その余裕が、何とも面白くない。
「今夜は」
誤解を承知で、言葉を切った。
案の定、薄闇色の瞳が、揺らめいた。
「・・・鴨の奴、今夜は、何処へ出掛けると言っていた?」
花の顔(かんばせ)が、朱に染まる。
「・・・今夜は、祇園と・・・」
土方は、しらりとしている。
「お前が付き合うのは、今宵が最後だ」
総司は、端整な貌を見上げた。
「直、沙汰が出る」
「・・土方さん」
「もう、世話焼きは要らん」
「・・・はい」
総司を揶揄(からか)うつもりが、要らぬ事を思い出してしまった。そのまま、むっつりと黙った土方に、総司は、おずおずと声を掛けた。
「・・・まだ、怒っているのですか?」
「当たり前だ」
「もう、半年は経つのに・・・」
土方は、総司を睨みつける。
「まだ、半年だ。あの頃に法度があれば、奴は疾うに墓の下だ」
「無茶を言うなぁ」
ころころと笑う想い人に、どうにも不機嫌が収まらぬ。
「他人事のように、笑うな」
「あれ?・・本庄宿の件では、ないのですか?」
「あれは、近藤さんの名を上げた。良しとしてやる」
総司は、驚いた。
「・・・もしかして、私の事ですか?」
「他に、何があるっ」
吐き捨てるような言葉に、総司は、再び笑い出した。
「もう、半年も経つのに」
「まだ、半年だ」
「あれ位の意地悪など、土方さんにはいつもされています」
土方は、眉根を寄せた。
この可愛い想い人は、『意地悪』の意味がわかっているのだろうか?
「褥で」
低まった土方の声に、華奢な躰が緊張した。
「褥で、言う事を訊かぬ奴は、どう罰したものかな」
さあっと、淡い朱が全身を染めあげる。その、鮮やかな変化。
この想い人は、見ていて少しも飽く事がない。
総司にしてみれば、褥でされる意地の悪さなど、他に比べるべきも無い。
しかし、睦み事に疎い自分の事、それが世間と異なるのか、そこの処を良くは知らぬ。
唯一人、肌を許した土方が、言う事を訊かぬと言うなら、そうなのであろう。
僅かにも表情を動かさぬ端整な貌に、総司は俯いた。
「・・・その時は」
姿勢を正した華奢な想い人を、土方は見つめたままである。
稚気とも取れる意趣返しに、この可愛い想い人は、一体何と応える気か。
「その時は?」
「介錯をお願いします」
あっさりと言われ、片頬で笑う。
「わかった。存分に殺してやる」
「宜しくお願い致します」
話が、微妙にずれている。
手指を揃え、深々と頭を下げる想い人に、土方は、危うく吹き出しそうになる。
普段、聡すぎる程に聡い想い人は、色恋の話となった途端、赤子よりも他愛がない。
「常に、殺しちゃぁいるんだがな。・・・足りねぇようだ」
「はい?」
笑い含みの低い声に、総司は首を傾げた。
朝から、嵐のような天候となった。
「・・・法度ねぇ」
永倉が、溜息混じりに書面から目を上げた。
止まぬ雨に、巡察に出た者達は、誰もが濡れ鼠で戻って来た。
総司の一番隊しかり。先刻戻った永倉も、湯を使い、濡れ髪に手拭を乗せたままである。
「後ろ傷も切腹か。そりゃあ、後ろ斬られて引くような奴は、新撰組ではやっていけねえだろうよ。俺は、気に入ったぜ」
原田が、豪快に笑った。
法度書を見せられてから、数日後。
副長助勤が集められた部屋で、それぞれ読んでいた法度書である。
明日、公表されるそれは、総司が初めに読んだ内容と、殆んど同じものであった。
結局は、ほぼ草案通りに決まったようである。
西の空に、轟音と同時に、白い閃光が走った。
「おい、おい。今度は雷かよ?」
益々強くなる雨風に、夜番の原田は、大きく溜息を吐く。
「後ろ傷と言えば・・・」
永倉が、近くに固まる試衛館の面々を、面白そうに見回した。
「土方さんが、背中にもの凄い爪痕を付けられていた事があったぜ」
井上と藤堂が、吹き出した。
「歳さんらしい・・」
「後ろ傷には、違いねぇな」
「そんな傷なら、切腹覚悟で俺も欲しい処だぜ」
豪快に笑う原田の横で、総司が、弾かれたように腰を浮かせた。
「切腹?」
声が、上擦っている。皆が驚くと、慌ててその場に座り込む。貌が、真っ赤である。
「お前が赤くなってどうする?土方さんの艶聞なんぞ、耳にタコだろう?」
永倉が、揶揄(からか)い声を掛けた。
「いえ・・・」
薄闇色の瞳が、強張っている。
「永倉さん。あまり、苛めちゃ駄目だよ?」
井上が、助け舟を出した。
「総司は、この手の話には、あまり縁が無かったからね」
微笑む井上に、総司は頷く事も出来なかった。
「総司。そんな貌をするから、子供扱いされるんだ」
反対に座した斎藤が、静かに声を掛ける。
「一さん・・・」
総司は、俯いた。
耳の奥に、痛い程に鼓動が響く。指先が、どんどん冷たくなってゆく。
土方の背の傷、心当たりは間違い無く、自分の手指(てゆび)だった。
まだ日の浅い頃、かなりの傷を、土方に負わせてしまった。
それを永倉が知っていたなど、初耳だった。この場から、駈け出したいような衝動を必死に押える。脳裡を、永倉と原田の言葉が、ぐるぐると回り続けている。
夕刻には、まだ間があると言うのに、雷雨のせいで、辺りはもう暗い。
既に灯りを入れた副長室で、土方は、忙しく書き物をしていた。
「あの・・・」
遠慮がちな声に、土方は、文机に向かう躰を転じた。
「どうした?」
少し前に、やけに暗い表情で副長室を訪ってから、だんまりを決め込んでいた総司が、やっと口を開いた。
揺れる灯りの下、心なしか顔色が悪い。
「局中法度・・・明日は、隊士にお披露目ですね」
「ああ」
「・・・原田さんは、笑っていましたよ」
「あいつの性には、合うだろうさ」
土方が微笑むのを、総司は、眩しげに見つめた。
「・・・そうですね。原田さんには、きっと・・・合う」
やけに拙い話振りに、ふと心配になった。
そろそろ季節が動く。この想い人が、律儀に体調を崩す頃である。その上、今朝も巡察からずぶ濡れで戻っている。
土方は膝を詰め、白磁の頬にそっと触れた。
「少し、熱いな」
更に寄ると、総司は、怯んだように後ろに下がった。
「どうした?」
「いえ・・・」
端整な貌に見下ろされ、総司はうろたえる。
「雨に濡れたろう?・・・具合は?」
「大丈夫です・・・」
「何故、逃げる?」
「逃げてなど・・・」
視線が泳ぐ。嘘や、隠し事のある時の、幼い頃から変わらぬ癖。
「・・一体、何の隠し事だ?坊や」
口の端を歪めた土方に、総司は、弱々しく頭(かぶり)を振った。
寄られて引いてを繰返し、華奢な躰は、とうとう部屋の隅に追い詰められた。
薄闇色の瞳が、怯えたように土方を見上げる。
「お前は・・・」
土方は、笑った。
「ガキの頃から、必ず後が無い処へ逃げる。困った奴だ」
土方は、額にそっとくちづけた。閉じた睫毛が、微かに震えている。
そのまま、額を合わせる。やはり、常より熱い。
「熱があるぞ」
総司は、再び頭(かぶり)を振った。
「あの・・・背中は・・・」
「何?」
「土方さん・・・背中の・・」
「背中が、どうした?」
「あの・・・」
「何だ?」
総司は、鼓を奮った。
「背中の傷は、大丈夫でしょうか?」
「何?」
応えたら応えたで、この想い人の言葉は判じかねる。
「一体、何の話だ?」
「私が・・付けてしまった傷は・・・」
「お前が?・・・いつ?」
土方は、腕(かいな)の檻に、想い人を閉じ込めた。黙ったままの想い人に、土方も黙り込む。
静寂に支配された部屋に、強い雨音だけが響き渡る。
「・・・ずっと前・・・」
「前?」
総司は、土方の胸元に貌を埋めた。
「初めの・・頃に・・・」
何とも弱々しい声が、土方の胸に染みてゆく。
「何の、初めだ?」
「・・・それは・・」
腕に伝う鼓動が、これ以上無い程に跳ねている。
土方は、総司の柔らかな黒髪に貌を沈めた。口の端が笑うのが、どうにも堪えきれない。
この可愛い想い人が、一体何を心配しているのか、疾うに気付いたものを。
つい出てしまう意地の悪さに、些か、己に呆れ返る。
これこそが、責められても仕方の無い所業と言うものだ。
しかし、何故突然に、何年も前の事を持ち出すものか。やはり土方には判じかねる。
「爪痕を・・・沢山付けて・・・」
(そうだった)
「・・・噛み痕も・・・きっと、あります」
(・・・そんな事もあった)
土方は、細い頤を上向けた。見つめる薄闇色の瞳は、潤んでいる。
「心配なら、自分の目で確かめろ」
「えっ?」
「何の心配かは知らんが、気になるなら、お前が確かめろ」
「土方さん・・・」
「明日は非番だろう?たまには、此処へ襲いに来い」
次の言葉を言えぬであろう想い人に、土方はくちづけを降らせた。
それを受けながら、形の良い唇が、おずおずと言葉を紡ぐ。
「後ろ傷は・・・」
「うん?」
「切腹と、言ったから・・・」
「何?」
「・・・だから」
「お前・・・何を言っている?」
華奢な躰が、頽(くずお)れた。
「この馬鹿がっ」
土方は、怒りながら手拭を絞っている。
「どうも、変な事を言うと思ったら」
「・・・すみません」
布団の中から、薄闇色の瞳が虚ろに見つめている。
疾うに知った法度書で、どうしてこうも勘違いしたのか。全ては、熱のせいだった。
土方は、乱暴に手拭を乗せた。
「大体、何年前の傷だと思っている?爪痕など、疾うの昔に消えているっ」
不機嫌に、総司の貌を覗き込む。
「そもそも、そんな事で罰していたら、隊の半分は切腹だっ」
「・・・そんなに?」
総司が、驚きの声を上げた。
「・・・お前な・・・」
土方は、深々と溜息を吐く。
「巡察の後、濡れたまま出掛けていたな?身を冷やしたままにするから、熱を出す」
薄闇色の瞳が、大きく見開かれた。誰にも黙って出掛けた筈が、どうして、土方にはお見通しなのか。
「まだ、鴨の後始末を引き受けていたのか?」
更に続く鋭さに、総司は目を伏せた。
「後は、永倉と斎藤に任せてある。お前は、もういい」
「でも、土方さん。永倉さんは・・・」
土方は、ゆっくりと頷いた。
「沙汰があれば、永倉も外す。お前は引け」
「・・・急に、離れてしまえば、何事かと思われますよ」
「思わせておけばいい」
「土方さん・・・」
総司の声が、非難を含む。
雷鳴が、障子の白を鋭く射抜く。雨は、更に激しく地を叩き始めた。
「鴨に、何もされてねぇな?」
「何をです?」
拗ねたような総司の口調に、土方が、低く笑った。
端整な貌が近付き、総司の心の臓は、俄に跳ね出した。雨音にも紛れきれぬ高鳴りが、総司の耳奥に響いている。
土方の唇が、頬に触れた。
「こうして、触れられてなぞ・・・」
「土方さ・・・」
ゆっくりと、総司の唇をなぞるように触れ、そして、雷鳴が、白く轟く。
総司の細指が、土方の口元を押えた。
「駄目です」
「・・・嫌か?」
総司は、首を振った。
「風邪が、伝染(うつ)ります・・・」
「俺には、伝染らん」
「でも・・・」
「伝染らん」
雨が、更に激しくなる。
「この頬に触れたり・・・」
唇が、ゆっくりと面輪をなぞり、細い頤に触れる。
「盗まれは、しなかったか?」
「・・・全部・・」
吐息のような、想い人の声音に、土方は耳を寄せた。
「・・・全部、土方さんのものと、言っているのに・・・」
細い手が、土方の背に回る。そのまま、強く着物を握り締めた。
「・・・この、嘘つきが」
「嘘など、つきません。いつだって――」
土方は、華奢な躰を抱き上げた。
雷鳴が響く中、深く、深くくちづける。
「総司、具合はどうだ?」
カラリと、障子を開けた近藤の耳に、鈍く、嫌な音が響いた。
「・・・つっ」
見れば枕辺と、布団の中と、それぞれに額を押え、躰を折る、親友と愛弟子。
「・・・お前達、何をやっている?」
土方が、必死に声を絞り出す。
「・・・熱を・・・測ろうと・・・っ」
それでも、嘘は出る。
総司は、頭を枕から落とし、額を押えたまま、身動ぎも出来ぬ。
「・・・それで、ぶつけたのか?もの凄い音がしたぞ?」
悪天候に、不覚を取った。
「大体・・・歳、まだ額を合わせて熱を測っているのか?総司は、もう子供ではないのだぞ?」
まさか、唇を契っていたなどと、言えようか。
「総司、大丈夫か?」
「・・・・」
心配する近藤にも、総司は涙目のまま、口も開けない。
真っ赤に染まった貌は、羞恥か発熱か、本人もわからぬだろう。
「黒谷へ向かう前に、寄ったのだ。無理せずに、ちゃんと休むのだぞ?」
総司は、何とか頷いた。薄闇色の瞳に、涙が溜まっている。
部屋に静寂が戻ってから、総司が、漸(ようよ)う声を出した。
「土方さんの・・嘘つき・・・」
ぐったりと文句を言う総司に、土方は呆れた。
「お前な。・・・近藤さんに、本当を言えと言う気か?」
薄闇色の瞳が、熱に潤んでいる。
「背中の気配に、気付かなかったのですか?土方さんらしくもない・・・」
「お互い様だろう?・・・雷雨に、不覚を取ったな」
苦笑混じりの土方を見つめ、総司が、何か言いたげな様子を見せた。
潤む瞳が、何とも言えず艶めいている。
土方は、その口元へ耳を寄せた。
「・・・士道不覚悟」
野暮の、極みである。
了
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