『初午』――はつうま――
「誰かいねえかっ」市ヶ谷牛込柳町、甲良屋敷にある試衛館道場の玄関から、主周助の大音声が響いた。
道場で、羽目板の破れを直していた近藤、井上は、貌を見合わせた。
周助は、この春に内弟子となったばかりの宗次郎を連れて、神田にある学問所へ、入門の挨拶に出向いたはずであった。
「・・・出掛けて、一刻も経っていない気がしますが、随分と早いお帰りですね」
首を傾げた井上に、近藤は貌を顰めた。
「用を済ませるには、二刻は掛かるはずだ。早過ぎる」
「おいっ、白湯を呉れ」
再びの大声に、二人は立ち上がった。
近藤が駈け付けると、玄関に、怒り心頭の体の周助が仁王立ちしていた。傍らには、周助に腕を掴まれた宗次郎が立っていた。
引き立てられる様の宗次郎は、円やかな頬を紅潮させ、荒い呼吸をしている。
「養父上(ちちうえ)、どうなされました?」
「いいから、白湯を一杯呉れ」
一歩遅れて、盆に湯飲みを載せた井上が、早足に貌を出した。
上がり框にどかりと腰掛けた周助は、白湯を一気に干した。宗次郎は、息を弾ませながら、その様子を見つめている。
「今、濯ぎを持ってきます」
空の湯飲みを盆に返し、周助は腰を上げた。
「要らん、すぐに出掛ける。ゆくぞ宗次郎」
「はい」
近藤は、慌てた。
「では宗次郎にも、白湯を」
「宗次郎はいい」
「養父上っ」
目を向く近藤の隣で、次に慌てたのは、井上である。
「大先生、今からお出掛けになると、午(ひる)に掛かります。昼餉を・・・」
「要らん」
「すぐに、湯漬けの支度をしますから」
「要らんと言っている」
不機嫌を隠さぬ周助は、宗次郎を見つめた。
「まだ歩けるな?」
「はい」
背を向けた二人を、近藤は止めた。
「お待ち下さい。学問所の首尾は如何だったのですか?」途端、周助の背や肩から、噴き出すような怒気が上がった。
「あんな処へ、宗次郎を行かせられるかっ」
「え?」
「浪人の子が来て良い場所では無いと、ぬかしやがった」
周助は、吐き捨てた。
「それも、十かそこいらの小僧がだ」
「それで・・・、帰って来たのですか?」
近藤が、唸るように問うた。
「馬鹿野郎っ、そのまま帰るものか。教授方を怒鳴りつけてきた。こんな子柄(こがら)の悪い処なんぞ、こっちで願い下げだとな」
養父の短気に、近藤は絶句した。
確かに、先祖伝来の家格の上に胡坐をかく連中にとっては、武家とは言え、仕える主を持たぬ浪人など、数の内に入らぬだろう。それを、十ばかりの子供が憚りもせず口に出す、そんな歪んだ心根の驕児が多いのもまた世の常である。
しかし、子供のいじめは、時に陰湿で残酷なものがある。
近藤とて、そんな事に、大事の弟子を巻き込みたくはない。
「しかし、学問所は、どうされるのですか?」
「他を当たる」
「他と仰っても・・・」
「武張うばかりが学問じゃねぇ。町家の中で学ばせた方が、情の分かる子に育つ」
「当てが無いのなら、昼餉を取ってからでも――」
「要らんっ」
門の向うから、怒鳴り声だけが戻って来た。
師弟を呆然と見送った二人は、深く溜息を吐いた。「宗次郎を、学問所に入れたいと言ったのは、養父上ではないか・・・」
憮然とした面持ちの近藤に、井上は苦笑を浮かべた。
「大先生は大層怒ってらしたけど、当の宗次郎は、けろりとしていましたね」
周助の怒る間中、宗次郎は、大きな瞳を瞠って、じっと師匠を見上げていた。
表情に暗い影は無く、ただただ、師の怒り様に驚いている風であった。
その様子を思い出し、二人は吹き出した。
「・・・意味の分からぬ子ではないから、まあ、宗次郎らしいと言う事だ」
「さて、初午(はつうま)までに、決まりますかね」
初午は、二月最初の午の日の事で、お稲荷様の祭礼の日である。
この日は別に、吉日として、子供の寺子屋への入門日ともなっていた。
転がるように坂を下りた所で、周助は立ち止まった。「よし。宗次郎、団子を喰おう」
そのまま坂の下にある水茶屋に入り、据えられた長腰掛にどかりと坐る。
宗次郎は、目を丸くした。
「ここは焼餅も旨いぞ。餅にするか?」
腰掛に落ち着いた宗次郎は、乱れた息のまま、力なく首を振った。
食に関心を示さぬ子に、周助は眉を顰めた。
「お前は、もう少し喰えるようにならんといかんぞ。食とて、修行の内だ」
奥から、水茶屋のおかみが貌を出した。「おや、大先生じゃありませんか」
「おう。饅頭と団子を頼む」
おかみは、宗次郎を見て、にっこりと笑んだ。
「可愛い坊ですね。なんですか、大先生のお子さんですか?」
周助は、大仰に肩を竦めてみせた。
「おいおい。坂の上に聞えたらどうする。恐ろしい事言うねぇ」
茶菓を出したおかみと、一頻(ひとしきり)世間話に興じた周助は、話を切り替えた。
「ところで、この近くに、手蹟指南所(しゅせきしなんじょ)は多いかえ?」「多いようでございますよ」
「評判の良い師匠はいるかね」
周助の問いに、おかみは笑顔になった。
「おりますよ。神楽坂の近くにある紫明塾(しめいじゅく)」
「紫明塾?」
周助は、首を捻った。
「うちの娘や、この辺りの子供は大抵、その紫明塾に通っておりますよ」
「へえ・・・、男師匠かえ?」
「女師匠の方が多いですが、どの師匠も行き届いていて、中々良うございますよ」
「別嬪(べっぴん)は、いるかえ?」
「坂の上に聞えますよ。大先生」
おかみは、コロコロと笑った。
「武家の子も通っているかな」「半分はそうでしょう。珍しい事に、町家の子と武家の子と、子供達の仲も良いようですよ」
「よし。決めた」
周助は、膝を打った。
神楽坂近くの寺子屋なら、神田の学問所に通わせるより、試衛館にずっと近い。
あまり丈夫な質では無い幼い弟子には、負担も少ないだろう。
出された饅頭を一つ取ると、残りの饅頭と団子を、皿ごと宗次郎に渡す。
「昼餉が少し遅くなる。全部喰え」
おずおずと、団子に手を伸ばす宗次郎に、おかみは優しい眼差しを向けた。「坊、名前は?」
「宗次郎・・・」
「宗次郎ちゃんは、いくつかえ?」
「九つです」
「うちの娘より二つ下だね」
おかみは、微笑んだ。
「宗次郎ちゃん。紫明塾に通うなら、うちのみよと一緒にお行きなさい。朝に、ここで待つようにするから」
宗次郎は、周助とおかみを交互に見上げて、はにかむように頷いた。
団子を頬張る宗次郎を見ながら、周助は、煙草入れを取り出した。「試衛館(うち)に来て、半月だな」
「はい」
煙草を喫(の)むと、ゆっくりと、紫煙をくゆらせる。
「・・・下働きは、辛いか?」
「いいえ」
「かかあは、きつくはないか?」
宗次郎は、周助を見上げ、小さく首を振った。
「色々・・・、ちゃんと出来ないから・・・」
「最初から、何もかも上手く出来る奴なんざ、いねぇさ」
周助は、煙管の雁首で吐月峰(はいふき)をポンと叩き、火を落とした。
「お前の姉さん達のようには優しかねぇだろうが、かかあにも、少しは良い所はある。長い目で見てやるのも、男の器量さね」
小さく頷いた宗次郎に、大きく頷き返してやる。
「竹刀に触れないのは、辛いか?」周助を見上げた宗次郎は、コクリと頷いた。
「辛いです」
「そうか」
周助は、笑った。
「お前は、剣術に関しては正直で良い」
大きな掌が、頭を撫でた。
「確かにお前には才がある。人が苦心して越えなきゃならねぇ垣も、少しは低かろうが、それでも、そいつを越えるにゃ、鍛錬をしなければならん。磨かなきゃ、腕も人(にん)も光らねぇさ」
真摯に、まっすぐ見上げる幼い弟子に、微笑む。
「・・・こうやって、人の話を聞くのも修行だ」
「はい」
「良いか、宗次郎」「はい」
「水汲みや、掃除、薪割りも修行の内、指南所での学問も然り。全て身の、引いては剣の糧となり肥やしとなる。今、お前のやっている事は、剣を修めるに、一つの回り道も無い。ゆっくりで良い精進しろ」
「はい」
すっかり手の止まった宗次郎を促す。
「分かったら、残さず喰え」
一瞬、戸惑うように周助を見上げるが、何も言わずに俯いた。「どうした?」
「・・・食べ切れません」
「何言ってやがる。子供なら、饅頭や団子の二、三皿、ペロリと平らげるものだ」
「・・・・・・」
周助は、大きく溜息を吐いた。
「お前は、そうやって言葉を飲み込んじまうから、腹が膨れて、飯の入る場所が無くなっちまうんだ」
宗次郎は、再び師匠を見上げた。
「剣の修行の一番は、喰う事だぞ」
「・・・食べる事ですか?」
周助は、笑った。
「たんと喰えなきゃ、おめえと出掛けた時、内緒の買い食いが、出来ねぇだろう?」
宗次郎は、びっくりした貌をして、ニコリと笑んだ。
「はい」
驚く程、食の細い宗次郎ではあるが、その所作は、流石武家の子、見蕩れる程に美しい。
沖田の家の、行き届いた躾に感心しながら、未だ上手な甘え方を知らぬ幼い弟子に、目を和ませた。
試衛館で教えてゆくのは、剣のみでは無い。
「それから、な」「はい」
「兄弟子達の良い所は、どんどん盗め。だが、勝太のように固すぎるのも困るが、歳三のように、柔らかすぎるのも困る。あいつ等や、源三郎の良い処だけを手本にしろよ」
固い柔らかいの意味が分からず、宗次郎は首を傾げた。
「まったく・・・」
周助は、溜息を吐いた。
「糸の切れた凧野郎め、今頃、何処をほっつき歩いていやがるのか」
「大先生」
「何だ」
「糸の切れた凧野郎とは、歳三さんの事ですか?」
「他に、いねぇだろう」
宗次郎は、首を傾げた。
「でも、大先生。薬の商いは、試衛館に居ては勤まりません」
「商いだけなら、口は挟まん」
「・・・?」
更に首を傾げた宗次郎に、周助は苦笑した。
これ以上続けると、教育上、宜しくない話になる。
「さて、行くか」
「はい」
「端唄(はうた)でも、習わせるかな」竹刀の手入れをしていた近藤は、浮き浮きとした養父の言葉を、渋い貌で聞いていた。
横に並んだ井上は、苦笑を噛み殺している。
宗次郎の、紫明塾への入門を首尾良く決めた周助は、機嫌良く庭を眺めている。
視線の先には、小さな内弟子が、背丈の倍もある庭箒を、ぎこちなく使っていた。
その様に、ぐっと目尻を下げている。
「紫明塾とは、何処かで聞いたと思ったら、旧知の者が居てな。あの御人(おひと)が師匠の一人なら、心安いものだ」「まさか、大先生のお知り合いに、手習い師匠が居るとは、思いませんでした」
周助は、鷹揚に腕を組む。
「・・・浄瑠璃もいいな」
学ばせるのが学問だけでは、「固くなる」と、思案にくれる周助であった。
「三味(しゃみ)もいいな。あれなら歳三に習ってもいい」
「・・・宗次郎は武家の子です。三味線も、浄瑠璃も駄目ですよ」
周助は、ちらりと息子を見た。
「相変わらず固ぇなぁ」
近藤は、むっつりと口を噤んだ。
周助は、ぽんと手を打った。「武家の子なら、謡曲(うたい)は、習わせないとならねぇな」
近藤は、堪り兼ねて口を開く。
「養父上」
「何だ」
「宗次郎も、随分、躰がしっかりして来ました。そろそろ、竹刀を握らせては如何でしょうか?」
「まだ早い」
「しかし」
「俺が良いと言うまで、許さん」
周助の応えは、にべもない。
「それに、習うなら、謡曲が先だ」
益々、むっつりとした近藤に、周助は、やれやれと溜息を吐いた。
「本当に、おめえは固ぇな」
「固くて、申し訳ありません」
「馬鹿野郎」
周助は、養子を軽く睨んだ。
「おめえが固ぇから、跡目に決めたんだろうが」
目を丸くした後、真っ赤になった近藤に、周助は破顔(わら)った。
そして初午の朝。柄樽を下げた師匠に連れられ、小さな少年が、ゆっくりと坂を下りて行った。
了
戻る