ももの木ちい様、そして御投票頂いた皆様へ、心よりの感謝を込めて。
『風花』
――姉上様そこまで書いて、手が止まる。
宗次郎は、小さな溜息を吐き、筆を置いた。
稚(おさな)い面を文机から上げ、閉じた障子に瞳を細める。
障子を透かせて入る陽は、部屋の中を明るく照らし、壁や畳に、ゆらゆらと楽しげな光の模様を形作る。
時折、物売りの声が通り過ぎるだけで、稽古が休みの道場は、しんと静まっている。
冬の、静かな午後である。
文机の書に視線を戻し、また一つ溜息を吐いた。こうして随分経つが、文は、少しも進まない。
筆に墨を含ませ、再び文に向った宗次郎は、次に微かな物音に手を止めた。
試衛館の古い廊下は、住まう人の歩みそれぞれに、異なる音を立てる。
若い師匠なら大きな軋み音を、井上なら穏やかな音を、そして、油断の無い音は、喧嘩上手の兄弟子のもの。
猫の如き忍び音に、宗次郎は、ひたと障子を見つめた。
「・・・何だ、起きているのか」そっと障子を開けた土方は、部屋の様子に眉を顰めた。
小さな部屋に延べられた布団の主は、文机の前に行儀良く座っているが、夜着に何も羽織らず、その上に素足だった。
振り仰いだ大きな瞳が、背中の向こうの青空を見つめているのに気付きつつ、サッと障子を閉じた。
風邪を拗らせ、幾日も寝込んだ宗次郎にとって、外の景色は焦がれるものであろう、しかし、まだまだ外出(そとで)を許す訳には行かない。
「こら、チビ助。そんな薄着で、何やってやがる」
片手に持つ盆を放るようにして、小さな躰を抱き上げる。
「寒くないよ」元気良く応える少年を、睨めつけた。
「馬鹿言え、冷え切っているじゃねぇか」
布団に被せてあった綿入れを引き寄せ、手早く着せる。
「綿入れってのはな、布団に掛けて置く物じゃねぇんだぞ」
大きな掌で、小さな足を包み込む。
「身を冷やすと、また風邪をぶり返すぞ」
小言を言いながら、額を合わせたり、冷たい手足を温めたりと、忙しい。
土方は、脇の火鉢にも眉根を寄せた。鉄瓶は、湯気の一つも立てていない。
宗次郎を床の上に下ろすと、鉄瓶を除(の)け、消えかかった炭を弄り出す。
「これじゃ、寒かっただろう」
「平気だよ」
土方は、じろりと横目で睨んだ。
「お前の『平気』は、信用できねぇ」
宗次郎は、手際良く炭を熾す土方を見つめた。
「歳三さん」
「・・・何だ?」
「まだ、禁足しないと駄目?」
「駄目」
「外が晴れていても、駄目?」
「駄目」
素気ない応えに、宗次郎は肩を落とした。
「・・・禁足はね、たいくつなの」「たいくつでも、駄目だ」
「どうして?」
ザクリと、火箸を乱暴に突き立て、鉄瓶を戻した土方は、不機嫌に振り返った。
「あれだけたっぷり熱を出して、やっと粥が喉を通るようになったばかりだろうが。飯粒の形がはっきりわかるものを、残さず喰えるようになるまで駄目だ」
宗次郎は、不満気に頬を膨らませた。
「昼餉は、残さなかったよ?」
「粥一膳、梅干し一つが喰った内に入るか。普段の飯を一膳、お菜(かず)を残さず喰うまでは禁足だ」
ピシャリと話を終らせた土方に、宗次郎は、がっかりした。
元気な時の宗次郎でも、飯一膳は強敵である。
土方は、小さな躰を膝上に乗せた。「チビ、口開けろ」
喉奥は、まだ赤く腫れていた。
「喉は痛いか?」
大きな薄闇色の瞳に、警戒の色が浮かんだ。
「・・・痛いと、薬?」
「その応えは、痛いって事だな」
「痛くないよ」
大きな声で返事をするが、段々と、瞳を泳がせる。
「お前は、嘘が下手だな」
にやりと笑う土方に、宗次郎は、ぷくりと膨れた。
「痛いのは、少しだけだよ」
素直で良い。
宗次郎は、おそるおそる盆の湯飲みを覗き込んだ。湯飲みの底には、卸(おろ)した生姜が入っていた。
「・・・生姜?」
「そうだ。湯が沸いたら、生姜湯にする。喉にも良いし温まるぞ」
土方は、指先で湯飲みを弾いた。
「本当は、生姜の絞り汁を使うんだが、お前の場合、喰える物は少しでも腹に入れた方が良いからな」
土方の腕の中、「昼餉は、ちゃんと食べたよ」と、小さな抗議が聞えた。
「生姜が薬?」「薬はこっちだ」
袂から、紙包みを出した。
土方は、包みの中身を摘み出すと、無造作に湯飲みに放り込む。
何やら黒い塊に、宗次郎は、小さな身を固くした。
「・・・なあに?」
おずおずと土方を見上げた宗次郎の唇に、黒い粉の付いた指先を押し当てる。
「ほら」
小さな舌が、恐々と土方の指を舐めた。
濃厚な甘味が、口中に広がる。
「・・・黒砂糖?」
「良い薬だろ?」
宗次郎は、にこりと頷いた。
鳴り出した鉄瓶の湯を湯飲みに注ぐと、生姜の香りが、ぱっと立つ。土方は、小さな手に湯飲みを持たせた。
「熱いから、気を付けろよ」
「はい」
腕の中で、ゆっくりと生姜湯を飲む宗次郎の、熱の戻らぬ足を温める。
「・・・足袋も厚着も嫌いで、困ったもんだ」
宗次郎が、貌を仰向けた。
「でも、寒くないよ」
「黙って飲め」
どこか遠くで、けたたましく椋鳥(むくどり)が鳴いた。
土方は、文机に目を走らせた。「姉さんに、文か?」
胡坐の中の宗次郎は、コクリと頷く。
「源さんが、今度の出稽古の時に届けてくれるって」
「そうか、良かったな」
「でも・・・」
「でも、何だ」
宗次郎は、困ったような貌をした。
「書けないの」
土方は、首を傾げた。
「書くのは苦手じゃないだろう?」
宗次郎は、細い首が折れそうな程に項垂れた。
「どうした?」土方は、小さな面を覗きこんだ。
稚い少年は、無理にでも口を開かせないと、言葉も感情も、全てを胸に仕舞い込み、固く秘してしまう。
「どうした?」
優しく促す声に、伏せた瞳が、おずおずと上げられた。
「あのね・・・」
「うん?」
「源さんが、元気でやっているって書けばいいって」
「そうだな」
宗次郎は、切羽詰ったように土方を見上げた。
「でも、今は元気じゃないでしょう? だから、書けないの」
土方は、思わず吹き出した。
怒って膨れた頬を、指先で撫でる。
「悪かった。そうだな、嘘は書けねぇな」
土方は、懐から手拭いを取り出した。「なら、早く『本当』にしないとな」
縦に細く折り、宗次郎の首に巻くと、両端を襟元にしまう。
宗次郎は、喉元に触れた。
「襟巻・・・?」
「喉や手足を冷やしていると、いつまでも文が書けねぇぞ」
宗次郎は、大きな瞳を輝かせた。
「襟巻をしていたら、外に出てもいい?」
「駄目」
「つまらない」
「何言ってやがる」
土方は、笑った。
「ぶり返して寝込む方が、余程つまらねぇぞ」
元気になるにつれ、一つずつ、他愛の無い駄々が増えてゆく。
「ほんの少しだぞ」と約束して、宗次郎を抱き上げた土方は、障子を開けた。明るい冬陽に、宗次郎は、大きな瞳を眩しげに細めた。
遠い空に、気の早い凧が一つ舞っていた。
縁の軒下には、端から端まで、ぎっしりと吊るされた干し柿が、静かに揺れている。
試衛館の渋柿は、この秋はよく実った。
真っ青な冬の空に、橙色の柿の簾(すだれ)が、鮮やかな彩りを添える。
「歳三さん」小さな指が、空をさした。
井戸端にある柿の木の天辺に、柿の実が三つ、採られぬままに残っていた。
土方は、目を眇(すが)めた。
「流石の源さんも、あそこは採れねぇな」
甘い柿なら、鳥の為にもっと残して置くものだが、ここの柿は、とても喰えたものではない。
「鳥、食べるかなぁ」
「渋柿だ。喰わねぇさ」
「・・・いつか、甘くなる?」
「無理だろうな」
軒下の簾を見つめ、小首を傾げた。
「干し柿にすれば、甘くなるの?」
「ああ」
宗次郎は、大きな瞳をやんちゃに輝かせた。
「三つ共、木に登ったら、採れるよ?」
土方は、腕の宗次郎を睨み付けた。
「・・・柿の木に登っちゃいけねぇと、前にも言ったな?」小さな躰が、ギクリと身を竦ませる。
「登っていないよ」
「どうだかな」
小さな尻を軽く叩くと、宗次郎は震え上がった。
『駄目』と言われた木登りをして、盛大に尻を叩かれたのは夏の事だ。
必死の形相の宗次郎は、思い切り首を振った。
「本当に、登っていないよ」
無言のままの土方に、必死で訴える。
「本当だよ」
「・・・登ったら、尻叩きだぞ」
宗次郎は、ぎゅっと目を瞑り、コクコクと頷いた。
土方は、苦笑した。
「やっていないなら、堂々としていろ」
おずおずと貌を上げ、探るように土方を見つめた。「叩かない?」
「お前が、やんちゃをしなければな」
宗次郎は、ホッと息を吐いた。
「本当に、登っていないよ」
「随分と念を押すな」
宗次郎は、憂鬱な溜息を吐いた。
「歳三さんが叩くのは、すっごく痛いんだよ」
「お前が、叩かれるような事をするからだろう」
「でもね」
声を落とした宗次郎は、内緒話の貌をした。
「叩くので一等痛いのは、姉上」
「・・・光さんか」
あの佳人が、やんちゃな弟に手を焼き、必死の想いで細腕を上げる姿には、同情を禁じえない。
「光さんも、気の毒だな」
「叩かれる方が、気の毒だよ」
むくれた宗次郎に、土方は、声を立てて笑った。
「お前が、やんちゃをするからだ」
吹き抜けた冬の風に、きらきらと、白い光が舞った。土方の腕の中、小さな躰が伸び上がる。
「歳三さん、あれは雪?」
「風花だ」
「雪は降る?」
大きな薄闇色の瞳が、期待に輝く。
風花は、舞うようにきらめいては、青い空に融けてゆく。
「雪雲は見えねぇし、降りはしないだろう」
がっかりする宗次郎に、土方は笑った。
「丁度良いだろ?」
「どうして?」
「今降っても、禁足で遊べないからな」
宗次郎は、目を丸くした。
「早く元気にならねぇと、雪にも、源さんの出稽古にも間に合わねぇぞ?」
「はい」
神妙に応えを返す宗次郎に、口元を笑ませた。
霜月の風に、橙色の簾が重く揺れる。腕の中で、欠伸した宗次郎に、微笑した。
生姜湯の効能か、小さな躰は、ほっこりと温まっている。
土方は、とろりとした瞳を覗き込んだ。
「夕餉まで、眠っちまえ」
障子を閉じると、床に寝かし付ける。
「・・・歳三さん」
小さな手が、遠慮がちに袖を引いた。
「何だ?」「夕餉も粥?」
土方は、床の少年を見つめた。
「・・・まだ、飯の水を引くのは早すぎるだろうな」
「夕餉も、また部屋(ここ)で食べなければ駄目?」
「うん?」
「台所で、皆と一緒に食べては駄目?」
土方は、目を細めた。
部屋での食事は、土方が張り番をしているものの、世話焼きだけで膳を並べている訳ではない。
他愛の無い駄々ではあるが、言葉の端々に、寂しさが見え隠れする。
心細げに揺れる薄闇色の瞳に、笑いかけた。「起きた時、咳が出なければな」
「本当?」
袖を握る小さな手を、包み込んで布団へ戻す。
「綿入れも足袋も、ちゃんと着けるんだぞ?」
「はい」
素直に頷いた宗次郎は、ゆっくりと目を閉じた。
「・・・歳三さん」
「何だ?」
「木にも、登らないよ」
眠りに落ちた少年を前に、吹き出しそうになるのを堪え、口を引き結んだ。
そして、どうやら二番目に痛い折檻をするらしい己の掌を、暫し見つめた。
了
2006.08.10
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