『春景』
「試衛館道場から参りました」
日野宿、佐藤彦五郎屋敷。
早暁、江戸を発った島崎勝太(近藤勇)は、陽の傾き始めた刻限に、佐藤屋敷の門を潜った。
桜は、葉桜へと姿を変え、薄紫の藤花が、盛りを迎える晩春の頃である。陽も長い。
しかし、いつも出迎えてくれる家人は元より、人の気配がまるで無い。
勝太は、困ったように首を傾げた。本日訪う事は知らせてあるし、この大きな屋敷に、誰も居ない筈も無い。暫しその場に佇んでいると、何やら裏手が騒がしい。
勝太は、庭を抜け、裏手へと歩を進めた。
建物の角を曲がる時、勢い良く駈け込んできた者に、避ける間もなく強かにぶつかった。衝撃と共に、冷たく濡れた感触があり、勝太は驚いて飛び下がった。
「すまねぇ、濡れたか?」
良く知る声音に、勝太は貌を上げ、次には呆気に取られた。
「・・・歳?」
ぶつかった相手、幼馴染みの土方歳三は、全身ずぶ濡れだった。
肌蹴た着物からは水が滴り、立ち止まっただけで、足元に水が溜まってゆく。髪は解け乱れ、額と頬には大きな擦り傷、そこから血まで滲んでいる。
「・・・水浴びには、少し早すぎるだろう?」
頓狂な事を言う勝太に、歳三は笑い出した。そのまま髪から伝う雫を、鬱陶しげに振り払う。その勢いに、髪を纏めていた細紐が、スルリと濡れ髪を滑り落ちた。
「着物のまま浴びるかよ。宗次郎が、井戸に落ちたんだ」
「何っ?」
裏手の騒ぎは、今は落ち着いている。
「宗次郎は何処だっ?」
「裏に居る。頭から落ちたんで、気を失ったが―」
「宗次郎っ」
勝太は、凄まじい勢いで駈け出した。
「・・俺の事は、いいのかよ?」
歳三は、苦笑しながら、もう見えぬ親友の背に毒づいた。
井戸端近くの濡れ縁に、歳三の姉、のぶが立っていた。他に、二人の下男の姿も見える。
「おのぶ様っ」
怒声にも近い声に、のぶは、飛び上がるように振り向いた。
「若先生?すみません、お出迎えもせずに・・・」
「宗次郎は何処ですっ?」
勝太の目に、縁に横たえられた小さな躰が映った。
転(まろ)ぶように近付いた勝太は、色を失った。宗次郎は、歳三と同じく、強かに濡れている。目に見える傷はないが、固く目を瞑ったまま微動だにしない。
「大丈夫ですよ、若先生。大きなコブが出来ただけです」
下男の一人が、明るく笑った。
「何を悠長な事をっ」
腹に響くような勝太の怒声に、一瞬、空気が張ったが、次には皆が吹き出した。
「大丈夫ですよ。歳三が抱きかかえていましたから」
笑みを含んだ、おのぶの声に、勝太は歯を喰いしばる。
「井戸に落ちて、無事な訳がないでしょうっ」
「そりゃあ、井戸端に頭をぶつけましたからね」
呑気な応えに、勝太は苛立ちを隠せない。
「歳三が、もう少し早く止められたら、濡れずに済んだのですよ」
「御新造様、歳三さんは早かったですよ」
「宗次郎さんは、小さいですからね。スルっと落ちてしまった」
のんびりと続く遣り取りに、勝太は、怒りを必死に押さえ込む。
「勝っちゃん、心配ねぇよ」
廊下の奥から掛かった声に、勝太は厳しい目を向けた。頭から手拭を被った歳三が、単衣に着替え、足早に近付いてきた。
「姉さん。今、風呂を焚いて貰っている。宗次郎が目覚めたら一緒に入るよ」
「そうなさい。風邪を引いたら大変ですからね」
「着替え、これでいいな?」
差し出された着物を受け取り、のぶが苦笑した。
「あなたのじゃ、大きすぎるでしょう?」
「繋ぎなら、充分だろ?」
のぶが、手早く着替えさせる様子を、歳三と下男達は覗き込んでいる。
「コブ・・・でかいなぁ」
「暫く痛むでしょうね」
「冷やすだけで平気かな?」
勝太はもう、堪えきれなかった。
「歳っ、何を呑気な事言ってやがるっ」
皆、呆気にとられた。
真っ赤になって怒る勝太を暫し見つめ、今度こそ、佐藤家の人間は大笑いした。
宗次郎を間に挟み、勝太と歳三は縁に座り込んだ。勝太は、まだプンプン怒っている。
「宗次郎は大丈夫だよ。・・そんなに怒るなよ」
「一体、何処が大丈夫だっ、井戸に落ちるなんて一大事だっ」
歳三は、涙目で捲し立てる勝太を、驚いたように見つめた。
「・・落ちた事、ねぇのか?」
「ある訳ないだろうっ」
「俺は、あるぜ」
濡れ髪に手拭を被ったまま、歳三が笑った。その手は、ゆっくりと宗次郎の髪を拭いている。
「それに、こいつが井戸に落ちたのは、これで二度目だよ」
「え?」
「まあ、ここの井戸には二度目だが・・・沖田の家までは、俺も知らねぇな」
「何で・・・」
呆然とした勝太に、歳三は苦笑した。
「まあ、一度目は俺達も驚いたけどな」
「何で、そんな・・・」
「・・・十七にもなって、泣くなよ?」
「泣いてなどいないっ」
言った傍から涙を零した親友に、歳三は目元を笑ませた。
「一度目は、水を汲み上げていて、釣瓶と一緒に落ちたんだ。・・・あれは驚いた」
小さく笑う歳三を、勝太は呆然と見つめた。
「釣瓶と・・・?」
「こいつは身が軽いからな。桶の水を引き上げようとして、重さに負けて落ちたんだよ」
「・・怪我は、しなかったのか?」
「少し擦りむいた。・・・井戸に助けに入る方が、余程大変だったぜ」
「お前が入ったのか?」
「俺の目の前で落ちたからな」
歳三は、肩をすくめた。
「・・・今日は、何故落ちた?」
「井戸端に腰掛けていて、ひっくり返ったんだよ」
勝太は、仰天した。
「咄嗟に手を伸ばしたんだが・・・まあ、気を失ってから落ちたから、水も飲まずに済んだし、上々じゃねぇか?」
少しも上々ではない。勝太は、恨めしげに歳三を睨む。
「仕方ねぇだろうが。抱きかかえるのがやっとだったんだ」
歳三の貌の傷を見れば、庇って落ちたのは容易に知れる。
勝太は、恐る恐る宗次郎の頭に手を遣った。指先に大きなコブが触れ、慌てて手を引く。歳三は、笑い出した。
「勝っちゃんに会えるってんで、はしゃいでたんだよ」
「俺に・・?」
「この前の出稽古は、大先生だったろ?お前に会えなくてガッカリしていたからな」
勝太は、困惑のまま、歳三を見つめた。
「随分と懐かれてるじゃねぇか、若先生?」
歳三のからかい声に、更に動揺する。
「何度か遊んでやっただけだ」
「何だって、いいじゃねぇか」
うろたえる勝太に、歳三は笑い出した。
「それに、入門すれば弟弟子だろ?」
「まだ七つだ。・・早すぎる」
「早いに越した事はねぇだろうが?」
やけに積極的な歳三を、勝太が珍しそうに見つめた。
「こいつは、剣が立つ」
声が、弾んでいる。
歳三が、宗次郎に竹刀を持たせたのは、出会って間もない頃だった。
出稽古に訪れた近藤周助の教授に背を向け、一人、草むらで竹刀を振っていたら、いつの間にか、宗次郎がすぐ後ろで見つめていた。
後ろを取られる不覚さに苦笑しつつ、面白半分、小さな手に竹刀を握らせてみると、宗次郎は、新しい玩具を与えられたように無邪気に喜んだ。
そのまま持ち方、振り方など教えてみたら、驚く程に飲み込みが早い。
小さな宗次郎の為、屋敷の蔵から小振りの竹刀を引っ張り出し、更に教えた。上達の早さに、歳三は夢中になった。
義兄(あに)の彦五郎に、それを話した。自身が慣らしたと、自負もあった。
お前の我流など教え込むな、と、釘をさされたが、聞く歳三でもない。
それからは、毎日のように宗次郎の相手をした。この小さな美しい人形は、その見掛けからも、いつも歳三の予想を大きく裏切る。その嬉しい裏切りに、歳三は心酔した。
彦五郎に、宗次郎の入門を薦めているのも歳三である。
「歳、お前は入門しないのか?その方が先だろう?」
「俺は、近々奉公に出る」
「奉公?」
驚く勝太に、歳三が頷いた。
「大伝馬町の呉服屋だとさ」
「・・もう、奉公には出ないと思った・・」
「十六じゃあ、遊んでもいられねぇだろ?」
小さく笑う歳三を、勝太は複雑な表情で見つめた。
十一の時、上野広小路の奉公先から日野までの道程を、夜っぴて戻って来た武勇伝は知っている。如何にも歳三らしい逸話だが、元より商人になる気など無いのだから、当然の仕儀と、勝太は考えている。
「・・ならば、そこから試衛館に通えばいい」
「無理を言うな」
歳三が、苦笑した。
「無理なものか、それに」
言葉を切った勝太に、歳三は、宗次郎の髪を拭く手を止めた。
「それに、何だ?」
「宗次郎が先に入門したら、お前、宗次郎の弟弟子になるぞ」
「弟・・弟子、だと?」
瞬時に貌を顰めた歳三に、勝太は破顔した。
「今は、宗次郎の師匠なんだろ?・・体裁が悪いぞ?」
「言ってろ」
歳三は、貌を顰めたまま、宗次郎の髪を拭き続ける。
「それにしても、井戸に落ちるなんて・・・」
勝太の苦い声に、歳三は笑った。
「前に落ちてからは、水汲みに気をつけるようになった。何事も勉強だ。同じ失敗をしなきゃいい」
「それにしたって、危ないなぁ・・」
固く目を瞑ったままの小さな面は、長い睫毛が影を落とし、やや蒼白い翳りを見せている。透けるような白い肌、淡い朱を刷ったような頬、形のよい紅い唇。今は閉じられた大きな瞳も含め、人形のような造作を持つ宗次郎である。
「勝っちゃん。・・こいつの見掛けに騙されるなよ?やんちゃなんて生易しいもんじゃねぇぞ」
歳三の渋い声に、勝太は、親友の端整な貌を見つめた。『やんちゃ』など、宗次郎に一番遠い所にある言葉に聞こえる。
「こいつは、冬の多摩川にも飛び込んでいるからな」
「え?」
勝太が、呆気に取られた時、宗次郎が僅かに身動いだ。
「宗次郎?」
薄く開いた薄闇色の瞳が勝太を捉え、暫しぼんやりと見つめる。
焦点の合わぬ様子に、勝太は、ヒラヒラと手を振ってみせた。
「宗次郎、大丈夫か?・・わかるか?」
「・・・・わか、せんせ?」
呂律が、怪しい。
「歳っ、様子が変だぞっ」
「寝惚けてるんだろ?」
歳三は、落ち着いたものである。
小さな面を覗き込むと、指で軽く額を弾く。宗次郎は驚いて首をすくめた。それから、大きな瞳を見開いて、覗き込んでいる二人を交互に見つめた。
「こら、チビ助」
「歳三さん・・」
「だから、危ねぇって言ったろうが?」
歳三は、小さな躰をゆっくりと抱き起こす。
「痛い所はないか?」
宗次郎は、コクリと頷いた。着せられている大きな着物を不思議そうに眺め、それから、眉根を寄せて頭を触る。
「・・ここ、痛い」
「当たり前だ。でかいコブが出来たぞ」
手拭を被ったままの歳三を見上げ、宗次郎は、おずおずと口を開いた。
「井戸、落ちた?」
「落ちたよ」
「歳三さんも、落ちた?」
「ああ」
歳三は、宗次郎の複雑な表情を見咎めた。
「・・何だ?」
「大きくなっても、落ちるの?」
「ばかっ、俺は、お前を止めるのに落ちたんだよ」
吹き出した勝太を睨みつけ、歳三は、再び小さな額を軽く弾いた。
「他に、痛い所はねぇか?」
「はい」
「気持ち悪くは?ちゃんと見えてるか?」
「はいっ」
このチビ助の、判で押したような応えは信用ならぬ。
「・・・本当を言っているな?」
「はい」
額が触れるほどに、間近で合わせた薄闇色の瞳は、逸らす事無く歳三を見つめる。
歳三は、ひとつ溜息を吐くと、小さな躰を掬い上げる。浮き上がる不安定さに、宗次郎が、歳三の首に縋りついた。
「風呂入るぞ。寒くってしょうがねぇ」
「歳三さん」
小さな手が、歳三の、頬と額の傷をそっと撫でる。
「痛い?」
「痛くねぇよ」
「本当?」
「本当だ。ゆくぞ」
「はい」
廊下の角、歳三の肩越しに、宗次郎がひょっこりと貌を出した。
「若先生、もう帰るのですか?」
勝太は、目を丸くする。
「まだ居るよ」
「稽古は終わったのですか?」
「稽古は、明日だ」
小さな面が、嬉しそうに輝く。
「今日は、遊べますか?」
勝太は、笑って頷いた。
「ちゃんと温まっておいで」
宗次郎も、笑顔のまま廊下の角へ消えていった。
風呂上がり、三人は勝太の滞在する部屋に落ち着いた。
歳三は、宗次郎の頭に冷やした手拭を乗せ、冷たい水を飲ませている。手馴れた世話の焼き方には、同じような事が幾度かあったと語られるようで、勝太は苦く笑った。
「宗次郎は、剣術が好きか?」
「はい」
「明日、道場で見るか?」
勝太を見上げ、宗次郎は、首を横に振った。
「姉さんが、駄目って言います」
「お光さんが?」
小さな面は、神妙に頷く。
「きちんと手習いが出来るようになるまで、剣術は駄目って」
「・・・宗次郎は、手習いが嫌いなのか?」
再び、首を振る。
「一人だと、面白くない」
「一人・・?」
勝太と歳三は怪訝な貌をした。寺子屋で、一人の筈もない。
「今、何を習っている?」
「源氏物語」
「源氏物語?・・・寺子屋で?」
勝太の声が、ひっくり返った。宗次郎は、憂い顔で首を振る。
「寺子屋は、論語と書き取りと算術・・これは好き。源氏物語は、ウチ・・これは嫌い」
「家って・・・お光さんが教えているのか?」
「はい」
話が、飲み込めない。
「とても良い話だから、覚えなさいって。・・でも、面白くない」
「・・そうだろうな。あれは、歳に向いた話だ」
歳三は、勝太を睨めつけた。
「でもね、若先生。剣術はね、歳三さんが教えてくれます」
「歳が?」
「はいっ」
宗次郎は、誇らしげに歳三を見上げる。
「歳三さんは、強いのです」
「そうか、良かったな」
「はいっ」
勝太が視線を向けた時は、天邪鬼な親友は、もう、そっぽを向いている。
「歳が奉公に出たら、宗次郎は寂しくなるな」
「はい」
勝太を見上げ、宗次郎は憂い顔で頷いた。
「大伝馬町はね、若先生の道場より遠いって、おのぶ様に聞きました」
「そうだな」
「一緒に居たいのにな」
歳三は、目元を笑ませた。危うく頭を撫でそうになり、寸での所で手を止める。
「俺の居ない間は、きちんと手習いをしろよ?そうすれば、若先生に剣術を教えてもらえるぞ」
「そうしたら・・・」
「そうしたら?」
「歳三さん、奉公から早く帰る?」
見上げる薄闇色の瞳に、歳三は、困ったように笑った。
「お前が、ちゃんと手習いをしていたら、な」
「源氏物語も?」
沈んだ声音に、二人は吹き出した。
「女に付き合うのも、大事な事だぞ?」
「おい、歳っ」
渋面の勝太に苦笑しつつ、歳三は続けた。
「知っておいて、無駄もないだろ?」
宗次郎の頭に乗せた手拭を取り、盥に浸す。
「もう、井戸端に座らねぇのと同じ事だ」
宗次郎が、小首を傾げた。
夕陽の中、勝太は、何とも微笑ましい光景を見た。
長い影を共連れに、大小二つの影が、ゆっくりと黄昏に溶けてゆく。
そのうち、大きな手が無造作に隣へ伸ばされた。背の高い影に、遥かに追い付かぬ小さな影は、その指先だけを握り締める。
歳三は、繋がれた指を気にするでもなく歩き続ける。少しして、僅かに躰を傾け、小さな手を掌に包み込んだ。春の柔らかさにも似た、優しい景色だった。
「あまりに、あの子らしくないでしょう?」
勝太の背に、のぶの笑い声が掛かった。
「あれが、あの暴れ者だと言うのだから驚いてしまう」
勝太も、笑った。
「歳は、宗次郎と一緒だと貌が優しくなっている。・・言えば、怒るだろうな」
「友達なのだそうですよ」
「友達・・?」
目を丸くした勝太に、のぶは、笑いながら頷いた。
「一番小さな、友達」
師匠で、友達。
「益々・・・入門しない訳には行かないな」
勝太の笑い声は、晩春の風に流れてゆく。
――明日の稽古には、あの天邪鬼な親友も誘ってみようか?
了
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