『入門』
低く垂れ込めていた曇天が、光の刃に切り裂かれ、雲間から、澄んだ青空を覗かせ始めた。蒼穹は、どこまでも高く、厳しい冬の色をしている。
――この冬は、江戸でも日野でも、一度も雪を見ていない。試衛館の狭い庭に、薄い光が落ちる様を見つめながら、土方はそんな事を思った。
明るく照らされる庭木には、未だ春の欠片も見えはしない。
午前(ひるまえ)に舞った風花も、雪にはならずに消えていった。
「雪は、降りそうもねぇな」背中で、竹刀の手入れをしていた井上が笑った。
「歳さん。今日は、降らないほうがいいさ」
「・・まあな」
腕組みし、柱に凭れ掛かりながら、ぼそりと応える。
道場に端座する井上は、手入れの済んだ竹刀を、手際よく並べてゆく。隣に座す近藤も、同じ作業をしているが、手は、先程から止まったままである。
「時間は、掛かるのかな・・」
低く呟く近藤に、土方、井上は、声の主を見つめた。
「掛かるも何も、来たばかりじゃねぇか」
土方の応えも耳に届かぬ様子で、近藤は、深い溜息を吐いた。
「まだ、松も明けていないのに・・」
「・・・」
三人共が、無言のまま視線を上げた。
視線の先の奥の間には、道場主、近藤周助の私室がある。
ピタリと閉ざされた障子の向こうには、本日から、家族と引き離される少年がいる。
午(ひる)を少し過ぎた頃、沖田家の姉弟二人は、試衛館の門をくぐった。日野からの道程(みちのり)は、女、子供の足では、楽なものではない。
小さな風呂敷包みを抱え、弟の手を引いた光は、やや青ざめて見えた。
それが、疲れだけでは無い事は、一目で知れた。
光の目元は、赤く腫れていた。
今回の話が誰より辛いのは、この美しい女性(ひと)だろう。
「お疲れでしたでしょう?」
「雪が降らずに、幸いでした」
玄関口で、労(いたわ)りの声を掛けた近藤に、光は静かに微笑んだ。
「宗次郎、よく来たな」出迎えた近藤、土方を見上げ、宗次郎は、あどけない笑顔を見せた。
手を引かれた小さな少年は、身支度を整え、袴を着していた。
しかし、元来が華奢な造りの宗次郎である。
きちんと着付けられてはいたものの、袴は、今にも脱げ落ちそうに見えた。
それはそのまま、少年の幼さに繋がる。
宗次郎の、今日からの暮らしを思えば、切なさだけが先に立つ。
(雪が降れば、光さんも帰らずに済むってのにな)
柱に凭れながら、今度は、土方が溜息を吐いた。
奥の部屋から出てきた周助の妻が、廊下を踏み鳴らすように戻ってきた。手に持つ盆は、今にも叩きつけられそうだ。
その様子に、三人は思わず息を飲む。
不機嫌の権化のような様に、井上が、手に持つ竹刀を取り落とした。
「・・荒れそうだな」
腕組みを解いた土方は、小さく笑って、廊下へ出た。
「おかみさん、中の様子はどうでした?」
おかみは、フンッと鼻を鳴らした。
「あんなに小さくちゃ、 下働きの助けにはならないね」
「養母上(ははうえ)・・」
近藤が、戸惑いの声を掛ける。
それを、鋭い一瞥で黙らせ、おかみは息巻いた。
「内弟子と言っても、女の子のようじゃないか。いっそ、下働きの小女(こおんな)を入れた方がいいだろうよ」
押し黙った近藤に代わり、土方は艶やかに笑む。
「あの姉弟(きょうだい)、瓜二つだったでしょう?」おかみは、土方を見上げ、渋々と同意した。
「確かに、似てはいるね」
「そうでしょう?二番目の姉さんも、良く似ているんですよ」
土方は、蕩けそうな笑顔を見せた。
此の上なく端正な貌に、極上の笑みを見せられ、頬を赤らめる養母(はは)の姿に、近藤は顎が落ちそうになった。
(こうやって、女を落とすんだな)
親友の振舞いに、呆れながらも感心する。
義母(はは)は、宗次郎の内弟子の話からずっと、養父(ちち)の不義を疑っている。あまりに理不尽な疑いに、憤慨した近藤だったが、養父(ちち)の所業を思えば、致し方無しである。
然しながら、沖田家の三人の姉弟は、皆、良く似た面差しをしている。
中でも、長姉の光と、末弟の宗次郎は、鏡を合わせたようにそっくりである。
二人を並べて見れば、養母(はは)の疑念など、入り込む余地は無いだろう。
さりげなくもしっかりと、念押しする土方に、近藤は、心裡で感嘆した。
使いどころさえ誤らねば、罪作りな親友の貌も、世の中の役に立つ。
奥の間では、周助の前に、光と宗次郎が並んで座していた。両の手を揃え、丁寧に挨拶する光の隣で、同じ姿勢の宗次郎は、出された菓子と周助とを、交互に見つめている。
その様子に、周助は頬を緩ませた。
「・・宗次郎、遠慮せずに食べな」
しかし、宗次郎は首を傾げる。
「大先生は?」
「俺かい?」
どうやら、気になっていたのは、周助の前に菓子が無い事のようだ。
「俺は、良い」
小さな手が、菓子皿に伸びるのを、光は慌てて止めようとした。
「宗次郎、いけません」
「お光さん、構いませんよ」
宗次郎は、手に取った菓子を、二つに割った。興味深く見つめていると、大きい方を周助に差し出し、にこりと笑う。
「大先生、半分こ」
周助は、目を丸くした。
手を出さぬ周助の傍近くまで寄り、大きな手に菓子を乗せる。
「はい」
周助は、小さな頭を豪快に撫でた。
「ありがとうよ」
「宗次郎、行儀が悪いですよ」
赤くなった光に、周助は笑顔を見せた。
「良い子に育てられましたな」
「いえ・・、行き届きませんで、申し訳ありません」
「いいや、宗次郎は良い子だ」
周助の言葉に、光の瞳が揺れた。
慌てて伏せた瞳から、白い手の上に、パタパタと雫が落ちる。
「・・歳の離れた弟ゆえ、甘やかして育てました。至らぬ処が、多々ございます」
光は、深々と頭を下げた。
「どうか、宜しくお願い申し上げます」
細い声は、隠せぬ程に震えていた。
今日の内に、日野へ戻ると言う光を、近藤、土方、井上は、宗次郎と共に見送った。少し離れた処に立つ三人に、深々と頭を下げると、光は、小さな弟を見つめた。
「宗次郎・・、おいで」
膝を付き、両手を広げる光に、しかし、宗次郎は躊躇した。
その姿に、土方は僅かな違和感を覚えた。
もう一度促され、おずおずと近寄る小さな弟を、光は、固く抱き締めた。「宗次郎・・」
「はい」
光は、微笑んだ。
「父上は、あなたが生まれた時、大喜びだったのですよ」
「・・父上?」
小さく首を傾げた弟に、光は頷いた。
「沖田の家にやっと男の子を授かったと、それは喜んでおられました」
再びそっと、弟を抱き締めた。
「いいですか?父上に恥じぬよう、精進なさい」
光の腕の中、宗次郎はコクリと頷いた。
「・・父上の脇差は、大先生に預けました。宗次郎が、持つのにふさわしくなったら、渡して下さいますからね」
「はい」
そっと、躰を離した。
「姉さん・・・」光は、静かに首を振った。
「姉上と、お呼びなさい」
「・・・姉上、きぃちゃんには、いつ会えるのですか?」
光は、一瞬驚いた貌をして、口元を引き締めた。
「きんは、中野家の人間です。会う事は出来ません」
「でも・・」
「宗次郎、駄々はいけません」
宗次郎は、唇を噛み締め、俯いた。
光もまた、きつく唇を噛み締めた。
江戸に出れば、嫁いだ姉に会えると思っていたのだろうか――。
今更ながら、九つと言う稚(いとけな)い年齢(とし)が、光に重く伸(の)し掛かる。
「・・いつか、会えた時は・・・」
光の声に、宗次郎は貌を上げた。
「いつか会えた時は、きんの事も、姉上とお呼びなさいね」
「・・はい」
光は、振り向かなかった。細い肩を震わせながらも真っ直ぐ前を向き、小さな弟を、試衛館を、振り返る事はしなかった。
姉の姿が見えなくなっても、宗次郎は、坂の上にずっと佇んでいた。
小さな背が泣いているようで、堪らず近藤が声を掛けた。
「宗次郎・・・」
宗次郎は、ビクリと振り向いた。
大きな薄闇色の瞳は、濡れてはいなかった。
しかし、乾いた瞳に、何の感情も見えぬのが、酷く痛ましい。
宗次郎は、三人の兄弟子を順に見上げ、少し考えてから口を開く。「若先生、・・おじうえ、・・・土方さん。これからお世話になります」
深々と頭を下げる宗次郎に、三人は貌を見合わせた。
「随分と、よそよそしい挨拶だな」
腰を落とした土方を、上目遣いで見上げる。
「歳三さん・・・」
声にしてから、薄闇色の瞳が揺れ、おずおずと言い直す。
「ひ・・じかたさん」
「何だよ、チビ助。その呼び方は?」
土方は、苦笑した。
「してはいけない事です」「何?」
土方は、片眉を上げた。
近藤、井上も貌を見合わせ、首を傾げる。
「チビ・・、言葉を端折るなと、いつも言っているだろ?」
土方の渋い声に、薄闇色の瞳が不思議そうな色を浮かべた。
「端折っていないよ?」
「ならば、俺達にも、わかるように教えてくれ」
近藤の声に、宗次郎は頷いた。
「姉さ・・、姉上に、教わりました」
「してはいけない事を、か?」
宗次郎は、コクリと頷いた。
「歳三さんは、兄弟子なのだから、『土方さん』と呼びなさいって」
宗次郎は、舌に馴染まぬ『土方』の名を、殊更ゆっくりと口にした。
三人は、黙り込んだ。
これは、一つ二つの話ではなさそうだ。
恐らくは、試衛館までの道程(みちのり)で、こんこんと言い含められたのであろう。
「来い、チビ助」
土方は、小さな躰を引き寄せると、軽々と抱き上げた。
「ひじかたさん・・・」降ろす気配のない土方に、宗次郎は困惑した。
「あのね・・、抱っこするのも、いけないの」
先程の、違和感の正体がわかった。
宗次郎の耳に、土方の笑い声が聞こえた。
「歳三でいい。・・そんな舌足らずで呼ばれちゃぁ、甘ったるくてしょうがねぇ」
「・・でも・・」
「俺も、出来れば『源さん』がいいなぁ」
井上も、笑った。
貌を上げた宗次郎に、土方は笑い掛けた。
「お前が大人になって、舌が回るようになってから呼んでくれ」
宗次郎は、薄闇色の瞳を大きく見開いた。
「今日から大人です」
三人は、肩を震わせた。
「こんなチビっこい大人が居るか。お前は、まだまだ子供だよ」
「でも・・・」
近藤が、宗次郎の頭を撫でた。
「いいか?宗次郎。子供の内に出来る事は、ちゃんとやっておけ。お前は、まだまだ甘えたり、泣いたりしていいんだ」
近藤の言葉に、宗次郎は戸惑うように頷いた。
廊下が、ギシリと音を立てる。耳慣れぬその音に、宗次郎は、布団の中で聞き耳を立てた。
初めての部屋での、初めての夜、大き過ぎる夜具に、小さな躰は泳いでしまう。
「宗次郎・・」
障子に映った大きな影が、静かに部屋を覗き込む。
「歳三さん」
「・・眠れないのか?」
土方は、するりと部屋に入り込んだ。
灯りを落とした暗闇に、大きな瞳が光を放つ。
ゆっくりと、布団の横に胡坐をかき、宗次郎を覗き込む。
「いつもより喰わなかったな、腹減ってねぇか?」
宗次郎は、小さく首を振った。
「・・疲れ過ぎて、眠れねぇか?」
土方は、柔らかな頬をそっと撫でた。
「久しぶりに、一緒に寝るか?」大きな瞳が、零れ落ちんばかりに開かれた。
「・・いいの?」
「お前が大人で、恐かねぇってなら、遠慮するぜ?」
その言葉に、宗次郎はしょんぼりと項垂れた。
「・・もう大人だから、一人で平気」
土方は、吹き出した。
「お前、光さんに何て言われたんだ?」
宗次郎は、小さな手を布団から出した。「今日からは、大人の扱いをされると思いなさい」
一つ、指を折る。
「それから?」
「大先生と若先生を、父とも、兄とも思いなさい」
(そりゃ、不味い)
土方は、心裡で苦笑した。
「・・あとは?」
「歳三さんに、甘えてはいけません」
小さな指が、三つ折られた。
「・・我儘を言ってはなりません」
「我儘?お前がか?」
宗次郎は、土方を見上げて頷いた。
土方は、小さく溜息を吐く。
(このチビ助が、我儘を言った事などねぇだろうよ)
五本目の指が折られる。
「泣いてはいけません」
「ばーか」
土方は、小さな額を指先で弾いた。
驚いて首を竦めた宗次郎の、両の頬を掌で包み込む。
「いいか?チビ助、良く覚えとけ」「なあに?」
「泣くのを堪える為には、まず泣け」
宗次郎は、驚いた。
「泣くの?」
「そうだ。泣き方を知らなきゃ、堪える術も分からねぇだろ?」
宗次郎は、瞬きもせずに土方を見つめる。
「勝っちゃんも言ってたろ?泣きたい時はちゃんと泣け。たくさん泣いて、泣くのを覚えろ。泣くのを堪えるのはその後だ。わかったか?」
「でも・・」
「でも、じゃねぇ。言いたい事は飲み込まず、ちゃんと言えるようにもしろ」
大きな瞳を見開いたままの宗次郎を、土方は覗き込んだ。
「どうした?」
「歳三さん・・」
小さな躰が、少し震えた。
「姉上は・・・宗次郎が要らなくなったのかなぁ」
土方は、言葉を失った。
貌を上げない小さな頭を、少し乱暴に撫でる。
「・・ばか。そんな訳あるか」
小さな躰は、冷たかった。
土方は、宗次郎を膝上に抱き上げた。たった九つなのだ。
どれ程の不安で、今日の日を迎えたのか――。
十一の歳に、奉公へ出された時の心細さを思い出す。
「冷てぇ躰だな。・・風邪引くぞ?」
土方は、小さな躰を懐深く抱きこんだ。
「・・要らないから、遠くまで、捨てに来たんじゃないのかなぁ」
土方の胸に、小さな声が染み込んだ。
「・・・光さんも、随分と知り合いの多い処へ捨てたものだな」土方の明るい声音に、宗次郎は貌を上げた。
薄闇色の瞳に、一杯の涙が溜まっている。
土方は、優しく笑んだ。
「お前が、剣術を修めるのを、楽しみに待っているさ」
宗次郎が、小さく泣きじゃくった。
「・・・大好きな姉さんと別れたんだ。泣いていいんだぞ?」
「歳三さん・・・」
小さな声が、土方の耳に届いた。
「姉上・・、一人で帰るの、寂しかったかなぁ?」
「当たり前だろ?」
漸く零れた涙を、土方は指先で拭った。
「今頃、光さんもお前の事を想っている。・・泣いちゃいねぇか、心配でな」宗次郎は、濡れた睫毛を持ち上げた。
「泣かないよ」
「ばーか」
土方は、柔らかな頬を突っついた。
「男が泣かねぇのは、女の前だけだ。今は泣いとけ」
土方は、小さな躰を抱いたまま、布団に潜り込んだ。「歳三さん・・」
「何だ?」
小さな手が、襟元を握った。
「昨日はね、姉上と一緒に寝たよ」
「そうか、良かったな。・・おやすみ」
「おやすみなさい」
欲と言うものに、あまりにも淡すぎる少年は、自分の想い一つ、上手く外に出せはしない。安らかな寝息が聞こえるまで、土方は、小さな躰を撫で続けた。
上手く出せぬなら、引き出す術を教えれば良い。
「ま、ゆっくりやるさ」
土方は、ゆるりと目を閉じた。
出来るなら、この小さな少年の、囁き声一つであっても、取り零さずに拾えるように――。土方は、小さく笑った。
「長い喧嘩に、なりそうだな」
了
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