『白兎』

 

 

「いい加減にしねぇか」

 

頭の上から掛かった不機嫌な声音に、庭の雪景色を見つめていた華奢な体が、ゆっくりと声の主を振り仰いだ。

見上げたまま、薄闇色の綺麗な瞳を細め、声の主をその瞳に捉えて映し出す。大きな瞳の中、二つに映った端正な貌は、この上ないと言うように苦々しく眉根を寄せている。

 

「総司・・・お前はそんなに風邪を引きてぇのか?」

顰められた貌に負けぬ程の、うんざりとした響きの低い声に、叱られた方は声を立てて笑い出した。

「土方さん、そんなお貌をしていると折角の良い男が台無しですよ」

「誰のせいだと思ってやがる」

苦々しく言い放つ土方の目に、足袋すら履かず、無造作に縁から外に出されている総司の白い足が見えた。

 

「何をしてやがるっ」

とうとう怒鳴りだした土方を、見上げたまま総司はまだ笑っている。

「雪を見ていたのです」

莫迦っ!そんな物は部屋から見ろっ」

土方の苛々した声すらも、笑いの種と言うように総司の笑い声は収まらない。その内、冷たい空気に耐え切れなくなった繊細な喉から、小さな咳が零れ始めた。

 

土方は怒った貌のまま、咳を堪えて丸くなる背の主を、座っていた縁から軽々と引き上げその腕に抱え込んだ。抱き上げられた方は一瞬、驚いた貌をしたが、止まらない咳の為、次の言葉が紡げない。そのまま部屋の中に運ばれ、あっという間に延べてあった床の中に入れられた。

 

 

 

大気までもが凍えるかのようにキンと冷えた雪の中、まるで、その景色に溶け込むように薄い夜着に肩から軽く羽織を掛けただけで縁に座る総司の姿を見つけた時、土方は心の臓が凍りつく程に驚いた。

数日間続いた高熱がやっと収まり、漸く安らいだ寝顔を見せる想い人に、こちらもやっと安堵して出掛けたのは今朝の事。戻ってくればこの有様だ。

ずっと看病をしていた井上源三郎の姿が無いのは巡察に出掛けている為だろう。

 

「言わぬ事はない。何故、大人しく寝ていない」

「雪を見ていたのです」

「それは聞いた」

漸く咳の収まった華奢な体に、土方は怒りながら布団を首の上まで引き上げた。その枕元に座り、大きな手を額に乗せて熱をみる。

「・・熱があるじゃねぇか」

更に怒りながら枕盆の薬湯を取り上げた。総司は布団から目だけを出して、じっと土方を見つめている。

 

「・・今日は体の調子が良かったのに」

「お前の体の調子は、俺のほうが余程詳しい」

憮然とした風に言う土方に、総司は再び笑い声を立て始めた。

 

「・・・少しは笑わずにいられねぇのか?」

薬湯を飲ませようとしていた土方は、笑いすぎて湯飲みを受け取る事の出来ない総司に呆れたように呟く。その貌から寄せられていた眉間の皺が漸く解けた。

 

土方は、出来得る限りの恐い貌を作り、総司の笑いを封じ込めると、抱き起こし、無理やり薬湯を飲ませた。再びしっかりと布団に押し込めると、盥の手拭を固く絞り、総司の熱い額に乗せた。

そこまで済ませて、漸く着ていた黒羽織を脱ぎ、すぐに横の火鉢を弄り出す。小さくなっていた炭の火が勢い良く熾った。

 

 

五日前、京にこの冬初めての雪が降った。

胸に巣食う宿痾が故か、雪が降ってすぐに体調を崩し、風邪を引いて寝込んでしまった総司を、誰よりも気に掛けながらも、仕事に忙殺され、中々見舞えずに心配が苛々に変わっていた土方だった。

 

看病を請け負ってくれた井上源三郎に問うても、食事は摂らない、薬は飲まないと困り果てた様子に土方と二人で溜息の日々。やっと辛そうな寝顔よりも床の中で悪戯気に瞳を開けている姿を覗けるようになったと思えば、今度はこの無頓着ぶり。

焦がれて止まぬ想い人は、一体どうすれば自分の意のままになるものかと土方の悩みは尽きない。

 

そんな切ない心裡も知らずに、総司はまだ縋るような瞳を向ける。

「土方さん、障子を開けてもいいですか?」

「駄目だ」

「雪を部屋から見ろと言ったのは土方さんなのに・・・」

「元気な時にしろ」

「それでは雪が止んでしまいます」

「熱がある奴は大人しく寝てやがれ」

勢いよく火が熾る火鉢に鉄瓶を乗せると、漸くゆっくりと総司の貌を覗き込む。熱があるとは思えぬような、雪の色をそのまま映したような白い貌に、土方の端正な貌は再び眉根を寄せた。

 

「あまり飯を喰っていないと聞いたぞ」

「ちゃんと食べています。量が多いから食べ切れないだけです」

「源さんが困っていた」

「井上さんが沢山持ってくるのです。元気な人でもあんなには食べませんよ」

言ってくすりと笑う。そんな嘘はお見通しとばかりに土方の表情は厳しい。

 

「喰わなきゃ治らねぇだろうが」

「もう治りました」

「薬も飲まない奴が治るものか」

「飲んでいます」

「ほう・・・庭の外に放り出す事をお前は飲むというのか?」

「・・・・・」

痛いところを突かれ、総司が大人しくなった。あまりにも苦い薬湯を、総司は時々、こっそりと、床の中から庭へと上手に投げ捨てている。井上源三郎にも気付かれないのに、この人には何故こうもお見通しなのか・・・。しかし、その瞳にはまだ悪戯気な色が滲む。

 

「雪を・・・」

「諦めろ」

総司の悪戯気な甘え声にも、次の言葉を継がせる事無く断つ、土方の応えはそっけない。その端正な貌に総司は恨みがましい視線を向ける。

「近くで見ないと六花は見られない・・・」

「六花・・随分と雅な事を言いやがる」

口元を僅かに歪ませて笑う土方に、総司は大きく頷いた。

 

「雪を掌に受けないと見ることは出来ないでしょう?」

「受けてもすぐに融けるさ」

「だからいいのです」

何故、六花・・・雪の結晶など見たいのか、どうも総司の言う事は判じかねる。そんな思いで想い人を見つめていた土方に、その視線を受け止めた総司は、熱で潤んだ薄闇色の瞳を細め、綺麗に微笑んで見せた。

 

突然見せられた花の容貌は、土方に不意打ちを喰らわせた。

ドクンと胸の鼓動が跳ね上がり、グラリと飛び去る理性を、慌てて叱咤し連れ戻すと、無理矢理に己の心裡に押し込めた。それから深く深く溜息をつく・・・危うかった。

 

「でも風流じゃないですか?・・豊玉宗匠?」

そんな心裡も知らず、悪戯気な上目遣いで見つめる瞳に土方は表情を崩さない。ここで動揺を見せては、今度は俳句まで持ち出されて、更にからかわれるばかりだ。

いつの間にか叱る側から、からかわれる側に転じている事に気付き、渋面を作った。

 

「雪見の替わりに六花の句でも作って頂けるなら、大人しくするのに」

「言ってろ」

そっぽを向く土方に総司は笑い出す。

 

「土方さんは春の句がお好きですものね。これは無理を言いました」

「・・・・・・」

総司の軽口には、流石の土方も敵わない。

これが夜の褥で、華奢な体が己の腕の中に収まっている時なら決して負けぬものを・・・。熱があっては手も出せぬ・・・土方は己の心裡に苦笑した。

 

「やっぱり見たいなあ・・・」

「そんな物は元気になってから見ればいい」

言い切る土方に、総司は目を丸くしてまた笑い出す。

「雪が止んだら見られませんよ」

「止む前に治せばいい」

「無茶を言うなあ・・」

「無茶なものか。・・・あまり言う事を聞かねぇのなら、お前の床を副長室に移すぞ」

「え?」

その言葉に総司が大きな瞳を見開いた。

 

「俺が見張れば、風邪も逃げ出すだろうよ」

一石二鳥だと、言って口元を歪める土方に、総司は意外な程に狼狽した。瞬く間に朱に染まった貌を見て、今度は土方の方が驚いた。

もしや・・・先程、必死で掻き集めた己の「理性」は飛ばしたままで良かったのかも知れぬ。無言で自分を見下ろす土方の静かな双眸に、総司は更に動揺を隠せない。

 

 

静かになってしまった部屋の空気を切り替えるように、総司の方が口を開いた。

「昔・・試衛館で雪遊びをした時に、土方さんが雪兎を作ってくれた」

突飛な話だが、その言葉に土方も思い出す。

 

「・・・お前は雪だるまを作りたいと言ったな」

「土方さんは寒いから嫌だと言った」

その時の様子を思い出すように総司はくすりと笑う。

「確か、あの後も・・お前は熱を出した」

皮肉気に言う土方に、総司は決まりの悪そうな視線を送った。

 

あれは幼い宗次郎が試衛館で初めて迎えた冬だったか・・・何日か続いた雪の晴れ間の一日。積もった雪に嬉しそうな宗次郎に、近藤と共に雪遊びに付き合った事があった。

散々遊んだその夜、熱を出して寝込んだ宗次郎から、まだ雪が見たいとせがまれ、土方は小さな雪兎をその枕元に置いてやった。

 

朝を迎え、目覚めてすぐに盆の中の雪兎を覗き込んだ宗次郎が、その中身が目に使った南天の赤い実と、耳の緑の葉を残して全て水に還ったのを見つけ、驚いて大泣きした事を土方は思い出す。あの時は宥める近藤・土方も大弱りだった。

 

「・・兎が死んだと大泣きされたな」

堪え切れずに小さく笑う土方に総司は赤くなった。

「そんな事まで思い出さないで下さい」

「あの頃は・・今より言う事を聞く坊やだったがな」

「また子供扱いを・・・」

「されたくないなら早く治せ」

「やっぱり無茶を言う」

声を立てて笑い出した総司を暫く見つめていた土方だが、その耳元にそっと唇を寄せた。

 

「・・・大人扱いされてぇなら、早く治して抱かれに来い」

耳朶に囁かれた、まじないのような低い声に、今度こそ黙ったまま真っ赤になってしまった想い人。その唇を軽く盗むと、珍しく声を立てて笑いながら土方は部屋を出て行った。

 

「土方さんっ」

ピタリと閉めた障子の向こうから、漸く声を取り戻した総司の、抗議の声が土方の背に飛んできた。

「・・これも薬だ」

その声に苦笑交じりで低く呟き、おそらく仕事が山積みであろう自室に急ぐ。

 

 

 

静かに降り続く雪は音を断つせいか、時の流れを感じさせない。

夕餉の時刻なのだろう、外が賑やかになってきた。その賑わいに総司は目を覚ました。

いつの間に眠ってしまったのか・・・暫くぼんやりと天井を見つめる。体が重く感じるのは、熱がまだ引かない為だろう。総司は小さく溜息を漏らし、水を飲もうとゆっくりと起き上がる。枕盆に目を向けると、いつの間にか、もう一つ小さな盆が置いてあった。

 

「あっ」

それを視界に捉え、目を丸くした総司は、次に花が綻ぶように微笑んだ。

 

――このままの格好で姿を見せたら、あの人はまた怒るだろうか。

・・・でも。

 

総司は夜着のまま部屋を飛び出した。

 

 

 

 

「・・総司、起きているかい?」

部屋の中からの応えはない。井上源三郎は静かに障子を開いた。

「夕餉だよ。また熱が出たと歳さんに聞いたが、ちゃんと食べないと――」

部屋は空だった。やれやれと溜息を吐いた時、遠く副長室から怒鳴り声が響いた。

 

「何やってやがるっ」

その声を聞き、井上は再び深く溜息を吐きながら、副長室へ悪戯小僧を引き取りに向かう。

 

 

主の居ない部屋の中、枕元の盆に鮮やかな赤い目を持つ、真っ白な雪兎が二羽、仲良く並んで主の帰りを待っていた。



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